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令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介(優良賞)
2024/09/26
『あなたはどう思いますか』
 萩市立萩東中学校 3年 花木 阿玖里

 「あなたはどう思いますか。」この単純な問いの答えに詰まる人がどれほどいるでしょうか。
 「日本人は自分の意見をはっきりと言わない。」これは以前から言われてきたことです。私も、身の回りで意見をはっきりと言う人は少ないと感じます。私がそう感じたのは、生徒総会などの学校の話し合いの場です。もちろん発言をする人が全くいないという訳ではありません。しかし多くの人は発言をしていないと思います。では発言をしない人には意見がないのでしょうか。私はそうではないと思います。なぜなら議題について直接たずねてみると、意見をしっかりもっている人が多いからです。意見をもっているのに話し合いとなると、その意見をはっきり言えないのはなぜでしょうか。
私は、自分の意見をはっきり言えない理由は複数あると思います。まずは、周りの目を気にしてしまうということです。自分の意見が少数派であれば、意見を言わない人は多いと思います。周りから、「まとまりそうな話し合いに水を差す意見だ。」とか、「なんなんだこの人は。」と思われないためです。他には、今まで自分で考え、意見を言う機会が少なかったということにあると思います。確かに、学校では自分で考えて行動するより、先生の指示に従って動く経験のほうが多いように感じます。そんな学校生活を送ったために自分の意見を主張することに慣れていないという人は多いのではないでしょうか。
 これまで自分の意見を言えない理由を二つ挙げましたが、その二つには「同調圧力」が関わっていると私は思います。「同調圧力」とは、「個人が他人と意見を合わせるように誘導させられること。」です。そう、まさに一つ目の理由と重なっています。では、二つ目の理由とどう関わっているのでしょうか。私は日本で同調圧力が生まれやすい原因が二つ目の理由の中にあると思います。日本の子どもは「他の人と合わせること」や「指示を素直に聞くこと」がよいと学校で教えられます。つまり、意見を言うことではなく、同調することがよいと教えられるのです。私は、「同調圧力」が完全に悪いものだとは思いません。周りと合わせ、争いを起こさないことでよいことも、もちろんあるからです。しかし、世の中がグローバル化し、様々な人と関わる今の時代、意見をはっきり言わず、相手に合わせることは本当によいことだと言えるでしょうか。私はそう思いません。交渉や話し合いの場で相手に合わせていれば、圧倒的不利な状況になることもあると思うからです。
 ではどうすれば、自分の意見を言える人が増えるでしょうか。私は、日本で「同調圧力」が生まれやすい原因は、学校で同調することがよいと教えられることにあると述べました。だから同調することよりも、意見を言うことの方が大切だと、学校で教えることが「同調圧力」を生まれにくくし、みんなが意見を言える世の中を作ることに繋がると思います。
 また私は、意見を言うのが苦手という人に聞きたいことがあります。「意見を言われることも苦手ではないか。」ということです。意見を言えば周りから悪く思われるかもしれないというのは、裏を返せば意見を言う人のことを、自分が悪く思っているということではないでしょうか。自分の意見に対して意見を言われると、自分自身を否定されていると感じる人は案外多いと思います。しかし、反対意見を言われることは、自分のことを否定されているのではなく、自分の意見についてしっかり考えてもらえていると捉えるべきです。そのように捉え、お互いにたくさん意見を出すことで、活発な議論が行われるようになると思います。
 「同調圧力は結局残る。」「日本人が意見をはっきり言えるようにはならない。」そう言う人もいるかもしれませんが、そう言っている間は変わりません。皆が「意見を述べること」に対しての考え方を変え、活発に議論をしたり、同調することをよしとしている教育を変えたりできれば、発言しやすい世の中になり、意見をはっきりと言える人は増えるのではないでしょうか。この意見「あなたはどう思いますか。」


 

令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介(優良賞)
2024/09/26
『自分らしく生きるために』
 萩光塩学院中学校 3年 二宮 史織

