H29少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん |
表彰式の様子 |
【最優秀賞】(県知事賞)
「私と妹の挑戦」~みんなに知ってもらうために~
山口県立下関中等教育学校 3回生 宮本 伊織
今このときも懸命に病気と闘っている、私の大切な妹。私と家族は、妹に寄り添って、一緒に生きています。一緒に妹とどこへでも行き、一緒に妹と歌いたい。たくさんの方々に、妹のことを知ってもらい、隣人として受けとめてほしいからです。
私には6歳違いの妹がいます。私は彼女が産まれると告げられたときのことを、よく覚えています。思わず布団の上を飛び跳ねて喜び、大騒ぎをしました。
実際に産まれた妹は、保育器の中で大人の手のひら2つくらいの小さな女の子でした。妹は発病率が100万人にひとりという難病「滑脳症」という病気とともに、この世に生を受けたのです。滑る脳と書いて滑脳症。脳の形成異常により、現在でも、歩くことも話すこともできず、食事も自由に取りづらい妹。
けれど、妹が産まれた当時の私は、妹のお世話ができるうれしさばかりで、妹の病気の重大さを理解できていませんでした。母には、「病気は治るんだよね、退院できたら一緒に遊ぶんだよ。」と話していたそうです。彼女が産まれて1年がたって、退院の日が来ました。初めて抱いた妹は、小さくて、頬が柔らかくて、じんわりとしたぬくもりを感じました。
しかし、滑脳症と共に生きることは、たくさんの困難を妹に課してきます。3歳になっても彼女は歩くことが難しく、出かけるときは、車椅子を使用しなければなりません。一緒に出かけられる楽しさの反面、私は彼女を見る周囲の目が気になるようになりました。そしてやがて、私はいつの間にか、彼女がどんなに大変な思いをしているのかも考えずに、外出するときは一緒にいることを避けるようになっていました。
そんなある日、私は妹の通っている施設を訪問しました。そこには、様々な病気と共に生きている方々の姿がありました。そしてそこには、予想以上にたくさんの笑顔がありました。一方で、病気と闘うために辛いリハビリを友達と協力して乗り越える姿もありました。その姿を見ている内に「みんな誰も障がいに屈していない。今できることを一生懸命やっているのだ。」とすぐに気がつきました。そしてそんな中で、一生懸命頑張っている妹の姿にも気がつきました。そのとき私は、自分が恥ずかしくなりました。
そのことに気づいてからも、私は変われませんでした。小さい子どもが妹を見て「赤ちゃんどうしたの。」などと話しかけられると、うつむいてしまったりすることが続きました。彼女を思う気持ちはあるのに、なぜか心がすっきりしない。そして私はこう思いました。それは私が彼女の病気のことをはっきり知ろうとしなかったからだと。そこで、思い切って母に「妹の病気について詳しく教えてほしい。」と打ち明けました。
母はゆっくりと口を開きました。考えながら、誠意をもって妹について教えてくれました。受け入れにくいこともありました。ですが私がこのとき学んだのは、彼女の姉として堂々としていかなければならないということでした。
そこで私は、妹のことをみんなに知ってもらおうと思いました。妹のことを知ってもらうことで妹と触れ合うことに抵抗感を持たなくてすむようになるからです。思い切って友達に紹介したら、すぐにみんな仲良くなってくれました。すると、お出かけも周囲の目も気にならなくなりました。みんなの中にいるとすぐに笑顔で楽しんでくれる妹。一緒にいることが私の喜びになりました。
私は今、妹の利用している施設でボランティア活動をしています。ウクレレを演奏してみんなで歌を歌っています。歌は素晴らしいです。施設のみんなの歌声は色々あります。しかし、みんなみんな笑顔です。その笑顔と共に歌っていると、みんなとつながりあっていきたい。妹や仲間たちをたくさんの人に知ってほしい。という気持ちがどんどんわき上がってきます。
今では、妹と妹の友達達と私は、ウクレレ発表会に参加しています。このことを通して彼女達を知ってもらいたいということ。もっとたくさんの人とつながることの大切さ。このことを発信していくことが、私達家族と仲間達の最大限の挑戦だと考えるからです。
