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山口県青少年育成県民会議

 
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令和元年度少年の主張コンクール山口県大会
2021/09/14

R1年度少年の主張コンクール

最優秀賞(県知事賞)

自分が自分でいられる環境
萩市立萩東中学校 2年 後藤 遙香

「歌を歌うのが恥ずかしい。」
そんな言葉を聞いた生徒総会。それを聞いて、私はこのままではいけないと思いました。
 これは、先日の生徒総会で、「校歌の声を大きくするには」という議題について全校で話し合っていたときのことです。
 私の学校では、毎月の生徒集会で校歌を歌います。最近は、全校生徒で歌うときの声が小さく、先生に声をかけていただいたり、生徒会役員を中心に何度もやり直しをしたりして、やっと声が出るという状態でした。そこに課題を感じた生徒から、今年の生徒総会の議題として提案されたのです。
 そもそも校歌とは、その学校の象徴であり、在籍した生徒一人ひとりが、世代を超えてつながることのできる貴重な歌です。
 校歌を歌うのは生徒なら当たり前のこと。そう思う人がいるかもしれません。しかし、私には「恥ずかしい」と思う人の気持ちがよく分かります。それは、私の心の中にも、体裁を取り繕い、本来の自分を隠してしまいたくなる気持ちが潜んでいるからです。
 私は小学生の頃から、人の前に立つことが好きでした。ところが、そんな私のことをよく思っていない人がいました。その人たちからすると、ぽっちゃりで、自分よりかわいくなくて、運動もできない。そんな私が学校で数人しか選ばれない生徒会役員に選ばれたことに納得いかない気持ちがあったのでしょう。それを知り、私は何度も落ち込みました。逃げ出したい気持ちにもなりました。
 それでも、私が今も人前に立つことを好きでいられるのは、仲間と共に挑戦する楽しさ、仲間と一つのことを達成する喜びを体験する機会に恵まれたからです。だからこそ、その楽しさや喜びを、「歌うのが恥ずかしい」と声を出せずにいる人たちにも感じてほしい。そう思いました。
 学校とは、互いを認め合い、一人ひとりが成長していくところです。しかし、「声を出すこと」を怖がるというのは、「失敗したら恥ずかしい。」そんな「自分の声を出すこと」に不安をもって過ごしているということです。歌が上手ではなくても、私は誰もがのびのびと声を出すことができる学校にしていきたいと思います。「みんなと違う」と自分を隠してしまうのではなく、むしろ一人ひとりの違いを活かし合える。一人ひとりの声が響き合う校歌。一人ひとりの声で作られる学校。こうして、色とりどりのカラフルな「個性」が生まれてくるのではないでしょうか。
 私は、性格だけでなく、その人の境遇や思いも個性だと思います。現在、髪を伸ばし、メイクをしてモデルをしている男性がいます。その人は、中学生くらいの頃から、女の子の格好が好きだったそうです。しかし、同級生の男子に「気持ち悪い」と言われ、髪を切ったり、男らしくしたりして、周りの男子に追いつこうと必死だったそうです。そんな時に母親から言われた言葉。
「自分のやりたいことをやりなよ。」
この言葉で自分らしく生きていけるように変わることができたそうです。このエピソードから、自分を認めてくれる環境や仲間には、自分自身を変える力があることを感じました。
 私は、生徒会役員という貴重な体験をしています。友達や家族、先生、生徒会役員の仲間が、成功すれば共に喜び、課題が見つかれば、解決に向けて自分のことのように悩んでくれます。だからこそ私は、自分のできることを精一杯実践していくことができるのです。
 今、私が心がけていきたいことは、「みんなで楽しむ」ということです。緊張していたり、怖がっていたりする人に無理に自分たちの思いを押しつけても、理解してはもらえません。楽しむ姿を見てもらい、私たちの学校を誰もが一緒に楽しめる空間にしていきたいのです。先日の生徒集会では、生徒会役員が手をつなぎ、校歌を楽しんで歌う姿を見てもらいました。その後の校歌斉唱では、これまでに聞いたことがないくらい、大きな歌声が体育館に響き渡りました。でも、これは第一歩です。安心して自分の声が出せる場所に。自分が自分でいられる場所に。誰もが自分を認め、互いの個性を活かせる環境づくりに、仲間と共に、私は挑戦していきます。

優秀賞(県教育長賞)

心のバリア
下関市立文洋中学校 3年 星野 香菜

 「障害者差別解消法」
 初めてこの言葉を耳にしたとき、私は衝撃を受けました。このような法律があること、にではありません。このような法律を作らなければならないほど、「障害者にとって生きづらい社会であった。」ということにです。
 「バリアフリー」という言葉があるように、この世界には障害者にとって様々なバリアがあると思います。段差や様々な人が行きかう歩道。トイレや狭い道。私達にとって小さなことでも、障害者にとって大きな壁となるバリアはたくさんあるのではないでしょうか。体の障害や心の障害。様々な障害がある中、点字ブロックや手すり、段差にスロープを渡すなど、一度街を歩けば「誰もが等しく利用できる」ように、様々なアイディアがはりめぐらされた温かい街が広がっています。私はそんな温かい私達の街を、この国を、とても誇りに思います。
 しかし、障害者にとって一番大きな壁となるのは、段差やトイレでしょうか。せまい道や歩道でしょうか。私はきっと、障害のある人に対して、差別や偏見などの気持ちを抱く、「心のバリア」だと思います。
 かくいう私も、少し前までは、障害者に対して心のバリアを持っていました。
 3年前まで私の通っていた小学校には、障害のある男の子がいました。「怖い。」それが私が彼に抱く印象でした。そんな彼はいつも一人ぼっち。まだまだ幼かった私には、クラスメイト達には、それが障害で、仕方のないことだ、と言われても納得できませんでした。小学校5年生の頃、悲しそうな目で去っていった彼を忘れた日はありません。
 それから中学校に入って卓球を始め、市のスポーツクラブに入りました。世代の違う様々な人達との交流は、私のせまかった視野を広げるキッカケとなりました。クラブに入って半年経った頃、ボランティアの募集がかかり、障害者の方の卓球大会にお手伝いとして参加しました。そこで私が目にしたのは、自分らしくキラキラと輝きながら卓球をする、そんな障害者の方達でした。足がなくても、自分が勝ったかどうか分からなくても、キラキラした眩しい笑顔で、卓球というスポーツを純粋に楽しんでいる。そんな姿に私の心のバリアはどこかに消えていました。
 「相手らしさ」を認めること。それがきっと障害のある人に対して私達が抱く心のバリアを取り除けるたった一つの方法だと思います。足がなくても、勝ったかどうか分からなくても、急に怒りだしても。それがその人の個性であり、私達はそれを認め支えあうべきである。そんな当たり前のことに、彼と、スポーツクラブを通じたボランティアのおかげで気づくことができました。
 では、「相手らしさ」を認めるために、私にできることは何だろう、と考えたとき、他の人と比べ、差別しない、とか、その人の見た目や言動だけで、その人自身を判断しないなど、様々なことが挙げられます。その中で私は、「自分らしさ」を認めることが、一番の近道だと考えます。最近、「どうせ私はスポーツが苦手だから」とか「どうせ僕は成績が悪いから」という言葉をよく耳にします。「どうせ私なんて」と自分を、「自分らしさ」を認められないかぎり、「相手らしさ」を認めるのは難しいと思います。私自身、「自分らしさ」を認められず、転校していった彼の「彼らしさ」を認めることができなかったから。だからきっと、「自分らしさ」を認めることも、「相手らしさ」を認めることと同じ位大切だと思います。
 「障害者差別解消法」
 この法律のように、障害者への差別を解消するため、私達にできることは、「共に生きるすべての人が心のバリアから解放され、相手らしさ、そして自分らしさを認めあう」ということだと思います。そしてこれが、障害者の方々だけでなく、すべての人にとって生きやすい社会作りへとつながっていくのではないでしょうか。
 バリアフリー化が進む中、大きなバリアとなっている「心のバリア」を取り除き、誰もが「今」を精一杯生きることができる。私にできることは小さいかもしれない。それでも私は一歩ふみだす。一人でも多くの人の心のバリアを取り除くために。

