令和5年度少年の主張コンクール 発表作文紹介
2023/09/07
☆☆☆最優秀賞(県知事賞)☆☆☆
『「命の尊さ」』
長門市立仙崎中学校 3年 美濃 穂乃花さん
「命」この地球上に生きるすべての生き物に与えられた、かけがえのないもの。しかし、時として、それは平等でなくなることがあります。
生命の尊さを数多く詠んだ詩人のひとりに金子みすゞさんがいます。彼女のふるさと仙崎に、私の通う中学校があり、その校舎から見える仙崎湾は、いつも私を優しく包み込んでくれます。私は、そんな海をいつまでも守りたいと思い、先日、長門市の一斉海岸清掃で、青海島海岸の清掃ボランティアに参加しました。しかし、現地に着くと、そこに広がっていたのは、私がいつも見ていた美しい海ではありませんでした。私の目に飛び込んできたのは、ゴミで埋め尽くされ、足の踏み場もないほどの海岸だったのです。大量に流れ着いたペットボトルやプラスチックごみ、中には他国から流れてきたものもありました。私はその現状に「えっ。」と言葉を失いました。
そんな中、私はある光景に衝撃を受けました。ゴミが絡まり、陸へ打ち上げられ、動けなくなっていた十センチほどの一匹の魚がいたのです。絡まっていたゴミを丁寧に取って、海に返しても浮かんだままの魚の姿を見て、「痛かったよね。苦しかったよね。ごめんね…。」と、胸が締め付けられる思いでした。私たちが一度汚し、壊してしまった環境は、そう簡単には元に戻らず、多くの命が犠牲になっているのです。魚も人間も同じ命のはずなのに…。
近年、プラスチックごみの環境問題が取り上げられ、海岸生物の生態系や命の危機を報道等で目にすることが多くなりました。今まで青く澄んだ日本海しか見たことがなかった私は、この問題は自分には関係ないものだと思っていました。
しかし、実際には私が気づいていないだけで、身近なところで環境破壊や様々な問題が起こっていたのです。私の軽率な行動で、魚をはじめ多くの小さな命を奪っていたかもしれない。そう思うと、自分の醜さを感じられずにはいられませんでした。「魚一匹ぐらい…。」と、私は命を甘く見ていたのです。
インターネットで検索してみると、プラスチックごみによって死んでしまったクジラやカメの記事、そして写真が驚くほど多く掲載されていました。地上では、私達人間が悠々自適に生活し、海の中では、魚をはじめ多くの命が消えているという現状。これは、金子みすゞさんの「大漁」という詩と重なります。
『朝焼け小焼けだ、大漁だ。大羽鰮の大漁だ。浜は祭りのようだけど、海の中では何万の、鰮のとむらいするだろう』この詩の「生きることと死ぬこと(生かされていること)」「喜びと悲しみ」によって、みすゞさんは、大漁を喜ぶ人間側ではなく、弔いをする鰮の目線でこの詩を書いています。みすゞさんが、この詩に込めた思いのように、私たち人間は多くの命から生かされているのです。だからこそ、命に感謝するために「いただきます」という言葉は大切です。「命をいただく」ということは、私達はその生き物から命のバトンを託されたのです。しかし現在は、人間が地球環境を荒らし、人間が地球や他の生き物を傷つけています。この問題は都会に限ったことではありません。実際に、ここ長門・通でも現在起こっている重大な問題です。昔、まだみすゞさんが仙崎にいた頃は、長門・通の人々は魚やクジラの命をとても大切に扱っていました。捕獲したクジラを祭ったお墓の鯨墓に子鯨の墓があるのは、長門・通だけです。捕獲されたクジラのお腹の中の子は、湾が見渡せる小高い丘に埋葬されました。通の人々は、海を知らぬまま消えた命に伝えたかったのです。「家族や仲間はここ(湾)におるけーね。」と。
昔の人々の思い、あるいは、みすゞさんの詩に込められた優しさは、今の時代、一体どこへ行ってしまったのでしょうか。