【優秀賞】(県教育長賞)
「障害者」を差別しないで
萩市立萩東中学校 3年 児玉 清香
世界には、いろいろな人がいます。大人、子ども、高齢者。背の高い人、低い人。スポーツができる人。頭のいい人。いろいろな人がたくさんいます。そして、私たちは皆同じ人間です。しかし、世の中で人間は「健常者」と「障害者」に分けられることがあります。
私の母は健常者ではありません。母は脳性麻痺をもって生まれ、今も足などに麻痺が残っています。目をしっかりあけることも容易ではありません。みなさんはそんな障害者について、どのような考えをもっていますか。
私は小学校に入学するまで、母のことを「みんなと同じ普通のお母さん」だと思っていました。障害というものを知らなかったからです。しかし、小学校に入学すると、多くの友達が母の障害について疑問に思ったのか、
「ねぇ、お母さんって病気なの。」
と、よく聞かれました。ときどき、
「なんでちゃんとしゃべれないの。」
と、私にも分からない質問をされたこともありました。そのたびに、
「障害者だから、仕方ないんだよ。」
と説明していましたが、「障害者」の言葉を使うたび、聞くたびに心が痛みました。障害者は病気ではありません。完全に治すことができないのです。それでもみんなは理解してくれず、同じ質問をしてきます。そして私も、同じ説明をする繰り返しでした。
やはり、障害者は悪いイメージばかりもたれるのでしょうか。彼らは悪いことなど一つもしていないのに。しかし、私は小学校高学年の頃から周囲の目が気になって、
「参観日、絶対来ないで。」
と、母にひどいことを言うようになってしまいました。娘の私が、母に対して決して言ってはいけない言葉のはずなのに。何度も母に言ってしまいました。でも、そのたびに母は、
「ごめんね、普通じゃなくて。」
と謝るのです。母がいつもどんな気持ちでいたか、私には想像もできません。本当に謝らなければいけないのは私のはずなのに。
しかし、中学校に入学すると、障害に対する周囲の目はエスカレートしていきました。悪口を言わなくても、私が冷たい目で見られたり、障害者とあだ名をつけられたりもしました。もっとひどいときには、
「おまえの母さん、顔ぐちゃぐちゃ!。」
と言われたことがあります。今まで同じようなことを何度も言われたけど、面と向かって言われるととてもショックで、とても母には言えませんでした。怒り、悲しみ、悔しさが入り混じって、何度も泣きました。
私はそのとき改めて、「障害者」は「障害者」という理由だけで、差別的な言葉を投げつけられたり、周囲の人に冷たい目で見られて避けられたりして、悪いイメージをもたれているのだと感じました。母は、障害者は、なりたくて障害者になったのではありません。それなのに、障害者について悪く言ったり、マイナスに思うことは差別であると私は思います。確かに障害者は、ものごとをするのも困難で、健常者よりも大変なことが少なくありません。でも、障害者も健常者も同じ人間です。温かい心があります。ひどいことを言えば、誰でも傷つきます。優しい言葉をかければ、誰でも嬉しくなるはずです。
私の母は、一生懸命に私のことを育ててくれます。私のことを一番にわかって、大切に思ってくれる、かけがえのない存在です。だから今も、これからも、母の障害について悪く思わず、差別から母を守ろうと思います。
障害者は不便でも、不幸ではありません。周囲の人に支えられて生きていることは、とても幸せなことだからです。
私は、母が大好きです。だから、障害者を差別しないでください。障害者も健常者も、同じ人間なのですから。
【優秀賞】(県民会議会長賞)
「本当の優しさ」
周南市立熊毛中学校 3年 磯村 早希
私には保育園に通っていたときから仲の良い男の子の友達がいます。保育園の卒園式の時、私は初めて彼に知的障害があり、同じ小学校に通えないことを知りました。その時まで彼がなぜ自分たちと違う教室にいるのか、どうして食事を一緒にしないのか不思議に思っていました。幼かった私は彼の障害を知り、彼のことを「周りと違うんだ。普通じゃないんだ」と思うようになりました。