優秀賞(県民会議会長賞)

「学活の時間、僕に分けてくれませんか。」
周南市立菊川中学校 3年 西村 泰紀

「先生、僕は実現させたいことができました。協力してもらえませんか。」
それは、母が何気なく言ったこんな言葉がきっかけだった。「ねぇ、赤ちゃんの時にお父さんに抱っこしてもらったことや高い高いをしてもらったこと覚えてる?」母の手元のアルバムには、父の頭上で満面の笑みで宙を舞っている赤ちゃんの僕。そして父は2本の足でしっかりと立っていた。しかし悲しいことに僕の記憶の中では、幼い時から父は既に車椅子だった。原因は良い免疫細胞が悪い免疫細胞に間違われて攻撃を受けてしまう難しい病気。幸い命にかかわる病ではないが、何度も再発を繰り返し同じ箇所が傷つくことで父は足が不自由になってしまった。その度に入院や長期のリハビリを強いられ、僕は小学校の頃、母と2人で過ごすことが多かったのも納得できた。
今、僕達は家族が揃っていて幸せだ。しかし父が障害を負ってからは、簡単なことが難しくなり不自由さや不便さをたくさん抱えているとも正直思う。悲しいことや悔しいことも山ほどある。家族で気軽に旅行もできなくなった。楽しみにして出かける祭りや花火大会などへはなかなか行くことができない。昔人混みで迷惑そうにされたことは僕達の少しのトラウマでもある。スーパーでは利用されないかのように隅っこに置かれている車椅子。催し物のホールでは荷物運搬用の暗いエレベーターに車椅子ごと皆で載せられた。障害者用の駐車場から平気で出てくる元気な人を見かけると、父が車に乗っている時は余計に腹が立つ。バリアフリーといってもまだまだ言葉だけで広く伝わっていないと感じる。
僕が幼稚園の頃、お迎えは祖母の担当だった。父が自宅に戻ってからは、父も車椅子で一緒にやってきた。僕が車椅子の横に立つと、同じ位の背丈で並んでゆっくりと家に帰った。母は僕がいじめられたりしないだろうかと、いつもびくびくしながら僕達を見守っていた。母と出場することが多かった運動会はよそのお父さんに負けまいと母は全力を出し過ぎて僕をよく傷だらけにしたそうだ。そんな母が最後の運動会に父を出した。僕は少し嫌がったみたいだが、杖をついた父を先導する僕の写真がアルバムには収められている。トラックの外側では母の友達が大声で声援を送ってくれたと聞いた。その後母はさらけ出すことを知り、周りの人達に救われ励まされ、泣いて笑って強くなったと教えてくれた。
病気になって良かったと語った水泳の池江璃花子選手、父は決して同じようには言えないが、感謝する心は比べられない程前より大きくなったと口にしていた。僕の中学校では、先生方がいつも父のことを気にかけてくれる。それに、母の心配をよそに僕は今まで友達に父のことで嫌なことを言われたことは一度もない。僕達は本当に恵まれた家族だ。こんな家族のことを発信するのは僕の勇気が必要だったが、両親の何事にも負けない強い心に憧れている。僕も強くなりたい。
今年、中学最後の運動会が待っている。
「親子競技に父さんと出てみようと思う。」今度は自分の意思で言った。僕と父は凸凹なので、どんな風にできるか分からないけど、皆に相談してみよう。僕の我ままに皆をつきあわせることになるけど、皆なら分かってくれるはず、だから勇気を出してきちんと話をしてみようと思う。
誰もが分かりあえる世の中に、支え支えられる世の中になるように、心のバリアフリーがもっともっと広がるように願いながら……だから「先生、学活の時間、僕に分けてくれませんか。」

優良賞

世代を超えて共に生きる
萩市立萩東中学校 2年 濱﨑 そら

 皆さんは、世代の違いによる考え方の違いに悩んだことはありませんか。
 私には尊敬する祖母がいます。いつもひまわりの花のように明るく、優しい祖母を見て、そういう人になりたいと思っていました。ところがある日、そんな穏やかな祖母を怒らせてしまう出来事があったのです。
 私は中学生になったとき、祖母の家に引っ越しました。祖母の家には、「くうちゃん」という猫がいました。もともと一人暮らしだった祖母は、その猫を本当の家族のように大切にしていました。私も大事に思っていました。しかしある日、「くうちゃん」が私の通学カバンや靴を排泄物で汚してしまったのです。突然の出来事に私は許せない気持ちになりました。しばらく「くうちゃん」をリビングから出し、入れないように閉め切りました。そのときのことです。私が朝ご飯を食べようとすると、祖母が起きてきて、強い口調で私に言いました。
「そんな動物をいじめるような子大嫌い。」
そう言われ、私は強いショックを受けました。祖母にそのような言葉を言われるのは初めてのことだったからです。
 祖母は介護の仕事をしており、家に帰るのは遅いときが多いです。それでも、仕事に対して愚痴をこぼしたり、人のことを悪く言ったりしませんでした。そんな祖母が大好きで祖母と話したり出掛けたりするのを楽しみにしていました。まさに自慢の祖母だったのです。しかし、「くうちゃん」のことがあってから、祖母は私と口をきいてくれなくなりました。そのうち、私は祖母のことを悪く言うようになっていったのです。そして、「自分は悪くない」、「どうしてそれぐらいで怒るんだろう」と思うようになりました。
 祖母との生活の中での心のすれ違い。それから約2週間程たったとき、父と母に、
「同じ家に住んでいる家族なのに、話もしないのはどうなの?」
と言われました。私は自分が悪いと言われているみたいで嫌でした。寂しくて嫌になりましたが、直接謝るのはとても勇気がいることでした。いろいろな理由を付け、謝ることを避けていたのです。けれども、これではいつまでもこのままだと思い、ある日、父と一緒に祖母の部屋に行くことにしました。
 祖母は仕事から帰ってきたばかりでした。久しぶりに祖母の顔を見た私は、急に怖くなりました。それでも、私は祖母に自分の思いを知ってほしいと、思い切って話し始めると、「ばあちゃんね、そらから謝ってもらうの、待っとったんよ。そらには思いやりの気持ちを学んでほしかったんよ。ばあちゃん、ひどかったね。ごめんね。」
私は涙が溢れました。私が悪いのに、何度も謝る祖母。やはり祖母は相手思いの自慢の祖母だと改めて思いました。
 祖母との出来事で、私は少し考え方が変わりました。当たり前のことですが、私たちは、生まれた年も生まれた場所も全てが違う、自分とは違う考え方をもつ人たちと出会います。人と人が出会えば、時には共感し、時にはすれ違います。しかし、ふれ合う中でこそ、お互いの配慮の足りないところに気付いたり、相手の本当の気持ちを理解したりできるのではないのでしょうか。
 最近では、私たちはインターネットをよく使います。その中で、私は人と人との考え方の違いをよく感じることがあります。どんな人か分からないから簡単に傷つけるような言葉を使ってしまうことや、他の人の意見に流され、相手に自分の考え方を押しつけてしまうことがあります。顔が見えないコミュニケーション。それだから言えることもあるけれど、どこか思いやりを感じることが少なくなってきたように思います。本当にそれでいいのでしょうか。
 相手の思いを考えずに傷つけたり、傷ついたりするのではなく、相手を思い、思われる温かい社会に。人との関わりやふれ合いは、生きる力を与えてくれます。祖母に教えてもらった、世代を超えた心の通い合い。思いを言葉にして伝えることによって生まれる、心のともしび。この世界がもっと温かい光で溢れる。そんな世界になるように、諦めず、人と関わり続けていきたいです。