現代社会を生きる私達若者も、今の大変な時代を一生懸命牽引されている大人の方々も目の前の現実(見えているもの)のまなざしをひっくり返して考え、痛みを分かち、寄り添い、尊い命を大切にできる世の中を目指すことが大切なのではないでしょうか。
詩人「金子みすゞ」のふるさと、仙崎に生まれ、みすゞさんが育った町の風土の中で、朝に、夕に、王子山から眺めた同じ景色を、私も今見ています。私も同じように相手の心の痛みのわかる優しい心をもって生活していきたいです。
たかが、魚一匹の命ではない。だって、その魚にも家族や生活、未来があったのだから。この地球は人間だけのものではありません。だからこそ私は思い続けます。
「尊い命をありがとう。」
☆☆☆優秀賞(県教育長賞)☆☆☆
『障害者と共に』
下松市立久保中学校 3年 田端 優月さん
私には、二つ下の天使のような弟がいます。弟にはダウン症候群という重度の障がいがあります。ダウン症候群とは、二十一番目の染色体が、通常より一本多い三本あることで起こる障がいです。それにより、成長のスピードがゆっくりで、物事を理解するまでに時間がかかります。弟は今中学一年生ですが、はっきりと話すことは難しく、平仮名を書くことも苦手です。しかし、だれよりも笑顔で楽しく毎日を過ごしています。
私は障がいのある弟と生活していく中で、たくさんのことを学びました。そして、時には弟から助けてもらうこともありました。
私が試合や大会で負けてしまい、悔しくて自分の部屋で一人泣いているときのことです。弟が私の部屋に入ってきて、はっきりとした声で「大丈夫?」と優しく声をかけてくれました。そして、「よしよし」と言いながら私の頭をなでてくれました。他にも私が落ち込んでいると、弟は得意なダンスを見せてくれたり、「姉ちゃん、来て。」と私に声をかけてくれます。いつも弟らしい励まし方で、私に大きなパワーをくれます。
そんな自慢の弟ですが、世間では障がいがあったり、人と違ったりすることで差別されることもあるようです。
ある日のことです。クラスメイトがある子を遠巻きに見て、ニヤニヤ笑って話していました。そればかりか、自分の机をその子の机から、まるで汚いものであるかのように動かしていたのです。私はそれを見て、思わず涙がこぼれました。その子は自分の感情をコントロールすることが難しいという特性があるけれど、誰よりも温かい心の持ち主です。私が困っていると声をかけてくれ、助けてくれたこともありました。だからその子がいじわるをされ差別されている様子を見ると胸が苦しくなりました。何も悪いことをしていないその子や、その家族のことを考えると、涙がこぼれました。だから、みんなにその子を避けるのではなく、たくさん接してそのこのいいところを知ってほしいと心から思いました。弟がいてくれたおかげで、私は世界中にあるいろいろな障がいや病気について知りました。また、障がいのある方やその家族の方と知り合い、話をしたり一緒に遊んだりできました。その中で感じたことは、社会を変えていかなければいけないということです。
障がいのある方やその家族は、将来に不安を抱えておられるそうです。一般的に健常者は進学、就職をして自活することができます。しかし、障がいのある人は、個人差がありますが、自分で収入を得て一人で生活することは難しく、誰かの手助けがないと、一人で生活することは困難です。だから、子供が大人になってからのことや、自分たちが亡くなった後の子供のことが心配だと、障がい者の家族の方は話しておられました。その話を聞いて、私は少しでも不安が消えるように、個人だけではなく、社会全体で環境を整えていくことが大切だと感じました。
