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山口県青少年育成県民会議

 
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令和7年度少年の主張コンクール発表作文紹介 優秀(県民会議会長賞)
2025/10/03

「言葉の強さ」
下松市立久保中学校 3年 三浦 仁太

 皆さんには、両親はいますか。私の両親は、私が小学四年生の頃に離婚しました。今は、父と兄と三人で暮らしています。今時、親が離婚するのは珍しくありません。しかし、小学生の私にとって、それは受けいれがたいことでした。いえ、信じられませんでした。「これは何かの間違いだ。そうだ、きっとこれはドッキリなんだ。」とずっと心の中で唱えていました。そうしないと、自分が壊れてしまいそうで怖かったからです。しかし、普段は全く泣かない兄が泣いているのを見て、「あっ、これは間違いでもドッキリでもないんだ。本当なんだ。」と分かると同時に、いろいろな気持ちがあふれ出しました。両親が離婚することへの悲しみ、この家庭に生まれたことへの憎しみ、他の平和な家庭への妬みなど、全部挙げたらきりがありません。小学生の私には、この現実を受け止めることが本当に辛かったです。
 母が家を出る日のことは、今でも忘れられません。母は、
「お仕事、行ってくるね。夜勤だから、明日の朝まで帰れないの。お留守番頑張ってね。」と私に言いました。母は、私が不安にならないように、嘘をついたのです。しかし私は母がもう家に帰ってこないことを知っていました。けれども、いや、だからこそ、私は笑顔で、
「いってらっしゃい。」
と言いました。その日の夜、私は分かっているにも関わらず、母が帰ってくるという僅かな希望を抱いて眠りました。しかし、朝起きても母は帰ってきていませんでした。
 私は絶望しました。その日から、私は生きる光がなくなったように感じました。学校では両親の離婚について一切触れず、「いつも通り」を演じていました。少しでも自分の感情を出すと、学校のみんなを妬む気持ちが爆発してしまいそうだったからです。その頃から、私は、心の中の思いを押し殺し、上から嘘を塗りたくることが普通になってしまいました。思いを押し殺すことによる疲れやストレスさえも押し殺す、そんな無限ループにはまってしまいましたが、何も感じることはありませんでした。
 ある日、学校から帰る途中、友達が不意に
「大丈夫?」
と声をかけてきました。どうやら、疲れやストレスが蓄積されすぎて表に出てしまったようです。すぐにそれらを無理やり押し殺して、「大丈夫だよ」と言おうとする前に、彼は、「辛いことがあったら何でも相談してね。だって僕たち、友達でしょ。」
と言いました。彼は何気なく言ったのかもしれません。でも、私の心には一筋の光が差し込み、それまでのもやもやがパアッと晴れたように感じました。本当の思いをひた隠しにしていた私の心は、実は誰かの優しい一言を待ち望んでいたのだと気付きました。
 その日から私は、自分の気持ちに嘘をつくことや、人を妬むことを止めました。私は再び、より多くの友達と笑顔で会話することができるようになりました。あのときの彼の一言が、私にもう一度、生きる光を灯してくれたのです。
 私は、今、生徒会長を務めています。友達は「仁太、仁太」と気軽に声をかけてくれます。「仁太ならできるじゃろー」とも言ってくれます。こうして、今、私が楽しく生活できているのも、全ては彼がかけてくれた言葉のおかげです。次は私の番です。彼が私を救ってくれたように、今度は私が、何かに困ったり悩んだりしている人を救いたいです。そして、伝えたいです。「自分の気持ちに嘘をつかないで。苦しいときは苦しいと言ったほうがいいよ。私があなたの思いを受け止めるから。」と。


 