優良賞

「仕事の意味」
下松市立久保中学校 3年 佐々木 成道

 小学6年生の時に僕は先生から緑化委員に任命されました。そして、委員会でのみんなの後押しもあって、緑化委員長になりました。
 緑化委員の仕事は、花を植えたり、そのための土を作ったりと、小学生だった僕にとっては、地味で面倒くさいものでした。中でも、特に嫌だったのは、毎日しなければいけない花の水やりです。水やりのために、僕の貴重な昼休みが短くなることが度々ありました。僕はグラウンドで楽しそうに遊んでいる友だちを横目で見ながら、「なんでこんな意味のない無駄な仕事なんかに時間を使わなくてはいけないんだ。」といつも思っていました。
 そんな日が続いたある日、毎日靴を汚して帰る僕に気づいた母から「どうしたの。」と尋ねられました。僕は、「緑化委員の仕事で、靴に泥がついて汚れるんだ。」と答えました。さらに、「地味で意味のない仕事をするのは疲れるよ。」と付け加えました。すると母は、「意味がないことはないよ。きっとだれかの役に立っているんだから。」と言いました。僕は自分の考えが否定されたような気がして、むっとしました。それでその日はもうその話をしませんでした。
 緑化委員長になって3ヶ月が過ぎた頃のことです。ある日、唐突に先生から「いつもありがとう。」と言われました。僕は何のことか分からずに「何のことですか。」と尋ねました。すると先生が、「佐々木さんたちがいつも花を育ててくれているおかげで、学校が明るくなっているよ。」と言われました。僕はこの時、「はっ」としました。意味も需要もないと思っていた活動が、人のためになっていると気付かされたからです。また、同時に母の言っていたことも思い出しました。「意味のない仕事はない」と。それからの僕は、緑化委員の仕事に張り合いが持てるようになりました。それと同時に、あれ程面倒くさいと感じていた仕事を楽しめるようになりました。そしてこの仕事に誇りがもてるようになったのです。
 あれから2年たち、中学生になった僕は今、美化委員長として活動しています。花の水やりの他、学校内の環境整備がおもな仕事です。あいかわらず花の水やりはあります。でも、あの時仕事の意味に気付いたおかげで、嫌々ではなく毎日楽しく活動しています。
 ある日のこと、いつものように水やりをしていた僕は、後輩から「先輩はこんな面倒くさい仕事、嫌じゃないんですか。」と聞かれました。僕は「誰かの役に立っていると思うと、やりがいを感じるし、嬉しくない?」と返しました。すると、後輩は、「確かにそうですね。やる意味があると考えたらやる気になりますね。」とにこやかに言いました。
 僕は美化委員会の仕事を通して大切なことを学びました。意味のない仕事なんて存在しないということです。どんな活動も、やらされるという思いで嫌々やるとその活動の意味に気づけません。しかし、自分の意識を変えて、その活動が誰かの役に立つとか、それをもっとよりよくしようと考えて取り組むと楽しくなり、その仕事は大きな意味を持ってきます。仕事の意味は、人から与えられるものではなく、自分で気づくものでした。
 もう一つ僕が気づいたことがあります。それは自分が楽しく活動すると、周りも楽しくなるということです。嫌々仕事をしている人を見るのは気持ちのよいものではありません。一生懸命楽しみながらやると、その空気は周りの人を包み込み、より楽しい雰囲気になります。
 どんな仕事も、進んで一生懸命やるうちに楽しめるようになる、ということを僕は発見しました。美化委員長の任期はもうあと半年しかありません。みんなが明るく楽しい学校生活が送れるよう、僕は校内の環境美化に、楽しみながら一生懸命取り組んでいきます。

優良賞

「人とうまく付き合っていくには」
周南市立熊毛中学校 3年 岸田 帆乃佳

 誰かの言葉や行動に、嬉しくなったり悲しくなったり、笑ったり泣いたりとそんな経験はありませんか。「言葉」というのは、自分の気持ちを相手に伝えることができる素晴らしいものです。しかし、言葉の選択を間違えると相手を傷つけたり簡単に嫌な気持ちにさせたりしてしまうこともできます。私が、そんな言葉と相手への伝わり方について考えるきっかけになった出来事を書こうと思います。
 私は陸上競技部に所属しています。陸上は大会や記録会、合同練習などが多くあり、中学生や高校生、指導して下さる先生やコーチなど、幅広い年齢の人と関わる機会があります。そんな中で私が難しいなと感じたことは考え方の違う相手との関わり方です。
 世の中には、様々な考え方をもった人がいます。3年生になって知り合いも増え、人間関係が広がった今、自分と考え方の違う人達ともうまく付き合っていかなければなりません。しかし、言葉を通じて互いの思いを伝え合い、理解し合うということは簡単なようで、すごく難しいことです。これまで、専門種目の練習をしていく中で自分と指導者との考え方の相違や、言葉が原因で分かり合えなかったことがあります。相手にうまく思いを伝えるにはどうすれば良いか…。それは、「言葉の使い方」です。
 私が言葉の使い方について考えさせられたのは、職場体験です。私は小学校で1年生を担当させていただきました。約7歳も年の離れた子と接することは普段ないので、始めは少し戸惑いもありました。けれど、私はその2日間でたくさんのことを学び、成長することができました。子供達と接する中で一番大切だと思ったことは、一度相手の立場に立って物事を考えてから発言するということです。授業などで1年生が分からない問題があるとします。その説明をする時、先生は1年生が分かる言葉を選んで使い、ジェスチャーを加えたり例えを出したりしてできる限り丁寧に分かりやすくなるような工夫をされていました。一方的に自分の意見を言うのではなく、相手の目線に立ち自分の思いを具体的な言葉を使って表現することで、相手に伝わりやすくなるのではないでしょうか。
 また、私が気になっていることは「言葉の捉え方」の違いです。よくライン等のSNSで、言葉の捉え方の違いや相手が見て辛くなるような発言をし、友達間でけんかが起きたり、最悪いじめにつながったりするという話を聞いたことはありませんか。私もつい先日、目上の方からラインで言われた言葉で深く落ち込んでしまうことがありました。冗談半分に言った一言かもしれません。人によっては軽く受け流すこともできるでしょう。SNSで簡単に、家にいながら文字の送受信によって便利に会話ができるようになった現在、より一層その使い方について考える必要があると思います。相手の表情や話し口調が全くわからない分、さらに慎重に言葉を選ぶべきではないでしょうか。
 中学校の最高学年となり、下級生にアドバイスしたり自分の意見を言ったりすることも多くあります。そんな時、一度頭で、これで良いのかと確認してから発言する。「それができていないからダメ」と言うのではなく、「こうしたらもっと良くなる」など、言い方次第で相手の捉え方も変わると思います。
 これからも、あらゆる考えの人達や異なる年齢の人達と関わってゆくことになります。その人、その場に合った適切な言葉を判断し、使える人になりたいです。
 また、言葉による誤解を招いたり誰かを不快な気持ちにさせたりすることがないよう、一人一人が常に意識して毎日を過ごさなければなりません。そうすることでよりよい人間関係をつくることができると思います。