私は差別や偏見は、相手のことをよく知らないから起こるのだと思います。相手のことをよく知らないから不安になり、誤解や偏見が生まれます。だからまずは、相手について知ろうとすることが大切です。障がいの有無に関わらず、人にはみんな素敵な長所があります。だから、障がいという概念だけで判断し、排除するのではなく、同じ人間としてたくさん触れ合ってお互いの長所を知れば、差別も偏見もなくなるのではないでしょうか。
私は将来障がいのある方やその家族、健常者など誰でも気軽に集まって交流できる場をつくりたいと考えています。障がいがあってもなくても、誰もが尊重される世界が実現できたらいいなと思っています。そのために、皆さんの人を思いやる行動が必要です。
☆☆☆優秀賞(県民会議会長賞)☆☆☆
『人は言葉と生きている』
山陽小野田市立小野田中学校 3年 上田 楠々さん
あなたの大切にしている言葉はありますか。私の大切にしている言葉は、「努力は一瞬。でも後悔は一生。」です。
私の父は、言葉をとても大切にする人です。怒っていても、失敗したりしても、感情的にならずにみんなを仕切りまとめます。それで、父はみんなから慕われ、そんな父を、私も慕っています。
私は、なぜそんなにも人に慕われているのか、失敗が怖くないのか、気になって父に聞きました。
「お父さんって、失敗が怖くないの?何でそんなに勇気があるの?」
そう言うと父は、
「大切な言葉を信じて生きているからな。大切な言葉をつくれば、何でも頑張ろうと思える気持ちになるよ。つらかったり、悲しかったりするときは、その言葉をいつも心の中で唱えて、やる気を出しているよ。」
と教えてくれました。私が、
「お父さんの大切にしている言葉って?」と聞くと、「死ぬこと以外はかすり傷。」そう答えてくれました。私はその言葉を聞いて、いかにも私の父らしく、かっこいい言葉だと思いました。私は父を見習って、見つけました。
その言葉は、私の人生の支えになっています。
私自身、人前で喋ったり、説明をしたりすることが苦手です。だから、自分から進んでそのような場に行くということはありませんでした。しかし、父の言葉を聞いてからは、その言葉を信じ、人前で話すことも頑張れました。
私は、言葉というものを、とても大きなエネルギー源だと思っています。実際に、「ありがとう。」「助かったよ。」などの言葉をもらえると、「うれしい、もっと頑張りたい。」と明るく、温かい言葉で心がいっぱいになります。私は、「この言葉が、世界中にあふれれば、どんなに幸せなのだろう。」と考えます。
ですが、言葉というものは時に残酷で、人を傷つけてしまうことがあります。例えば、私が分かっていても、言葉で上手に言い表せなかったりするとき、「こんなのも分かんないの?考えたら分かるでしょ。」などと言われたり、本当は何も悪くないのに、何かと言いがかりをつけられて、一方的に傷つけられたりなどです。
言葉で物を言うのは簡単です。しかし、相手に与える、言葉のエネルギーの大きさを、考えて言ってあげないといけません。もしかしたら、あなたが放ったささいな言葉でも、相手は、その言葉のせいで、心に大きな傷を負っているかもしれません。言葉を受け取る側は、どう受け取るか、そのことについて、どう考えるのかにもよって、言葉の重さは変わってきます。例え、悪気は無かったとしても、気をつけて言わないと、相手が悲しい気持ちになったり、最悪の場合、命に関わることもあります。
あなたはどうですか?ちゃんと考えて発言することが出来ていますか?言葉は、人を傷つける凶器にも、人の心を治す薬にもなります。もちろん、凶器を持つ人には誰だって、避けて自分を守ろうとします。そして、優しい言葉をかけてくれ、守ってくれるような人の元へと逃げていきます。そんな言葉を、あなたは上手に扱えているのでしょうか?