小学校に入学し、障害がある方との交流を何度か行いました。彼もその場にいて、たくさんの人と交流をしていました。しかし、再会したのにもかかわらず、私は彼に初めて会ったかのように振る舞いました。私は彼に声をかけるのが怖かったのだと思います。もしかすると自分のことを覚えていないかもしれないと思ったからです。そして、正直に言うと心の底に、彼と仲良くしたら他の人から変だと思われてしまうかもしれないという彼を差別する気持ちもありました。そんな私の様子を見ていた周りの人は私に「周りと少し違うだけだから、仲良くしてあげて。」と言われました。
交流会も回数を重ねたある日、私は思いきって彼に話しかけてみました。すると彼は話すことはできなかったけど、私の顔を見て笑ってくれました。その笑顔を見たとき彼が私を覚えてくれていたことが分かり、嬉しくなりました。今度こそ彼と真正面から向き合って彼がもっと笑顔になれるよう、できるだけサポートしようと心に決めました。
それからの私は、交流の機会がある度に、「私にできることは何でも、全部してあげよう。」と思いました。車椅子を押したり物を取ってきて渡してあげたり、彼の役に立てるように心がけました。
そんなある日、彼のお母さんからこんな言葉をかけられたのです。「いつも一緒にいてくれて有難う。」そう言われた私は彼の役に立てたことが嬉しくて、誇らしくなりました。しかし、彼のお母さんはその後にこう続けたのです。「一緒にいてくれることは嬉しいけれど、あの子にもできることがあるの。何でもしてあげるんじゃなくて、できるまで見守っていてほしいの。いつも優しくしてくれるのに、こんなこと言ってごめんね。」
私はその言葉を聞いたときたいへんなショックを受けました。今まで私がしてきたことは優しさではなく、自己満足だったのです。彼のお母さんは、彼の立場や気持ちを考え、彼が達成感を感じ自立できるように心を配っておられました。しかし私は上から目線で彼の気持ちも考えず、自己満足と自分の罪悪感をなくすために行動していたのです。
私は本当の優しさとは何か考えました。そして、今まで自分がしたことや思ったこと、周囲の人が言っていたことを思い出しました。すると、初めて分かりました。自分が思った「普通じゃない」「全部してあげる」という思いや行動がどれだけ彼を傷つけていたのか。「周りと違うから、優しくしてあげて。」という言葉がどれだけ彼を苦しめていたのか。彼のお母さんに、「ごめんね。」と言われるまで気付くことができなかった自分は本当に最低の人間だと思いました。
「本当の優しさ」とは相手を知ろうとすること、正面から向き合うことから始まります。もちろん自分と相手の今まで生きてきた環境が違うのだから、相手の気持ちを相手と全く同じに理解することはできません。でも、近づくことはできます。相手の立場に立って今どんな気持ちなのだろうと考えるだけで、自然とどうするかは分かってきます。
最後の交流の日、彼はそれまでで一番の笑顔を見せてくれました。それは本当に心が通じたことを彼が私に教えてくれた瞬間でした。この笑顔を私は一生忘れません。
【優良賞】
新たな希望
下関市立豊北中学校 3年 山口 萌
里親さんと初めて出会ったとき、私は全く話しませんでした。向こうから、好きな色や、好きな食べ物、家でどんなことをしていたのかなどを、たくさん聞かれました。「本当のことを言ってもいいのかな。」と思っていた私は、「家では、部屋で本を読んでいた。」とだけ言いました。すると、「お父さんと話さんかったん?」と聞かれ、「親の暴力があったから、ほとんど話してない。」と言うと、「そうやったんやね。」と聞き入れてくれました。
それは、優しく問いかけてくれるような感じで、一緒にいてとても安心できました。柔らかい声、受け入れてくれるような穏やかな笑顔でした。
私は、相手と1対1で話せたことがうれしく、相手が自分の思いを聞いてくれることが新鮮に感じられました。とても印象が強かったので、今でもはっきりと思い出せます。