 私は、将来自立して生きるため、学校には行かなくてもいいけれど、勉強はしなければいけないと考えます。学び方は、その人に合った学び方で学ぶといいと思います。学校は死ぬような思いをしてまで行く場所ではありませんが、学校に行くと、質の高い教育が受けられることと同時に、コミュニケーション能力などの社会性を身につけることができます。最近は不登校の児童生徒が増えているというニュースをよく見ます。現在、中学校では約20万人の人が不登校のようです。不登校になる最初のきっかけは体調不良が32.6%と一番多く、最初と別の理由としては勉強がわからないことが41.8%でした。私は小学校5年生の頃からあまり学校に行っていませんでした。そのため、5年生の算数が今でも分からず、基礎が抜けています。このことから学校での学習は大切だと分かりました。
 家でも学習する方法として、オンラインで、家でも学校の授業が受けられるようにすることと、子どもの自由を尊重するフリースクール制度を利用することが挙げられます。また、家族からの理解・協力も大切です。家族を含めた誰もが、なぜ学校に行けないんだというような否定的な考えではなく、学校に行けているだけでもすごいという視点を持つことが大事です。受け入れられているということで、自分の心持ちが軽くなります。
 アメリカでは、自宅で勉強する「ホームスクール制度」が確立されています。ホームスクール制度は義務教育として認められており、自宅で親や派遣教師から勉強を教わります。つまり、学校以外で学校と同等の教育を受けられるということです。教育を受ける場を選べるアメリカでは、不登校に対する捉え方が日本とは違います。
 学校に行き始めた頃、私は遅刻して行き、早退することから始め、少しずつ学校にいる時間を増やしていきました。私は遅刻・早退をするとき、荷物が目立ってみんなに注目されてしまうのが嫌だったので、学校の人と遭遇しないでいける、個別の部屋を用意してもらいたかったです。他にも、クラスの担任ではなく個別の先生がついている、自分が好きなタイミングで帰ることができる、先生が学校に行くことを強制しない、なにもすることのない時間がないこと、メールなど話す以外で先生に意見を伝える方法がある、先生が不登校に理解があり、どう対応すればいいのかわかる、ということがあると安心だと思います。担任の先生がすべて対応してくださっていたので、授業中はやることがなく、課題があっても説明がなくてやり方がわからず、一時間何もすることがないというような時間が多かったです。だから、こんな配慮があればもっと学校に行きやすかったと思います。
 社会性を育てるためには、とにかく人と関わることが重要だと考えました。オンライン対話や文通、家族と話すなど身近な人でもいいからとにかく話すことです。自分の意見を分かりやすく伝え、相手の立場を認めながら聞く力が身に付きます。学校では、友達や先生と関わりながら、コミュニケーション能力を身につけることができます。努力する力なども身につきます。学校は苦しい思いをして行くところではないけれど、得られるものがたくさんある場所です。私は将来、自分の経験を生かし、スクールカウンセラーになって、苦しさは取り除いてあげたり、共感してあげたりして、少しでも心のおもりを軽くして、前を向いて生きていけるようにしてあげたいです。
 何もしないのはとにかく健康に悪いと思います。だから学校に行かなくても、規則正しい生活習慣を保ち、これから何年も付き合っていく体なので未来の自分の身のために、自分の身を守ることが大切だと考えます。一日三食食べて、運動して、決まった時間に起きて寝ることが勉強よりも大前提として一番大切なことだと思います。
 このように学校に行っていなくてもやれることはたくさんあります。学校に行きたくないのなら無理をして行くことはありませんが、自立に向けて、行かないなりに、学ぶことは重要です。自分で自分の未来を選択し、自分らしく生きるために努力を続けることが大切だと考えます。


 

令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介(優良賞)
2024/09/26
『配慮と差別の境界線』
 田布施町立田布施中学校 3年 山本 小春

 私はアセクシャル、無性愛と呼ばれるセクシュアリティをもっている。
 近年、LGBTQ+の言葉や理解が深まったことにより、私のような珍しいセクシュアリティへの偏見が少なくなっている。そして偏見が少なくなるだけでなく、それを個性として認めてくれるようになった。
 だが、最近これらが認められるようになり、ある問題が表に出てきた。それは、配慮と差別の境界線をどうするかという問題だ。
 私は以前、好きな人について聞かれたことがあった。その時は、この質問には特別何とも思わなかったのだが、別の友人に「小春は少し考え方が違うから話変えよう」と言われたことがあった。私は、このセリフがどうにも頭から消えなかった。その友人も、私のことを思って話を変えてくれたこともわかっていたのだがどうしても、消えなかった。
 そんなとき、「ポリティカルコレクトネス」のやりすぎが問題とされていることを知った。私はこの問題を知ったとき自分と同じようなことで悩んでいる人がいるのだと初めて学んだ。「ポリティカルコレクトネス」「ポリコレ」とは性のことに限られたものではなく人種や年齢、障害の有無などによるマイノリティ・社会的弱者を守るものであるのだが、この「ポリコレ」というものに配慮しすぎており、最近ではその本来の目的が忘れられているように感じる。それは、インターネット上での炎上や映画などの作品群への表現の制限などだ。
 本来、人を守るためにある「ポリコレ」をインターネット上での攻撃として使ってもよいのだろうか。そして、「ポリコレ」によって表現を制限してしまっても良いのだろうかと思う。
 インターネット上では、「ポリコレ」への配慮ができていないと炎上したり、逆に「ポリコレ」への配慮が難しいということで共感を呼んだり、とても線引きが困難な状態がある。そのため、インターネットというとても広い世界での「ポリコレ」に関するルールや常識を作りそれをたくさんの人で発信することができればそこからインターネット上だけではなく現実でも使えるものになると考える。また、「ポリコレ」についてのルールや常識を作ることで、今よりもよりよい作品製作が行えるのではないだろうか。そして本当の意味での表現の自由がなされると思う。
 加えて、私が以前経験したように配慮したつもりであってもそれが別の意味や差別のように感じられることがある。その感じ方は、人によって違いが少なくとも生じてしまうため「ポリコレ」に関するルールや常識はより多くの人と話し合い、多くの変化を繰り返しながら決めていくものだと思う。
 だからこそ、たくさんの人が利用しているインターネットを使うことはこの問題にとって有効だ。
 このように、差別や偏見が順調に少なくなってきて、私のような珍しいセクシャリティをもつ人が生活しやすくなっている中、配慮と差別の線引きが難しくなってきている。
 そのため、私はインターネットを用いて、たくさんの人と話し合い、配慮と差別の違い、そして「ポリコレ」へのルールや常識をつくることによって「LGBTQ+」や「ポリコレ」などの発信をしやすくすると同時に今まで明確に決まったルールがなく手探りであっただろう映画などといった作品群がこれにより本当の意味での表現の自由になるのではないだろうか。
 そして、今まで「LGBTQ+」や「ポリコレ」といったものを自分は関係がないと思っていた人にも作品を通して知ってもらうことができるのではないだろうか。
 最後に、このように配慮と差別、そして、「ポリコレ」などのルールや常識ができ、どの立場にいる人であっても明るく楽しく過ごすことのできる未来がやって来ることを心から願っている。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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