最近では、SNSで知らない人と話をしたり、遊べたりできるようになりました。その一方、ネットで批判されたり、脅迫めいたメッセージが増えているなどの、ネットのトラブルの話をよく聞くようになりました。それは、「匿名だから大丈夫だろう。」「どうせ赤の他人なんだから、自分には関係ない。」などの気持ちがあるから、起こってしまうのだと思います。顔も本名も知らない人。でも、その相手はあなたと、私たちと同じ人間です。自分の考えも持っています。私たちと同じように、感情も、家族も、好きなことだってあります。たった小さな一言でも、相手の考えによってはとても大きな傷になるかもしれません。そして出来た傷は完全に消えることはないのです。そのことを、頭の片隅に留めておく、ということが、私は、優しい言葉を使える第一歩だと思います。
言葉は人と共に生きています。今も、これからも。この時、この瞬間を言葉の力でより良いものへと変えていきましょう。そうすれば、あなたの未来も、日本の未来も明るくなっていくはずです。あなたも、これからの人生を支えてくれる、大切な言葉を見つけてみませんか?
☆☆☆優 良 賞☆☆☆
『「性」の多様性について』
田布施町立田布施中学校 2年 山本 小春さん
みなさんは、「性」について真剣に考えたことがあるでしょうか……。この世は、「性」に関して真剣に考えたことがある人と、自分には関係ないと思っている人で二分されると思っています。また、自分自身も後者で関係がないと思っていました。
なぜなら、日常的に男女と言うように「性」の違う者同士を分けていたためです。
五年生の夏休みのことでした。プールが中止されたことで、暇をもてあました私は一冊の本を読むことにしました。それは、トランスジェンダーの兄をもつ弟の話でした。当時トランスジェンダーなどのことをあまり知らなかった私には、とても新鮮で興味深い物語でした。
そして、読んでいくにつれ「性」とはなんなのだろうと考えるようになりました。そして、「性」とは、体の「性」だけではないのだと知りました。私はそれから、自分は、心の「性」が男性なのか女性なのかということを考えながら生活するようになりました。
そんなとき私はトイレのマークの色を不思議に思いました。なぜ男性は青で女性は赤なのでしょうか。以前はなんとも思わなかったものでしたが、性的マイノリティの人々のことを知ったことによって「性」の捉え方が変わり、このことを疑問に思えたのでした。私は疑問に思えたこと、それ自体がひどくうれしかったです。それだけで少し私が変われた気がしたからです。
もし男性の色が青で女性の色が赤とするなら、世の中の「性」は、まるできっぱりと二分されるような感じがします。しかし、たくさんの人の「性」は、その二つしかないのでしょうか。もし、色で「性」を表すのだとしたら、赤と青は混ざり合って紫になるのではないかと考えました。たとえば、いわゆる男性らしい人でも、女性らしい面が少なからずあると思うからです。また、紫は中性色だと学校で学びました。そういう点でも私の中で腑に落ちた気がします。
トランスジェンダーの人は生まれる前からもっている体の色を凌駕するほどの色をもっており、そういうものを個性というのだと私は思います。
紫で表すなら私の紫はどのようなものなのだろうかと考えましたが、男性らしいときかれるとそんなこともなく、女性らしいかと聞かれるとそんなこともありませんでした。そもそも「男性らしさ」「女性らしさ」も基準が曖昧です。
だから、私は自分の「性」ではなく今なりたい「性」はなんなのだろうと考え始めました。
ですが、私は女性以外の生き方をしたことがないので男性がなにをしてどう生きるかは知りません、もっと言うと私は私以外の生き方をしたことがないため私は同性のことも異性のことも本当の意味で理解していないのだと思います。それは、トランスジェンダーの人も同じで二つの性を体験できることから一番「性」の違いについて知っていると思いますが、その前に個人であるためそれで各「性」の生き方をはかるのは馬鹿げたことだと思います。ここまで、自分の「性」について考えたところでこのように性に捉われた考え方をするより自分の「性」を分類せず、個人としてみるべきなのではと思い始めました。「性」は自分の一要素でありそれを主として考えてはいけないと思いました。今、自分の色を決めてしまうと、それに固執してしまい卑屈になってしまう気もします。