母が亡くなった6歳の時から、父と2人暮らしだった私は、毎日のように受ける暴力と、学校でのストレスから耐えきれず、父を突き飛ばしたことがありました。そのとき父は、とても悲しそうな顔で私を見て「ごめんな。」と言いました。そのとき、私は、すごく泣きたくなりました。父の口から「ごめん。」という言葉を初めて聞いたからです。
そして、母が亡くなったときの「父との約束」を思い出しました。それは、「これからも、ずっと一緒で、支え合って生活していく。」というものでした。私はそのことを思い出し、とてもひどいことをしてしまったと、少し心が痛みました。その日は、父と全く会話をすることができませんでした。
その後、私は、今の里親さんの家に行くことになりました。里親さんの家での生活を始めたある日、里親さんから「少しだけでも実の親と話してみないか。」と言われました。でも、私はいやだと言いました。父と会うのがとても怖かったからです。もし今、父と会うと、父にひどいことをしてしまうのではないかと、ずっと父と会うことを避けていました。
でも、私は父と会うことを決めました。
再会した父から、父がいつも私の気持ちを大切に思い、私の育て方も悩んでいたことを知りました。私のことを大切に思っていてくれたことを初めて知りました。そして、荒れていた気持ちが、少し落ち着きました。
暴力やいじめなどを受けたつらさは、体験した人しか分からないこともたくさんあると思います。でも、そのつらさを、きちんと話して、たとえ一度では理解してもらえなくても、自分の気持ちを相手に伝えるべきだと思います。だからといって、自分の気持ちを相手に押しつけたりせずに、相手の気持ちもしっかり聞くべきだと思います。
私の場合は、人に話すこともできず、人の話を聞くこともできませんでしたが、話しかけてくれる里親さんのおかげで、心を開くことができました。
私は、この経験から、新たな夢ができました。それは、「自分の思いを、自分の言葉で、自分の声で、相手に伝える」ということです。
私は、態度や文章より、声のほうが今の想いをしっかりと相手に伝えることができると思います。私は里親さんが話しかけてくれるときに、言葉の温かさや家族の大切さ、声で想いを伝える大切さに気付くことができたからです。
もし、また父と生活するときがきたら、まず最初に、「今まで、お父さんの気持ちに気付けなくて、ごめんなさい。」と謝りたいし、「今まで大切に思ってくれて、一人で育ててくれてありがとう。」と、感謝の気持ちを伝えたいと思います。
これからの人生に「新たな希望」をもって、たくさんの人たちと話し、自分の思いを伝え、自分の夢をめざして頑張っていきます。
【優良賞】
「バトンに託す思い」
周南市立熊毛中学校 3年 松本 裕太
「まっちゃん、はい!」と先輩は僕の背中を優しく押してバトンを差し出しました。
僕は陸上部に所属し、走り幅跳びが専門です。自己ベストが更新される度に陸上に対する興味も増し、とても楽しく部活動ができました。先輩たちも自分の競技種目に打ち込み、自分の目標に向けて努力を重ねていました。
昨年の秋の県体は、3年生の先輩にとっては最後の大会でした。しかし、リレーメンバーの1人が自分の競技とリレーの時間が重なってしまい、僕がリレーメンバーとして走ることになりました。今までリレーを経験したことがない僕は、こんな自分で良いのかという申し訳ない気持ちと不安な気持ちで一杯になりました。あまり気が進みませんでしたが、僕は困っている先輩方の気持ちを考え、一生懸命リレーの練習に参加しました。そして、改めて先輩方のスピードとバトンパスの技術に驚かされ、ますます不安が募りました。
いよいよ秋季県体の当日になりました。熊毛中のリレーはランキング1位。もちろん優勝候補でした。だから、アップをしているときも僕の頭の中は、先輩方に対する申し訳なさと不安で一杯でした。そうしている間も、時間は瞬く間に過ぎていきます。