令和7年度少年の主張コンクール発表作文紹介(優良賞)
2025/10/03

「「今」の私ができるまで…」
周南市立桜田中学校 1年 �眈勝ヾ�杏

 私には、ある特性があります。周りのことが、よく見えていなかったり、物をよく忘れたりするのが一例です。それが、自閉スペクトラム症、ADHDという発達障害だと知ったのは、六年生の終わりごろのことでした。おそらく、大抵の人は、自分に障害があるということをカミングアウトすることには、抵抗があると思います。周りからどう思われるのかが不安だからです。それでは、私がなぜこうしてカミングアウトしようと思ったのかこれからお話ししていこうと思います。
 私は、小さい頃、保育園に通いながら、リハビリテーション病院の訓練にも通っていました。ここでの作業療法、言語療法の先生たちとの関わりは、とても楽しいものだったように記憶しています。ほめてもらい、共感してもらうことが多かったからだと思います。
 そして、小学校入学を迎えました。保育園は隣の市だったので、知っている人は一人もいませんでした。そんな一年生になったばかりのころ、私は授業中にもかかわらず、教室から逃げ出してしまうこともありました。
「のあんちゃんが、いません。」
と、担任の先生がSOSを出して、支援員の先生に探してもらっていたということを、少し大きくなってから聞きました。また、クラスメイトにもあまり関心がなく、友達も作ろうと思わなかったため、友達と呼べる人は誰もいなかったように思います。さらに、被害妄想も激しく、周りの人のことを、みんな敵のように感じていたように思います。どうしてなのか、今思い出しても、よく分かりません。ただ、その時は、自分ではそんなに困っていたという印象はありません。多分、困っていたのは、先生や周りの人だったのでしょう。
 そんなとき、私に声をかけてくださったのが、支援学級の先生でした。私は、一年生のころは、まだ支援学級の児童ではありませんでした。
「のあんちゃん、きららで一緒に勉強してみない?」
との言葉に、私はすぐにきららに行ってみることにしました。人数が少なく落ち着けそうだし、パズルや教具も魅力的だったからです。そこで学習を続ける中で、支援学級の先生は大切なことを教えてくださいました。それは、授業など、やらなくてはならないことからは逃げ出さないこと、みんながみんな敵ではないこと、自分を分かってくれる人は必ずいることなどです。そして、何でもやってみれば「私ならできる。」ということを、優しく、根気強く、何度も繰り返し話してくださいました。学習に対する不安や、できなくて落ち込むことの多かった私が、少しずつ「できた。」を体験することができ、学校生活が楽しいものに変わっていったような気がします。
 もう一つ、私を支えてくれたのは、友達の存在です。二年生からきらら学級に在籍しましたが、普段の授業や生活では、今までと変わらず話しかけてくれました。人との関わりが苦手だった私にも、仲良しの友達ができました。その友達とは、勉強の話をしたり、同じ趣味の話で盛り上がったりしています。まだまだ、おっくうになることもありますが、少しずつ、自分から誘うこともできるようになってきています。
 自分に自信がなく、すぐ諦めていた私、何か嫌なことがあると、逃げ出していた私。そんな私が変わってきたのは、周りの人のおかげだと感じています。支援学級の先生は、私の特性を理解して、最大限のサポートをしてくださいました。その事実に、私は救われました。そうして、相手のことも、自分のことも大切にすることができるようになったので、良い友達もたくさんできました。
 私のことを分かってくれる人がいる。支えてくれる人がいる。そう思うことで、自信をもてるようになりました。小学校二年生から六年生まで、支援学級に入り、支援学級の先生や生活指導員の先生、担任の先生、家族、友達など、たくさんの人に支えられてきました。そして、中学生になった今、私は支援学級を卒業し、通常の学級でスタートを切りました。たくさんの人からの支えによって「今」の私ができています。
 これから先も、たくさんの困難が待っていると思います。くじけそうになったり、つらかったりすることも、多いことと思います。人生は、人との関わりによって大きく変化します。これまで、私のことを理解してくれる人に出会えたことに感謝しています。そんな私は幸せ者です。これらのことは、私の生涯の宝物です。今の私は、たくさんの人からの支えによってできている。そのことを知ってほしいと思い、カミングアウトしました。これからも自分らしく生きていきます。


 

令和7年度少年の主張コンクール発表作文紹介 優秀(県教育長賞)
2025/10/03

「私だから伝えられること」
周南市立富田中学校 3年 田邊 優衣 

 「私は原稿を読むことができません。」
視線が集まる。空気が変わる。自分の言葉で伝えきると覚悟した。
 私は富田中学校の生徒会副会長を務めている。そして私は吃音症である。吃音とは円滑に話すことが難しくなる症状のことを指し、言葉を繰り返したり、出づらくなったりすることがある。緊張してうまく話せないといった経験のある人は多いかもしれないが、波はあるものの、私の場合はそれが常に続き、自分の意思でコントロールはできない。だから、できないと決めつけて諦めたことがたくさんあった。小学生低学年までは行事の司会や発表などに積極的に参加していた。高学年になると授業での発言も減り、からかわれることを恐れた。そして中学生になり、始めは人前で話すことを避けていたが、環境が昔の私に近づけてくれて、授業での発言やクラスメイトへの呼びかけを始めた。そして、私は生徒会役員となった。一年間吃音を隠すように活動した。それが、私の挑戦にストップをかけていたのだと思う。本当に悔しかった。他のメンバーの力になれなかったことが。だからこそ、次の生徒会役員選挙に絶対に出る。
 肌寒さとともに、生徒会役員選挙に対する意識を感じる時期になった。緊張により、吃音の症状は現れやすくなると言われている。私も例外ではなく、その影響を受けていた。話そうとすると、言葉が出なくなる。喉の奥に話したいことが渋滞して、その音たちは口に上がってこようとしない。思い通りの言葉が出ずに話すことを諦めてしまったり、黙り込んでしまったりすることも多くあった。この状態で選挙に出ることができるのか不安でしかなかった。こんな自分に生徒会なんてできるのだろうか、と吃音をきっかけにマイナスな気持ちが侵食してきて諦めることも視野に入れていた。だが、ある高校生が中学時代生徒会長をしていたことを伝える動画を見た。その人は吃音をもっていて、そのことを選挙で全校生徒に伝えたそうだ。そして、その人はこう話す。
「吃っても良いという安心感を得て、吃音への気持ちも前向きに捉えることができるようになりました。」
「逆境を乗り越えながら自分の思いを伝え続けるってすごくかっこいい。」
そう私は強く思った。
 そして本番、私は原稿通りに演説をしなかった。できなかったのではない。しなかったのだ。事前に先生の許可を得て、実現することができた。私の公約は「やってみるができる学校づくり。」名乗ることもできず、公約の詳細も十分には語れなかった。だが、「私が伝えていきます。」この言葉は何があろうと伝えた。決して方法は一つだけではない、「やってみる」のハードルは下げられるということを。結果は当選。生徒がどんな私でも認めてくれたのだと嬉しく思った。最初は自分の後悔を拭うためだったが、いつしか、誰かの不安を拭いたいと望んでいた。
 私は何度も今のように吃音について伝えてきた。ときには厄介になることもあるが、吃音がなかったら私ではないのだと思う。もちろん、私に見えないことはあるが、他の人が見えないことを私はしっかり見ている。
「私は原稿を読むことができません。」
から始まった私の演説。何かと吃音を理由に様々なことを諦めてきてしまったが、そんな必要は微塵もない。私はそれが分かったから今ここに立っている。他の誰かと同じようにする必要なんて、もっとない。逆境を乗り越えながらも自分の思いを伝え続けるって、すごくかっこいいじゃないか。
 これからも私だからできることを続けていく。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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