優良賞

「身近にある深刻な問題」
萩光塩学院中学校 3年 廣谷 月香

私は、新聞やテレビで自殺や殺人などのニュースをよく目にします。そのような悲しい事件を見ると、胸を痛めずにはいられなくなります。同時に、私は自殺のニュースを見る度に「自殺を止めてあげることはできなかったのか。」と思ってしまいます。最近、少しずつ日本の自殺者数が減ってきているようです。それはとても良いことなのですが、私が問題だと思うのは子供の自殺者が増えていることです。平成30年では568人も自殺しています。なぜ自ら命を絶つ悲劇が繰り返されているのでしょう。その理由として、学校関係の問題が挙げられ、勉強や不登校など問題は様々ですが、いじめを苦にした自殺が後を絶ちません。みんな私と同じくらいの年齢で、まだまだしたいことや将来の夢など、輝かしい未来が待っていたでしょう。それが、いじめによって奪われてしまうなんて絶対にあってはいけないと思います。だから、どうしたら身近で起きているこのような出来事を世の中から無くすことができるか考えてみました。
 まずは、一人で悩まずに親に伝えて学校に相談することが大切だと思います。学校は、いじめにあっていることをはっきり伝えないと動いてはくれません。これは妹の件で良く分かりました。私の妹は、クラスでいじめを受けていました。毎日休まずに学校に行っていましたが、きっと一人で辛く悲しい思いをしていたのだと思います。妹は勇気を出して私達に伝えてくれたので、母が学校に相談しに行って改善されましたが、もし言っていなかったら今も辛い状態のままだったでしょう。
 しかし、「親に心配をかけたくない」という気持ちから事実を言い出せない人も少なくないと思います。そのような人のために、いじめアンケートの配布やスクールカウンセラーの先生、24時間子どもSOSダイヤルなどがあります。自殺に追い込まれてしまった人達は、「誰も自分のことを助けてくれるはずがない」「皆に迷惑をかけるだけだ」というひどい孤立感や、「私なんかいないほうがいい」「生きていても仕方がない」といった無価値観を感じて危険な心理状態に陥ってしまうそうです。そこから救い出してあげるためには、話をじっくり聞いてあげることが一番だと思います。先日、私は素晴らしい記事を見つけました。それは、一人の女性によって女子高生が自殺を思いとどまったということです。その女性は、自殺しようとしている少女に声をかけ、親身に悩みを聞いてあげて抱きしめたそうです。見ず知らずの子にそこまでできるなんて、本当に尊敬しました。また、この女性のような人がもっと増えていってほしいと強く思いました。そして、私も困っている人や助けが必要な人にそっと手を差し伸べられる人になりたいと思います。
 いじめをなくすことは、はっきり言って難しいことだと思います。いじめられた子の死ではいじめを止めることはできないし解決もできません。ですから、いじめられたら勇気を出して助けを求め、周りの人はいじめている人を見かけたら注意し、いじめられている子の力になってあげることが必要だと思います。
 これから先も、いじめやいじめによる自殺を防ぐために、社会や私達一人一人に何ができるのか、それぞれが意識して過ごしていかなければならないのです。

優良賞

「守れない命はない」
周南市立福川中学校 2年 茅原 望愛

最近、頻繁にニュースから聞こえてくる言葉「児童虐待。」 「またか……。」と思う一方で、こんなに当たり前のように起こっていい出来事ではないはずなのに……と思う。児童虐待はなぜ減らないのか。ましてや、自分の血を分けたかけがえのない子供である。どうかしている。一番守ってくれるはずの親がひどい行為をするなんて、私は信じられない。
もし、自分の子がケガをしたり病気になったりしたら、どんな気持ちになるのだろうか。考えただけで切ないし、中学生の私でもこんな心配な気持ちになってしまうのに……。
私の母親はどうなんだろうと思った。私は特別なことがない限り、母とお風呂に入っている。中学生になる前から、自分にもいろいろと悩みも出てきて、親との口数も減ってきた。だから、このお風呂で一緒に過ごす時間は、母と唯一、内緒話のようなことができる貴重な時間になっている。 
その時に、母にもどう思うか聞いてみたことがある。私は弟と年子で、母は働いていたので、育児は本当に大変だったそうだ。イライラしたことも毎日のようにあったそうだ。けれど、大変だということ以上に自分の子は大切で、育児から得るものがたくさんあったと言った。それを聞いて、育児をしているのはつらそうにも聞こえるが、そんなことは決してないと思った。親が子供を育てるということは、当たり前のことなのだ。
しかし、最近はその当たり前のことができなくなっているのだ。「なぜなのだろう」という思いがつのるばかりだった。
事件の中のいくつかは、児童相談所の介入があったにもかかわらず、もう少し早ければ助かった命もあったのにという思いだけがむなしく心に残ったものもある。
「自分の子供なんだから、何をしてもいい。」という人もいるけれど、子供も基本的人権を持つ一人の人間。そんなことを考えない親が増えてきているということは、現代社会の何かがおかしくなってきているのではないかという気がする。
私が母と話していて思ったのは、周りの協力が不可欠だということ。周りの人が手伝ってあげなくても、話を聞いてあげるだけで、大変さは軽減されるのではないか。虐待している親だけを責めても、この問題は解決しない気がする。その親がどうして虐待するようになったのか、親のほうにも手を差し延べないとダメだと思う。そして、人は頼ることも大切だと感じた。虐待というのはそんな簡単な問題ではないかもしれないけれど、初めから虐待しようと思って産む人はいないのではないかと思う。
今回、虐待についての記事を読んで思ったことは、今までは、虐待についてのニュースを見ていても可哀想にというぐらいにしか思っていなかった。母親がどんな気持ちで虐待をしているかなんて考えたことがなかった。
児童相談所に相談してもなかなか動いてくれないなどと聞くと腹が立つし、命を救うために、もっと必死になってほしい。そういう機関の数をもっと増やしてほしいと思った。
「アノネ 
親は子供をみているつもりだけれど 
子供はその親をみているんだな
親よりもきれいなよごれない眼でね」
これは、相田みつをさんの詩の一部だ。私は自分が大人になった時、恥じない大人でいたいと思う。
虐待という問題は決して軽々しいものではない。ましてや育児をしたことのない私がすべてを分かっているわけでもない。しかし、その行為は私にとって許しがたい行為だ。子育ては楽ではない。そんなことを改めて考えさせられた。
子供を産むだけでは、本当の意味の親にはなれない。子供たちの笑顔が奪われることのない明るい世界になってほしいと思う。「守れない命はない。」私達一人一人が周りに目を向け、気をつけることで守れる命があることを社会全体も知ってほしい。


 