ここまで考え、女性らしい個性や男性らしい個性ではなく個人を個人として見られる大人になりたいと私は思います。そのためにも私自身が変わらなければならないと感じます。また、「性」が日常で分類されていると感じるのは、一人称や敬称です。一人称は個人の自由なのですが、敬称は男子生徒に「くん」女子生徒に「さん」とつける場合が多いように思います。「性」で他者を見ていることになると思います。だから、わざわざ「性」で敬称を変化させることを変えていきたいと考えました。
私はこの作文を書くにあたってたくさんの「性」の多様性を感じさせる本やインタビューを見ました。そして、性について疑問に思うと同時に、そのことについて深く考えることもできました。
人は男性らしさや女性らしさに縛られることなく、それらが混ざり合ったり、表現が多様だったりする、個性を見るべきだと思いました。
最後に、みなさんに質問です。みなさんは「性」について真剣に考えたことはありますか。
☆☆☆優 良 賞 ☆☆☆
『しあわせ』
周南市立太華中学校 3年 中山 奏さん
「貧しい人が皆、不幸せな訳ではない」
そう私が気づいたのは、父との会話の中でだった。
私はそれまで、貧しい人は全員不幸で、大変で、暗い生活を送っていると思っていた。それは主に、海外の発展途上国の人々に対しての偏見だ。なぜなら私のイメージの中の彼らはいつも家族のために苦労し、自分を犠牲にして泣いていた。しかし、私が以前貧困について書いた作文を読んで父は言った。
「貧しい人が皆不幸せであると決めつけてはいけない。彼らの中には、その貧しさの中に幸せを見出している者もいるのだよ。」
と。それを聞いて私は正直むっとした。自分が間違っているとは思えなかった。たくさんの水が入ったかめを運ぶあの少年が、幸せであると言うのか。そんな私の気持ちを悟ってか、父は私に尋ねた。
父にニュージーランド留学をした経験があるのは当然知っていた。その頃の話は我が家ではもう鉄板で、何十回と聞いている。そのことを確認され当然だとうなずくと、父は思い出に浸っていくようにゆっくりと話し始めた。
これまでに一度も聞いたことのない父の話だった。父がニュージーランドで生活していたとき、そこにはたくさんの子どもたちがいて、たまに一緒に遊んでいたそうだ。時には彼らに変な日本語を教えていて、名前を呼ばれて振り返ると、
「コウタ!カイチュウデントウ!カイチュウデントウ!」
と叫ばれたことさえあったらしい。彼らは靴をはくことができないほど貧しかったが、いつも目をきらきらと輝かせ、笑顔で父の周りを駆け回っていたそうだ。全身で生きているのが幸せだ、と伝えているみたいでまぶしかった、と父が目を閉じた。
自分の部屋に戻り、私は考えた。幸せとはなんだろう。いくつか挙げてみたけれど、私にとって幸せなんて、物を買ってもらえただとか、お小遣いが貯まっただとか、そんなことしか思いつかなかった。これらは確かに幸せなことではあると思う。けれど、父の話の中の子どもたちが感じていたものとははるかに質が違うだろう。その地で「自分」として生きていることに喜びを感じ、幸せだと思っている。自分の損得なんかじゃなくて、ただ人間として、この地球で生きる生き物としての幸せ。それを感じられたらいいな、と私は静かに思った。いつも、
「今日は寝坊したから良い日じゃなかった。」
そんな小さなことだけで気持ちを揺らし、毎日をつまらなそうに生きてきた私に言ってあげたいと思った。何もない普通の一週間より、あなたの方が何倍もつまらないと。
それから私は、彼らを尊敬するようになった。当時彼らは今の私よりも幼かったのに、生きる上で最も大切なことを早くも見つけ出していた。ふと考える。彼らは私の生きるこの地での生活を羨ましく思うだろうか。羨ましくは思うかもしれない。ここでは蛇口をひねれば水が出るし、欲しい物がつまった店もたくさんある。でも、と思う。私は周りに広がる幸せに気づけなかった。たくさんのあたりまえに目を隠されて。