「パン!」というピストルの音が聞こえました。その瞬間、僕は構えました。後から足音が近づいてきます。後、5メートル位のところで僕は走り出しました。「まっちゃん、はい!」先輩がバトンを僕に差し出しました。それを合図に、僕は手を後に差し出しました。しかし、バトンは僕の手から滑り落ちたのです。数秒後、初めて僕はバトンを落としたことに気がつきました。その後のことを僕は良く覚えていません。しかし、先輩にとって最後の県体で自分がしてしまったことに茫然とし、ぼろぼろ涙がこぼれました。
競技が終わってテントにもどり1番最初に聞こえたのは「ありがとう、お疲れ様。」という先輩の言葉でした。その言葉を聞いて僕はまた涙がこみ上げてきました。最後の県体、しかも優勝候補だった先輩たちの方が、よっぽど悔しかったに違いありません。僕の口から出せる言葉は「ごめんなさい。」だけでした。
大会2日目、僕は自分の出る競技がなかったのと昨日のショックから、大会を欠席しました。そして次の日、先輩から、熊毛中が総合優勝したことを聞き、驚きました。
後日聞いた話によると、先輩たちが僕のいないところでこう言っていたそうです。「明日の試合で上位に食い込めば、団体で1位になれる。自分たちが頑張るしかないだろ。」と。そして、その言葉どおり先輩たちは強い思いでライバルに競り勝ち、見事総合優勝を勝ち取ったのです。優勝はもちろん先輩たちの3年間の目標だったに違いありませんが、その強い思いの陰にある、僕に対する思いやりを感じました。きっと僕を勇気づけるために先輩たちは奮起したに違いありません。
3年生になって道徳の授業で、完全試合達成という劇的な場面で誤審をし、記録を台無しにしたジョイスの話を勉強しました。ジョイスは自分の間違いに気づくと、相手に謝り、周囲の反対や強烈なブーイングにも負けず、次の日球審としてグラウンドに向かいました。
あのときの自分を思いだしながら、自分の責任を果たすということは、結果が悪くても良くても決して逃げず、全てを真摯に受け止めること。そして、その時自分にできる最善を尽くすことだと僕は悟りました。
「まっちゃん、ハイ。」先輩は僕に優しくバトンを渡してくれました。試合の時、僕はそのバトンをつなげることはできませんでした。が、先輩たちの思いは確かに受け取りました。しっかり受け止めた熱い思いをバトンに託し、僕が全国大会に届けたいと思います。今度こそ自分の責任を果たすことを心に誓って。
【優良賞】
「考える力」
周南市立熊毛中学校 3年 弘津 健太
最近はインターネットが普及し、とても便利になっています。道に迷ったときや音楽を聴きたいとき、買い物や個人的な悩み相談までインターネットでする時代になりました。
そんな中で僕が気になったのは個人的な悩み相談です。そこには学校で出されたレポートや課題がそのまま画像としてアップされていたり、課題作文の例文がそのまま書かれたりしています。それを見たときに、こうやってインターネットを利用して「答え」を手に入れることに疑問を感じました。困った時に助けを求めることが悪いことだとは思いませんが、人に頼るだけで自分では何も考えていないのではないかと思ったからです。とはいえ、僕も昔はインターネットを使って「答え」を手に入れようとする一人でした。
僕は文章を書くことが苦手です。夏休みになるとどうしても読書感想文が最後まで残ってしまいます。中学生になって買ってもらったスマートフォンで読書感想文の書き方を検索すると、悩み相談のサイトで、例文がそのまま書かれていました。これをこのまま丸写しすれば宿題が終わる、と僕は早速「作業」に取りかかろうと思いました。しかし、そのサイトの下の方に「この構成で書けば感想文はすぐ書ける。」という類のことが書いてあり、それはまるで僕のずるい心を見透かし「ちゃんと自分で考えろ」と僕に訴えかけているようでした。結局僕はもう一度本を読み直し、サイトで示してあった構成を参考にして、自分の力で読書感想文を書き上げました。
読書感想文は自分で書き上げましたが、僕は自分に対してかなり甘いところがあります。文章だけでなく、何か問題にぶち当たるとすぐに答えを見ようとするのです。休み中の課題やテスト週間中の課題もそうです。「まだいい。まだ大丈夫。」とやるのを先延ばしにして、結局課題を溜めて、早く終わらせるために答えを写す羽目になってしまうのです。そんなことを繰り返すうちに成績も下がっていき家族に「たまには真面目にやってみたら。」と指摘されるようになってしまいました。