H30少年の主張コンクール山口県大会について
2021/06/08

H30少年の主張コンクール山口県大会出場者のみなさん

☆最優秀賞(県知事賞)
「私が今できること」
萩光塩学院中学校 3年 末永 夏穂
 みなさんは、ヘアドネーションという言葉を耳にしたことはありますか。ヘアドネーションとは、生まれつき毛根が存在しない人、不慮の事故や病気で髪の毛を失った人に、自分の髪を無償で提供しウィッグにすることです。私は、この活動を新聞記事で知りました。
 私の将来の夢は美容師になることです。ただ漠然とかっこいい仕事と思っていた私に、ヘアドネーションの取り組みは胸につき刺さりました。この活動に私も参加したいと思い、具体的に活動するにはどうしたらよいのかを調べ、実際に活動に参加した人の話を聞いてみました。
 寄付するためには、31センチ以上必要で、1人分のウィッグを作るには30人分の髪の毛が必要だということです。また、このウイッグを待っている人は100人以上いるという事を知りました。実際にこの活動に参加した友人は、「髪の毛を中途半端にして切って捨ててしまうより、髪の毛を失った人がヘアドネーションのウイッグで喜んでもらえると嬉しい」と言っていました。
 私も伸ばしかけだった髪の毛の長さを計り、参加することを決めました。伸ばしている途中、暑くてうっとうしいと思ったり、この長さの洗髪は時間がかかりめんどうと感じた事もありました。髪の毛が寄付できる長さになり、美容院でいくつかの束にして切ってもらいました。束になった髪の毛を空気が入らないように袋に入れ、大阪にあるジャパンヘアドネーション&チャリティー、通称ジャーダックという団体に送りました。送ってから2ヶ月ぐらいが過ぎ、短い髪型にも慣れてきた頃、私あてに葉書が届きました。それには、「あなたの髪の毛は、髪の毛が無くて困っている人のために大切に使われます。」と書いてありました。本当に自分の髪の毛が人の役に立ち、私の知らない誰かが、自分の髪の毛で明るい気持ちになってくれるかもしれないと思うと胸が温かくなりました。
 中学生の私は、誰かの役に立つことができることなどないと以前は考えていました。しかし、この経験を通して、誰でも何かしたいという気持ちがあればできるということを実感しました。切ったばかりの頃、何人かの人に「あんな長い髪の毛を切ったの?」と言われました。
 その時私は、ヘアドネーションの事を話しました。寄付するだけではなく、一人でも多くの人にこの活動を知ってもらうことも大切だと思ったからです。そんな時、校内での作文発表の場で、私に全校生徒の前でこのことを発表する機会が与えられたのです。
 私は、人の前に出て話をすることが苦手です。しかし、この活動を多くの人に知ってもらうため、勇気をもって発表しました。私の学校は女子生徒も多く、女性の先生もたくさんいらっしゃいます。きれいな髪を長く伸ばしている人がいます。私が作文を読み終えた後、このことを知った生徒や先生が「私も伸ばしてみるよ。」「知らなかった。こんな活動があるなんて。」伝わった、広がったと感じました。いつも自分の事ばかり考えてしまう私は、周りの事もよく見られる人になりたいです。この活動をきっかけに、誰かのためになること、自分にできることが少し分かりました。
 あこがれの美容師になったとき、この活動をまた多くの人に伝え、私の手で長く伸ばした髪をカットすることでしょう。その髪を大切に大切に、必要としている人へ届けるのです。そして今私はまた、髪を伸ばしています。


☆優秀賞(県教育長賞)
「萩往還で学んだこと」
萩市立萩東中学校 2年 山縣 栞乙里

皆さんは、何かを始めようとしても、自分にはどうせ無理だからとか、周りの人がこう言うから、環境が悪いからなど、他のもののせいにして諦める。そんなことはありませんか。私も少し前まではそうでした。部活も勉強も、とにかく理由を見付けて中途半端にやっていました。しかし、最近、そんな私の心を変える出来事があったのです。
私の学校では、「萩往還を歩こう」という2年生の行事があります。その名の通り、萩往還という、昔の人が歩いた道を実際に歩いてみようという行事です。私は、昔の人が旅をする際に歩いていたのだから、そこまで大変ではないだろうと、軽く考えていました。しかし、実際に歩いてみると、想像を超える厳しさでした。壁のような坂道がいくつもいくつも続き、体力だけでなく、精神もへとへとになりました。こんなに辛い道なんて、もう二度と歩きたくない、と思う程でした。そして、昔の人々は、こんなに大変な思いをして旅をしていたのかと驚きました。さらに、その旅の目的が「藩の外へ出て勉強したいから」と、強制ではなく、自分の意志でこの道を歩いたことを知りました。自分から命懸けで学びたいと願って萩往還を歩いた人がいる。昔の人の学びに対する意欲は、とてつもないものだったのです。
一方、私はどうでしょうか。目的の達成のために萩往還を歩いた方々のような、学ぶ意欲はあるでしょうか。私は、勉強は大切だと分かっていても、自分から進んでやろうと思うことはできません。今は、分からないことがあればいつでもインターネットで調べることができます。また、歩かなくても車でどこまでも行くことができます。そのような今の環境は、とても贅沢なものです。昔の人は学びたくても学べない状況があったのに、今はいつでも誰でも簡単に学ぶことができる。そのような環境にある現代社会にありながら、今まで私は何をしてきたのでしょうか。
松陰先生の言葉に、「能はざるに非ざるなり、成さざるなり。」という言葉があります。意味は、「出来ないのではない。やらないのである。」ということです。私は今まで自分より勉強ができたり、部活で上手だったりする人達に対して、もともと才能がある人達だから、などと勝手に考えていました。しかし、松陰先生の言葉を知って、私の思っていることは、やる気が出ず、結果が出ないときのための言い訳に過ぎないことが分かりました。これまでの私は、何も出来ないのではなく、何もやっていない、やろうとしていない状態だったのだと思いました。それと同時に、自分よりも出来る人は私と違って毎日毎日努力をしてきたからこそ、こんなに差がついたのだということに気付きました。才能など関係なく、気持ちの問題だと分かり、自分が今までどれだけ甘えていたのかと後悔しました。そして、これからを変えていきたい。懸命に努力していきたいと思うようになりました。
萩往還は、仲間と共に歩きながらも、私にとっては、目的に向かってひたむきに歩いた昔の人々のことを想う旅でした。今年は明治維新から150年という記念の年です。世の中をよりよい方へ変えていこうという志をもって生き、明治維新を成し遂げた歴史上の人物も歩いた萩往還。険しく苦しく、長い道のりだったからこそ、真剣に昔の人達の生き方を想い、自分を振り返ることができたのだと思います。環境のせいにしたり、才能のせいにしたりするのではなく、目的をもって何かを始めようとする心は、社会や物事を変えていく原動力です。前向きに努力すること。それを積み重ねること。挫けそうになっても、決して諦めないこと。萩往還を最後まで歩き続け、たどり着いた考え。それを手にした今、自分の力で未来を切り拓いていく覚悟です。


☆優秀賞(県民会議会長賞)
「史上最大のパフォーマンス」
萩光塩学院中学校 3年 福嶋 希衣

私は、今年の春休みに、ある映画を観ました。それは、「グレイテスト・ショーマン」です。題名にある通り、この作品は、ある1人のショーマンの話で、大体が実話です。「史上最大のショーマンが贈る、最も素晴らしいショー。」私は、この作品が大好きになりました。それは、この作品に共通点を見つけたからです。
主人公は、P・T・バーナム。彼は周りの人たちから「偏見」をもたれている人を自分のサーカス団に出演させ、ショーとして成功させた人です。出演する人の中には、ホルモンの異常で、ヒゲが生えている女性や、体の一部分がつながっている人、足が3本ある人などがいました。小さい事ですが、私は、主人公のバーナムではなく、出演者の人たちとの共通点を見つけました。共通点といっても私が、この人たちのように、今までひどい扱いを受けてきたという訳ではありません。その共通点とは、私もその人たちも、自分たちのパフォーマンスで観客を笑顔にすることを誇りに思っているという点です。
私には、「ミュージカル女優になりたい」という夢があります。小さい頃に、よく、私の両親が舞台に連れて行ってくれました。その時に、スポットライトを浴びて、大勢の観客の前でパフォーマンスしている役者さんが私には輝いてみえました。それに私は、小さい頃からダンスや歌が大好きでした。そのため、私は、将来、舞台女優になる事を決意したのです。しかし、私が小学生の時、クラスの友達の前で、自分の夢を発表する機会がありました。その時、私が自分の夢を言うと、皆は、「何それ~」「人前で何かするのって恥ずかしいし、ちょっとおかしいよね」などと、ヒソヒソと周りの子と話していました。私は、ミュージカル女優になるという夢に、誇りを持っていたので、正直、その時はショックでした。周りは、ほとんどが「保育士」や「看護師」といった職業に就くことを夢にしていました。そのため、私が皆とは少し違った夢を目指している事が、少しおかしかったのかもしれません。しかし、私は自分の「個性」を夢にする事をあきらめたくありませんでした。私の大好きなダンスや歌で、観客の人を笑顔にしたかったのです。
グレイテスト・ショーマンにもでてきた、サーカスのパフォーマーの人たちもそうです。「見た目」などで偏見を持たれ、差別を受けてきた人々、親や知り合いまでもから、存在をかくされてきた人々。しかし、その一人一人が「個性」の塊なのです。それぞれの個性が集まるからこそ、観客から、笑顔が溢れたのです。
ひげ女のレティーを始めとしたサーカスのパフォーマーの人たちは、今まで隠してきた個性を大勢の観客の前で最大限に発揮することで、たくさんの人々を笑顔にしました。初めは興味半分で訪れた人も、彼らのパフォーマンスが終われば、誰もが「楽しかった」「おもしろかった」と言いながら帰っていきます。レティーたちは、自分たちのパフォーマンスで観客を笑顔にするという事に誇りを持っています。そして、それぞれの「個性」にも……。
私は今も、「ミュージカル女優になる」という夢を追い続けています。私は、自分のパフォーマンスで、観客を笑顔にできるこの夢に、誇りを持っています。そのため、この夢は誰が何と言おうと変わる事はありません。私が将来、この夢をかなえたら、私は、自分の「個性」を最大限まで発揮して、数えきれない程の観客を私のパフォーマンスで笑顔にします。そして、いつか「史上最大のパフォーマンス」をお届けすることを約束します。