どれだけ好きなものが周りに溢れていても、どんなに快適な部屋の中にいても、父の話を聞かなければ私は、「生きる幸せ」と出会うことはできなかっただろう。自分で気づけなかった私はもうそれを感じられないだろうか。でも、頭の中だけででもその幸せを想像できたのだから、私にだって分かるはず。この広い地球で私として生きる意味を、いつかはきっと見つけられるはず。だからありきたりかもしれないけれど、これからは全てに感謝して生きていこう。私の目を隠していたものは、全部振り払って。
そうやって、生きていこう。
☆☆☆優 良 賞☆☆☆
『SNSに流されない生き方』
周南市立周陽中学校 3年 濵 花笑さん
「怖い……。」いつからでしょうか、私が「食」に対してこういった感情を抱いたのは。私はSNSという情報の渦に飲まれてしまっていました。
最近の若い世代、特に女性は痩せていることが「美」とされる「痩せ志向」に囚われている人が多いと感じます。なぜ「痩せ志向」の風潮が広まっているのでしょう。それはSNSで「瘦せ志向」の投稿が流行していることも一因ではないでしょうか。実際、当時の私はそんな投稿を目にして、ダイエットが必要な体型ではないのにも関わらず「自分の体型が恥ずかしい、細くなりたい」と思うようになりました。初めはほんの少しのダイエットでした。軽いダイエットをしている間も、SNSで「瘦せ志向」の投稿、特に自分よりも遥かに細いインフルエンサーの投稿を一日に何回も何回もチェックする度に、私は劣等感で押し潰されそうになり、いつの間にか、自分と誰かを比べてしまう癖がついてしまっていました。そして、どんどん私の「瘦せ志向」は加速し、体型どころか自分のことが嫌いになりかけていました。
そして、私は今の自分から抜け出すためのダイエットを過激にさせていきました。食事の内容を全て記録し、食事は「栄養をとるだけのもの」と自分に言い聞かせました。そうして、体重が落ちていきました。それと共に心はすり減っていき、大声で笑うことが少なくなっていました。もちろん、私はこの事実を自分で理解していました。ですが、過激な「痩せ志向」に囚われた私は「もっと痩せたい。痩せてインフルエンサーみたいに可愛くなりたい。」という「痩せ」に対する強い執着から抜け出せなくなりました。周りの友人や大人は私の異変に気づき、「ちゃんと食べてる?」「気にしすぎだよ」と声をかけてくれました。ですが、当時の私にはその声は耳に入りませんでした。そして、時間がたつにつれ積もっていく自分への劣等感に心が耐えられなくなり、一人で涙をこぼすようになりました。この涙は私の体、そして心からのSOSだったのでしょう。
そうなってようやく、私は大切なことに気づきました。「痩せ」に執着する必要がなかったことはもちろん、何より無意識にSNSの情報に流されていたこと。つまり、SNSという大きな渦に飲まれて自分を見失っていたことに気づきました。私は普段の生活に戻ろうとしました。ですが、一度染み付いた食に対する怖さからはなかなか抜け出すことができませんでした。その怖さを克服することには時間がかかりましたが、今では克服できています。
実は、克服できたきっかけの一つはSNSにあるのです。SNSで私と同じような経験をした方の克服過程の投稿を見つけたのです。ですが、私はこの投稿を鵜呑みにしたわけではありません。また同じ過ちをしてしまわないよう、今度は一つ一つの情報が正しいかどうかをしっかり判断するようにしました。そして、幸運にも今は気兼ねなく食事を楽しめています。
身体のSOSだけでなく、友達や家族の言葉も自分を見失っていることに気付かせてくれました。また、自分から悩みを打ち明けることで助言もすんなり心に入っていきました。一人で悩みを抱え込むのではなく、打ち明けてみることも自分を大切にするための方法の一つだと実感させられました。そして、何よりたった一人の自分を大切にしたいと思いました。
SNSはとても有効な情報収集手段であると同時に、私のように情報の渦に飲みこまれてしまう危険もあります。私たち若者にとって、SNSが必要不可欠な存在になっているこの時代だからこそ、正しい情報の取捨選択を行い、うまく付き合っていくことが大切です。SNSを利用しているとつい自分を誰かと比べてしまうことが多くなるでしょう。私はそうした危険性を常に意識しながら、有効に使っていくべきだし、そうしていきたいと思います。
あなたはSNSに囚われていませんか?