このままではいけないと思った僕は、テスト週間に早めに課題を終わらせることにしました。解いていくと、どうしても分からない問題にぶつかります。そんな時は答えを見ずに解説を丁寧にたどっていきました。ヒントを見ながら問題と向き合ってみると、驚くほど簡単に問題が解けました。苦労した分、達成感も感じ、テストの点も前回に比べ上がってきました。
僕はこの経験から考えたことがあります。すぐに答えを手に入れるのはとても簡単です。しかし、答えを手に入れるまでの課程で、自分で考えることを省いてしまうと、大切なものを失ってしまうのではないでしょうか。学校で今僕たちが学んでいるのは、答えではなく考える力です。自分で考える習慣が身についていないと将来問題が起き、壁にぶち当たったとき、自分で解決することができません。また、一見無駄に思われることの中にも大切なものはあるのではないでしょうか。
例えば電子辞書と紙の辞書を比べた場合、早く引けるのは電子辞書ですが、紙の辞書をめくるうちに、調べたかった言葉以外にも興味を引く言葉に出会うという寄り道も、辞書を引く楽しみの一つになると思います。また分からなかったことを友達や先生や親などに尋ねるうちに、コミュニケーション能力もつき、人との絆も深まるのではないでしょうか。そして何より自分で苦労して考え、答えにたどり着いた達成感は大きいと思います。
もちろん便利なインターネットを使うことには賛成です。しかし、すぐに答えを求めるのではなく、答えを手に入れるまでの課程を大切にし、常に自分で考えるという姿勢を僕は大切にしていきたいと思います。
【優良賞】
地球からのS・O・S
平生町立平生中学校 1年 直井 麻佑子
ぼくは地球。ぼくは約46億年前に誕生した。同じ時期に生まれた太陽と共に、太陽系の有名人だ。
ぼくはいつも太陽の熱によって温められている。しかし、その熱はそのままでは宇宙に逃げていってしまう。それを防いでくれるのは、二酸化炭素などの「温室効果ガス」なのだ。このガスのおかげでぼくはいつも14℃くらいに保たれているけれど、もしそれがなかったらマイナス19℃くらいになってしまい、寒くてしかたがない。つまり、ぼくはこのガス達のおかげで温かく過ごしていられるということなのだ。
しかし、最近はぼくは熱っぽい。それは、ぼくの中に住む人類の産業活動が活発になり、温室効果ガスが大量に排出されているからだ。
だからだんだんと元気がなくなってきて、このところ海面の上昇をおさえることができない。それにより、海抜の低い土地に住む人々やウミガメの産卵場所を奪うなど、多くの生物に迷惑をかけている。また、まんべんなく雨を降らすことができず一方ではかんばつ、ある一方では集中豪雨、河川の氾濫や農作物への被害も甚大でどうすることもできない。
そんなぼくを助けようと、世界の196ヵ国が集まり、「パリ協定」という取り組みをしてくれているそうだ。しかし、その中でも多大な影響力を誇るアメリカがその協定から離脱するらしい。
「ぼくはどうすればいいのだろう・・・たすけて、ください」
「S・O・S」
さて、中学生である今の自分には何ができるのか?貢献できることはあるのか?考えてみました。
まず、買い物をするときはエコバックを持参し、レジ袋の使用をひかえたり、過剰包装を断る努力をしていきたいです。
次に、車の中の不必要な物を降ろし、少しでも燃費を良くしガソリンの消費をおさえたり、アイドリングストップを利用するなど、両親の協力も得ていきたいと思います。
また、ガラスびん・スチール缶・アルミ缶などをただ捨てるのではなく、リサイクルボックスに入れるなどして少しでも資源の再利用に努めていきたいです。
家庭内では、冷房の設定温度を1℃上げ、暖房を1℃下げる、照明をこまめに切る、家族が同じ部屋で過ごす、またシャワーの使用時間を1日1分減らしたり、使っていないコンセントをぬくなどで待機電力の消費削減につなげる、そしてテレビやパソコンといった電子機器の使用をできるだけ避けるなど、身近でできることから行動に移していきたいと思います。