☆優良賞
「もうスマホは要らない」
周南市立菊川中学校 2年 西村 泰紀

 真新しい制服やかばん、自転車、バットやグローブ、中学校入学のお祝いに両親は僕に色々な物を揃えてくれた。けれど僕が欲しいものは他にあった。「お前、持ってないん、かわいそうー。」いつも友達からこう言われる。うらやましい気持ちがいつも心にあった。「みんな持っちょるからスマホ買って。」と何度か両親にアタックしたことはあるが、答えは決まって「NO!」だった。2人はかなりアナログ派だ。
 中学生活も軌道にのり、それぞれが部活や勉強にと忙しくなり、口数も減ってきたのを感じていた最中、なぜか僕の友達は別の友達と遊ぶ約束をしたり、一緒に映画に行ったりしていた。ラインで約束をしていたという話を聞き、僕はふっと淋しくなった。そんなある日、クラスの学習委員が翌日の日課を間違えて板書していたため、グループラインで一斉に変更を知らせていた。忘れたのは僕を含め数名だった。両親に再度スマホを願い出てみたが、返事は決して変わらなかった。その時に初めて両親の思いを聞いた。一つ目は金銭的なこと、二つ目は今、きちんと話ができる人になってほしいといった内容だった。母は「昭和」な人だ。島育ちで遊びは海や山、時々校庭で遊ぶ日は、年齢の上下なく群れて大勢で楽しく遊んだ話を延々としている。こんな母とのやりとりはいつも平行線で終わってしまう。でもやっぱりラインで話したり、家に居ながら友達とゲームでつながることができるなんて魅力的だと思ってしまう。
 ある夜「明日の日課教えてー。」と友達から電話がきた。「誰かにラインで聞けば早いのに。」と言うと「たいきに聞けばちゃんと教えてくれるからさ。」とうれしいことを言ってくれる。受話器を持ちながら思わず顔がニヤけた。僕も日課を書き忘れることがある。当然電話を使う。「夜遅いのだからすみませんって言うのよ。」と側で母がくどくど言っている。夜分遅くにの言葉から始まり、用件を伝えて返事をもらう、この一連の流れはやはり面倒だ。でも友達の生の声が聞けるのは悪くないなぁとも思う。
 以前、東京で地下鉄に乗った。超満員の電車の中でも、ほとんどの人が一言もしゃべらずに下を向きスマホを触っている光景は僕の目には異様に映った。又、スマホに夢中になり自転車で老人をはねてしまった事故もあった。ラインが原因でいじめに発展してしまった例もある。学校では校長先生が、これからの世の中は人工知能をもったロボットが活躍する時代がくると話していた。将来なくなってしまう職業も増えるらしい。「猿の惑星」は猿対人間だが、これからはロボット対人間の世界になってしまうのだろうか?なんだか恐怖を感じてしまう。だが校長先生はロボットに機能をかき込むのは人間にしかできないことであり、これからは今以上に人の心が大切な世の中になると教えて下さった。
 両親の考えはあながち間違っていないのかもしれない。今、僕にはスマホはない方がいいのかもしれない。昔は男子のけんかはとっくみあって、ぶつかりあって翌日には何事もなかったかのようにケロッとしたもんだったと父や祖父から聞いたことがある。僕の周りでは、そんなけんかはあまり見たことがない。体と体がぶつかりあう、心と心がぶつかりあう、そんな経験が減っているのかもしれない。僕は便利さにあまり頼らず、面倒くさいこともしてみようと思った。そして友達の目を見てたくさん話をしようと思った。
 僕の友たち!もっと語ろう!もっとぶつかろう!
 僕はいつだってファイティングポーズで待っているよ!


☆優良賞
「正しい上下関係」
山口県立高森みどり中学校 3年 成本 麗菜

 「わたしたちカヌー部は先輩後輩関係なく毎日楽しく活動しています。」これがわたしたちカヌー部の新入生向けの部活動紹介です。しかし、「先輩と後輩の壁がない」というのは、よいことなのでしょうか。私はこの春新しい後輩ができて、そのことをよく考えるようになりました。
 私が所属しているカヌー部では、女子の人数が少なく、女子の先輩は1人しかいません。でも、その先輩はいつも明るくて、弱音などちっとも吐かず、いつも一生懸命で、私の憧れの人です。私がカヌー部に入部して1年が経った頃、初めての後輩ができました。女子は1人だったけど、とても嬉しくて、友達と大喜びしたのを今でも鮮明に思い出せます。その子は、とてもしっかりしていて、「いい子だなぁ」と思っていました。
 そして、今年の春になり、また新しい後輩ができました。今年は、女子が3人も入部してくれ、部も賑やかになり、これからがとても楽しみに思えていました。1年生は、自分に素直な子達ばかりで先輩後輩関係なくはしゃぐこともよくありました。しかし、しばらくすると、2年生と1年生がうまくいかなくなり、仲がぎくしゃくするようになりました。始まりは、1年生が2年生に対して友達のようになれなれしく接することからでした。私はそれまで1年生に対して、人なつこくてかわいいし、楽しければそれでいいと思っていました。でも、楽しいだけではいけないことを実感しました。
 日頃から、先輩後輩の関係を気にせずにいると、きちんとしないといけない場でも、ぼろが出てしまいます。先輩と後輩の壁がないというのは、いつも楽しいとか先輩と仲がいいという面ではいいことだと思います。でも、一度規律が乱れてしまうと修復するには時間も手間もかかり、悪循環に陥ってしまいます。実際、私の部では何度か話し合いを行い、その場では状況が良くなりましたが、いまだに裏ではぎくしゃくとした関係が続いています。ぎくしゃくしているだけならいいとしても、口論になったり、いじめなどに発展したりすると、ただ事ではなくなります。先輩も後輩も、お互いがお互いへの接し方や関わり方について考え直すことが大切だと思います。
 当事者だけではなく、その周りの人に問題があることもあるかもしれません。私たちの場合、場をわきまえていない行動に対して、「注意」をしませんでした。私たち3年生が後輩の態度を容認していたことになります。もしも、あの時こうしていれば……と思っても、もう遅いです。その時その瞬間に判断して、言わないと何も変わりません。間違ったことをしてしまった本人も、後からむし返されて言われるより、その時注意された方がすっと受け入れられるのではないかと思います。
 先輩は後輩の面倒をみたり、正しいことを教えたりして、お手本となる存在となり、後輩は、先輩から学び、感謝し、礼を尽くす。それが昔から日本人が大切にしてきた上下関係なのだと思います。そして、お互いがいい距離を保ちながら、協力しあうことで、上下関係のトラブルも減ってくるのではないでしょうか。
 最近、道徳の授業で先輩と後輩について、考える機会がありました。自分が「尊敬する先輩」と「苦手な先輩」について、話し合いました。いつも一生懸命、誰よりも頑張る、など尊敬できる先輩に対してポジティブな言葉が飛び交う中、自慢が多い、めんどくさいことは後輩に押しつける、などといったネガティブな言葉ばかりが苦手な先輩に対しては挙がっていました。私はどっちなんだろうと考えたとき、自信を持って「尊敬する先輩」だとは言えない自分に苛立ちを覚えました。
 これからは、いけないことはいけないと注意し、でも厳しくする分、後輩をたくさん可愛がり、よりよい上下関係を築いていきたいです。そして、「尊敬する先輩」に一歩でも近づくために、頑張っていきます。