☆☆☆優 良 賞☆☆☆
『快適に暮らせるように』
周南市立桜田中学校 3年 元川 透花さん
私の住んでいる地域は田舎だ。周りには田んぼや畑しかない。唯一のスーパーはつぶれてしまった。近い駅は自分の家から約二キロもする。だからこそ田舎に住む人は車の免許が必須になってくる。仕事に行くため、食料品や日用品を買うためには車しか移動手段がないからだ。車の免許更新は七十歳未満の優良運転者はおおむね五年、七十歳は四年、七十一歳からは三年とだんだん期間が狭まっていく。しかし認知症はたったの一年で進行してしまう。しかも車の免許がとれるのは十八歳からと決まっているが、車の免許返上は上限が決まっていない。これは最近ニュースでも問題として取り上げられているのではないだろうか。例えば高齢者が車を運転していてアクセルとブレーキを踏み間違えて交通事故をおこしてしまった、車をどこかにぶつけてしまった。というニュースをみかけたりはしないだろうか。それだったら高齢者が車に乗らなければいい、上限を早く決めてしまえばいい、免許更新期間を短くすればいいのではないかという解決策が考えられる。しかしこの問題はそう簡単に解決できるものではないと私は思う。なぜなら生活が困難になる人がでてくるからだ。高齢者が車に乗らなくなった場合、誰が食料品や日用品を買ってくるというのだろうか。家に自分の子供がいてくれるのならばたのめばいいがそれができない場合はどうすればいいというのだろう。都会だったらまだ近くにバスやタクシー、電車があったりするかもしれないがそれらがすぐに歩いていける距離ではない場合、車なしでどのように生活していけばいいのだろうか。実際に私の祖父も車の免許を持っていたが周りの大人たちがこのまま持ち続けるのは危険だと思い説得をして免許を返上させたのだ。しかしそのあとが大変だった。どうやって食料を調達しようかが問題になった。しかも祖父の家は電気だけでなく灯油も使っている。灯油は重いので祖父一人では到底持ち運ぶことが困難である。祖父の家の周りに住んでいる親戚はいない。それに私の家族も祖父の家とは離れている。だから最初は父と叔父が交代で祖父の面倒を見に行っていた。しかし近くもない祖父のもとを尋ねるのはだんだん厳しいものとなってきた。またもや課題にぶつかってしまいどうするかとなったとき私の家でも利用している宅配サービスはどうだろうか、という話になった。宅配サービスは携帯やパソコンなどで食料品や日用品、それに灯油も買うことができる。そして週一で家までとどけてくれるサービスだ。これで重いものの持ち運びなども心配せず楽に配達してもらうことができる。私はこのサービスを地域関係なくもっと充実させるべきだと思う。私の家は四つの会社と契約しているが、もう一方山に住んでいる祖母は一つの会社としか契約していない。このことからまだ宅配サービスが十分に普及されていない地域があることがわかる。なのですべての地域にたくさんの宅配サービスを普及するべきだと思う。
他には宅配サービスのやりかたも充実させるべきだと思う。例えば周りに店がない地域に食料品や日用品をのせたトラックを巡回させたり、スーパーから食料品を届ける、など色々な工夫ができるのではないかと思う。
そしてこのことをもっと色々な人に知ってもらうことも必要だと思う。高齢者のための教室を開いて車がなくても生活ができるということを教えたり、病院の待合室、車の免許を更新する際などにチラシを配ったりするなどができる。この話は中学生である私たちにもいつかは絶対関わってくる問題である。
そして私は私たちが将来高齢者になったとき、どの年齢層の人たちも快適に暮らせるような未来であってほしいと思う。
☆☆☆優 良 賞☆☆☆
『後悔しない選択を』