私たちのせいでピンチにおちいってしまった地球。だから、その地球を救うのは私たちでなければなりません。世間からの関心がうすれてしまっている今だからこそ、地球からの危険信号を感知し、もう一度、私たち1人1人が自分の生活を見直さなければいけないのではないでしょうか。1人が努力するだけでは救うことができるものではありません。意識の輪をもう一度世界中に広げ、私たちの代だけでなく、その取り組みを次の世代へつなげ、持続可能な世界を一緒に作り上げていきましょう。
「大好きな地球のために」
【優良賞】
働くということ
萩光塩学院中学校 3年 中村 文音
「共働き」これは、自分の両親が2人とも仕事をしている夫婦を指します。少し前なら専業主婦の妻と働く夫という形が当たり前でしたが、現在、共働きが主流の働き方となっています。私の両親も共働きです。みなさんは、この現代の働き方をどう思いますか。
一言に共働きといっても午前または午後の半日で働く人。時間を区切って働く人。1日フルに働く人。と様々な働き方がありますが私の両親は2人とも1日フルに働いています。私の場合、それが今年度から始まった生活です。しかし、既に家の中で変化があります。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
「ただいま。」
「おかえり。」
といった声が家からほとんどなくなってしまいました。また、平日に家族が全員そろっての夕飯という時間も激減しました。そのうち家族で話す時間も減ってきました。寂しいです。辛いです。家族ともっと話したいです。でも、毎日、一生懸命に働いてくれている両親の姿を見ている私にはそんなこと、絶対に言えません。
今、現在、少年・少女がいじめを起こしてしまったり、犯罪に手を染めてしまったり、と「問題行動」といわれるものが日本全国で後を断ちません。自分の未来を自分の手で壊してしまっているのです。その中でも私は、13歳から15歳の子どもが起こしてしまった事件をよく耳にします。そう、中学生です。私と同じように「寂しい」「辛い」といった思いが言葉にできず爆発したとき、「心配して!」「もっと私に注目して!」という最大限のSOSが表れるのではないでしょうか。私も実際に、今までは弟にやったことのないような当たりの強さを出してしまったり、自分の部屋で物に当たったり、部屋の中を随分荒らしてしまったりもしました。今考えるとどんな理由であってもいけないことはいけないことです。その行動が、多くの人を傷つけてしまうことをわからなければなりません。それは許されないことです。親が働くことは、私たち子どもの未来のためでもあるし、家族のためでもあるので辞めるなんてできないと思います。しかし、子どものSOSだけは見逃さないでください。
私の家は、土・日・祝日は家族がそろい賑やかな家へと変身します。そして母の料理を家族で囲みます。その時間は心が落ち着きます。温かくなります。そして普段より何倍もおいしく感じます。笑顔が家にあふれます。明るい声が家中に響き渡ります。それが私にとって家族と過ごす時間の大切さ、温かさ、ありがたさを見つけるキッカケになりました。だから私は今、家族と一緒にいられる時間を大切にするようになりました。
やはり、家族とのコミュニケーションは様々なことを変えてくれます。お願いです。家族内のコミュニケーションをSNSで済ますのではなく顔を合わせてお互いの目を見ながら話してみてください。テレビもゲームも全て消し、1日たった5分、10分でも家族みんなで話す時間は私たちがいくつになっても必要であると思います。そうすれば1件ずつでも少年・少女の問題行動が減るのではないでしょうか。
私たち中学生にとってお父さん、お母さんという存在はまだまだ必要不可欠な存在です。反抗もするし、時には関係がギクシャクしてしまうこともあるかもしれません。でも、心の中ではみんなお父さん、お母さんが大好きです。仕事で疲れているかもしれません。忙しいかもしれません。でも私たちは、私は、仕事よりも大切なものもあるのではないかと思います。会話一つで少年・少女の私たちが正しい未来へ進めますように。