☆優良賞
「今、この瞬間を生きる」
下松市立末武中学校 2年 怒和 桃子

 眩しい太陽がじりじりと私を照りつけます。何かを私に伝えるかのように。私は空を見上げ、太陽を睨み返しました。
 中学生になって、1年が経とうとしていました。中学校にも慣れ、学校行事も頑張りました。信じられる親友もできました。しかし、その一方で、私は部活動に本気になれませんでした。テニスコートでボールを打つ先輩を見ながら、物足りなさや不安を感じている自分がいました。
 私たちは春休み、島根県に遠征試合に行きました。練習試合で、私は先輩と組ませてもらいました。先輩は県の中でもトップクラスの選手です。いざ試合となった時、私は汗でうまくラケットが持てませんでした。相手は県外のとても上手な選手で、一瞬の隙を見逃しません。先輩が歯を食いしばって接戦に持ち込んでくれましたが、私のミスが原因で負けてしまいました。練習試合とはいえ、私は先輩への申し訳なさで一杯になりました。自分の一つひとつのプレーが頭によみがえり、強い後悔の気持ちが頭の中で堂々巡りを始めました。
 私が落ち込んでいると、父が穏やかな声で私を諭すように言いました。
 「今の試合で、あなただけが自分のミスを気にしていた。コートの中にいた他の3人はプレーのことを考え、試合に集中していたよ。目を向けるべきは、してしまった失敗よりも、次に自分がどんな役割をすべきかを考えるということなんじゃないかな。」
 私は父に言われて初めて、自分の中にくすぶっていた何かが突然弾けたように、気持ちが軽くなるのを感じました。私は自分の失敗や試合の結果にとらわれ、自分のことばかり考えていました。父の言葉から、自分は今まで何もわかっていなかったのではないかと思いました。自分のことで精一杯で全く周りが見えていませんでした。
 県体予選まであと1週間を切ったある日、2面しか使えないコートの1面を団体メンバー8人で使うことになりました。もう一つのコートでは、たくさんの人が長蛇の列を作って、ボールを打つ順番を待っています。「みんな文句も言わず私たちのために我慢してくれている。それなのに自分が頑張らないなんて許されない。それが団体メンバーとしての責任だし、みんなの気持ちに応えることなのだ。」と思いました。
 そして、いよいよ県体予選の日を迎えました。「ゲームカウントスリーオールファイナルゲーム……デュース」あと2ポイントで負けてしまう。私は何度も汗を拭いました。この緊迫した状況で、私のサーブからのスタートです。私はカウントを聞きながら、グリップを確認しました。その時、今までの日々が濁流のように頭の中に流れ込んできました。全力でした練習。みんなにコートを譲ってもらったこと。たくさんの人の声援。今本気にならないでどうするんだという強い気持ちが私の体を突き動かしました。そして、無心に白球を追った結果、試合に勝ち県体に出場できるようになったのです。
 最近では以前のように不安を感じることもなく、練習に集中できるようになりました。ボールを拾いながら思いました。失敗を振り返るのも大切だけど、一番大切なのは、強い気持ちをもって今を一生懸命生きることだ。そして、辛いとき、その私の気持ちを支えてくれたのは、私を応援してくれる仲間の声だった。みんながいてくれて本当に良かった。
 私はなぜだか、もっともっとできる気がしています。全力で取り組むほど世界が広がっていくような気がします。
 ふと見上げた空は澄み切った青色で、そこには真っ白い飛行機雲が、果てしなく伸びていました。


☆優良賞
「サザンカのように」
周南市立熊毛中学校 1年 三輪 大賀

 ぼくは、生まれた時から食物アレルギーがある。小麦と牛乳を食べてしまうと、命にかかわるアナフィラキシーショックを起こしてしまう。アナフィラキシーショックとは、体にじんましんが出たり、せきが出て息が苦しくなったり、気持ち悪くなってはいたりする症状が同時に出て、意識を失うことだ。
 2歳位の時にぼくは、アナフィラキシーになった事がある。だいぶ前のことだからよく覚えていないけれども、とても苦しかったということだけは覚えている。
 そうならないために、いつも食事には気をつけている。給食でも、お母さんが作ったお弁当を食べている。除去食というアレルギーの原因となる食品を除いて作られた給食を、センターで作ってもらって食べることもある。
 ぼくは、周りの多くの人たちに支えられているんだということが分かった。学校の先生や友達、給食センターの人、そして何より家族のみんな、いろいろな人たちに助けられているからこそ今のぼくがある。
 お母さんは、給食の献立などを見て、ぼくが食べられるものと食べられないものに分けてチェックしてくれる。誰よりも心強い味方だ。
 お父さんは、ぼくを楽しませてくれる。ぼくが食物アレルギーがあって旅行が大変になるにもかかわらず、何回も旅行につれて行ってくれる。非常食を食べるキャンプをしたこともある。お父さんのおかげで、たくさんの思い出ができた。
 ぼくは、何でも食べている自分を想像することがある。ラーメンってどんな味がするんだろう、うどんは?ピザは?ケーキやソフトクリーム、クッキーやシュークリームはどんな味だろう?いつか、何でも食べられるようになる日を、ぼくは、楽しみに待っている。
 ぼくの主治医の先生は、とても優しく、無理して食べる治療を進めない。ぼくの気持ちを最優先にしてくれる。あちこち講演会や診察でいそがしいけれども、アレルギーがある人達のためにがんばっている。
 ちなみに、アレルギーと深い関わりのあるIgEを発見したのは日本人である。また、アレルギーの症状をおさえる自己注射(エピペン)の成分に使われているアドレナリンを発見したのも日本人である。
 ぼくも、将来、未だ解明されていないアレルギーの新薬の開発にたずさわりたいと思っている。ぼくと同じ様に、食べずにがんばっている人たちや子供たちといっしょによりそえる医者になりたいと思う。
 ぼくが、「サザンカ」をタイトルに使ったのは、歌手セカイノオワリの曲である「サザンカ」の意味を調べたことがきっかけだった。サザンカの花言葉は、「困難に打ちかつ」というものだ。「サザンカ」の曲の歌詞も花言葉も、今のぼくと重なる部分があった。
 「いつだって物語の主人公が立ち上がる限り、物語は続くんだ」
 ぼくは、いろんな人の支えや協力や応援によってこれまでやってきた。これからも、たとえ食物アレルギーがあったとしても、いろいろなことをあきらめず、自分を大切にしていきたい。自分を守りながら、感謝を忘れず歩んでいきたい。そんな思いを込めて。
 最後に、ぼくの最大の味方である家族に、いつもありがとうと伝えたい。ぼくが、あきらめず夢をもって生活することができたのは家族のおかげだ。いつも優しいお母さん。自分の好きなことを楽しんでいるお父さん。かわいい弟とぼくの4人家族でいっしょにいられることの幸せに、ありがとう。