萩市立むつみ中学校 2年 堀山 莉瑚さん
私は、私が今めざしている大人になれるのだろうか。今でもふと、不安になることがあります。でも、私は、私が今までしてきた選択に一つも後悔していません。
私は、今の中学校に入る前、中学受験をするべきか悩んでいました。幼いころから仲の良い友達が、中学受験を考えていると知り、ただ「負けたくない。」という思いで、あまり深く考えずに中学受験をしたいと思うようになりました。そこで、自分にとってどの学校が一番良いのか考え、たくさんの人に話を聞きました。しかし、中学受験の大変さを知ることで、かえって不安になりました。そのうちに、真剣に考えている友達と温度差が開いていき、受験自体を迷うようになってしまいました。このときの私は、何が自分にとっての正解なのか分からなくなってしまっていました。
そんなとき、私が悩んでいることに気付いた一人の先生が声をかけてくださいました。私は少しためらいましたが、抱え込んでいた思いを全て話しました。先生は私の話を真剣に聞いてくださり、「辛かったね。」と慰めてくださいました。そして、私の将来について一緒に考え、私を心から応援してくださいました。先生のおかげで、先行きの見えない暗い気持ちが楽になり、少しずづ、自分なりに気持ちの整理がついてきました。
ある日、母が進路について話そうと切り出してきました。早く決めるように急かされるのではないかと心配でしたが、母からかけられたのは、「あなたが何を選んでも応援するよ。」という言葉でした。その言葉を聞いて、私は正直ほっとしました。
実は私は、中学受験をやめることは、両親の期待を裏切ることになるのではないかと内心思っていました。だから、親が私の選択を陰ながら応援していてくれたのだと知り、落ち着いて考えることができるようになりました。そして私は、自らの意思で受験を取りやめ、今の中学校に入学することを決めました。
中学生になると、今度は進路学習が本格的に始まりました。私には、小学生のころからなりたい職業、めざしている夢がありました。そもそも中学受験を考えたのも、学習塾に通い始めたのも、その夢の実現のためでした。
しかし、一方で進路について考えれば考えるほど、なぜその夢を追いかけているのか、果たしてその選択で後悔しないのか、分からなくなってしまいました。思えば、いつも私には明確な夢や目標があって思いが揺らぐことなどなかったから、今の状態の自分に対して、またしても不安が押し寄せてきました。
時を同じくして、両親とも将来について話す機会が多くなってきました。私はだんだんと、先のことを考えるのが面倒になっていました。自分でも真剣に考えなければいけないと分かっていたけれど、考え始めても結論は出ないまま時間だけが過ぎていきました。
その日も、いつものように母から「何になりたいの。」と聞かれました。私はとっさに話を逸らそうとしました。
しかし、母の口から出てきたのは、両親ともに私のことを真剣に心配しているという言葉でした。そして、最後に一言、「何事もやってみなければ分からないものよ。」と。
その言葉を聞いて、私の考えは大きく変わりました。弱気になるのではなく、挑戦しようと。以前より前向きな私になるために、母の言葉が背中を押してくれました。
私は、まだ将来について不安なこともたくさんあります。でも、たくさんの人に支えられ、何の仕事に就いても自分らしく頑張りたいと思えるようになりました。これから先の人生には、きっと数えられないほどの選択が待っているはずです。もし、また分かれ道に立ったときには、支えてくださった人たちの言葉を思い出そう。そうして、後悔のない選択をしよう。
今の私が強く思うこと、それは、「私を支えてくださった人たちのように、誰かに寄り添える人になりたい。」