☆優良賞
「あたりまえ」
周南市立熊毛中学校 1年 吉松 潤

僕はこの4月9日から中学1年生になった。入学式は、多くの方々の参列により、華やかに終えることができた。中学校の始めには、入学式があってあたりまえ、準備がされていてあたりまえと思っている人も多いだろう。しかし、この世の中には「あたりまえ」ということは存在しないと思う。
僕が小学5年生の頃、教頭先生に、「皆があたりまえだと思っていることには、必ず誰かの苦労や努力があります。」と言われた。その言葉に僕は、はっとした。それまでの僕は、目に見えるものばかり気にして、その奥にある苦労や努力に、目を向けていなかったからだ。
その言葉から、僕の考え方は一変した。どんなことにも、誰がどのようなことをしてくれたのだろうと、常に考えられるようになった。
例えば、運動会。先生方が、僕達が最高の演技ができるように、構成を考えたり、小物を用意してくれたりした。僕も最高学年として、応援団長として、準備や下級生への指導をすることが多かったために、他の人よりも先生のサポートが分かった。
運動会の前日準備。地域の方々が一生懸命準備をしてくださった。僕の通った小学校は児童数が少なく、保護者の方や先生だけでなく、地域の方が手伝ってくれるのだ。
次の日には、当然のように運動会が始まった。当日は、競技にも参加してもらい、とても楽しく、思い出に残る運動会になった。僕達は地域の人との関わりが多い分、準備してくださった方々への感謝をしなければならないと感じた。
また、学校で毎日出る給食。「いただきます」「ごちそうさま」、皆言わなければいけないから言っているように見える。中には、途中で言うのをやめてしまったり、言わなかったりして、早く遊びに行きたいからなどと言って立ち歩く人もいる。本当に、それで良いのだろうか。いや、良いわけがない。なぜなら、給食には、給食を作ってくださった人はもちろん、食材を作ってくれた人、運んでくれた人など、たくさんの人が関わっているからだ。給食はあたりまえなどではない。
家での食事も例外ではない。自分の親が作っているから、感謝する必要はない、などということは有り得ない。自分のために作ってくれているのならば、当然感謝はしなければならないのではないだろうか。別に口で言わなくても、恥ずかしいのなら、そう思うだけでも良いと思う。感謝とは、口で言えば良いのではなく、感じることが大切だからだ。
今の時代では、朝、昼、夜の3食きちんと食べることができる。しかし、昔は満足に食事ができない人がたくさんいた。今でも、海外では、栄養失調で、生死の間をさまよっている人がたくさんいる。CMで、そんな人達を助けるための寄付を呼びかけるものを見たことがある。そのような人々がいるのに、僕達は食事ができてあたりまえなどと思っていてはいけないのではないだろうか。僕達がこうして食事ができることは、ある意味奇跡かもしれない。
ここまで深く考えると、あたりまえと感じることはなくなると思う。これから生きていく中で、どれだけ深く考え、感謝できるかは一人ひとり違ってくる。僕は常に、支えてくれている全ての人に感謝の気持ちを持っていきたい。
あたりまえの反対語はありがとうだと考える。調べてみると、ありがとうとは「有難う」と書く。あることがむずかしい、まれである、めったにない事にめぐりあう、という意味である。普段の何気ない生活をあたりまえだと思わず、一瞬を大切に生きていきたい。
「有ること難し」


 

H29少年の主張コンクール山口県大会について
2021/06/08

H29少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん

表彰式の様子

【最優秀賞】(県知事賞)
「私と妹の挑戦」~みんなに知ってもらうために~
山口県立下関中等教育学校 3回生 宮本 伊織

 今このときも懸命に病気と闘っている、私の大切な妹。私と家族は、妹に寄り添って、一緒に生きています。一緒に妹とどこへでも行き、一緒に妹と歌いたい。たくさんの方々に、妹のことを知ってもらい、隣人として受けとめてほしいからです。
 私には6歳違いの妹がいます。私は彼女が産まれると告げられたときのことを、よく覚えています。思わず布団の上を飛び跳ねて喜び、大騒ぎをしました。
 実際に産まれた妹は、保育器の中で大人の手のひら2つくらいの小さな女の子でした。妹は発病率が100万人にひとりという難病「滑脳症」という病気とともに、この世に生を受けたのです。滑る脳と書いて滑脳症。脳の形成異常により、現在でも、歩くことも話すこともできず、食事も自由に取りづらい妹。
 けれど、妹が産まれた当時の私は、妹のお世話ができるうれしさばかりで、妹の病気の重大さを理解できていませんでした。母には、「病気は治るんだよね、退院できたら一緒に遊ぶんだよ。」と話していたそうです。彼女が産まれて1年がたって、退院の日が来ました。初めて抱いた妹は、小さくて、頬が柔らかくて、じんわりとしたぬくもりを感じました。
 しかし、滑脳症と共に生きることは、たくさんの困難を妹に課してきます。3歳になっても彼女は歩くことが難しく、出かけるときは、車椅子を使用しなければなりません。一緒に出かけられる楽しさの反面、私は彼女を見る周囲の目が気になるようになりました。そしてやがて、私はいつの間にか、彼女がどんなに大変な思いをしているのかも考えずに、外出するときは一緒にいることを避けるようになっていました。
 そんなある日、私は妹の通っている施設を訪問しました。そこには、様々な病気と共に生きている方々の姿がありました。そしてそこには、予想以上にたくさんの笑顔がありました。一方で、病気と闘うために辛いリハビリを友達と協力して乗り越える姿もありました。その姿を見ている内に「みんな誰も障がいに屈していない。今できることを一生懸命やっているのだ。」とすぐに気がつきました。そしてそんな中で、一生懸命頑張っている妹の姿にも気がつきました。そのとき私は、自分が恥ずかしくなりました。
 そのことに気づいてからも、私は変われませんでした。小さい子どもが妹を見て「赤ちゃんどうしたの。」などと話しかけられると、うつむいてしまったりすることが続きました。彼女を思う気持ちはあるのに、なぜか心がすっきりしない。そして私はこう思いました。それは私が彼女の病気のことをはっきり知ろうとしなかったからだと。そこで、思い切って母に「妹の病気について詳しく教えてほしい。」と打ち明けました。
 母はゆっくりと口を開きました。考えながら、誠意をもって妹について教えてくれました。受け入れにくいこともありました。ですが私がこのとき学んだのは、彼女の姉として堂々としていかなければならないということでした。
 そこで私は、妹のことをみんなに知ってもらおうと思いました。妹のことを知ってもらうことで妹と触れ合うことに抵抗感を持たなくてすむようになるからです。思い切って友達に紹介したら、すぐにみんな仲良くなってくれました。すると、お出かけも周囲の目も気にならなくなりました。みんなの中にいるとすぐに笑顔で楽しんでくれる妹。一緒にいることが私の喜びになりました。
 私は今、妹の利用している施設でボランティア活動をしています。ウクレレを演奏してみんなで歌を歌っています。歌は素晴らしいです。施設のみんなの歌声は色々あります。しかし、みんなみんな笑顔です。その笑顔と共に歌っていると、みんなとつながりあっていきたい。妹や仲間たちをたくさんの人に知ってほしい。という気持ちがどんどんわき上がってきます。
 今では、妹と妹の友達達と私は、ウクレレ発表会に参加しています。このことを通して彼女達を知ってもらいたいということ。もっとたくさんの人とつながることの大切さ。このことを発信していくことが、私達家族と仲間達の最大限の挑戦だと考えるからです。


【優秀賞】(県教育長賞)
「障害者」を差別しないで
萩市立萩東中学校 3年 児玉 清香

世界には、いろいろな人がいます。大人、子ども、高齢者。背の高い人、低い人。スポーツができる人。頭のいい人。いろいろな人がたくさんいます。そして、私たちは皆同じ人間です。しかし、世の中で人間は「健常者」と「障害者」に分けられることがあります。
 私の母は健常者ではありません。母は脳性麻痺をもって生まれ、今も足などに麻痺が残っています。目をしっかりあけることも容易ではありません。みなさんはそんな障害者について、どのような考えをもっていますか。
 私は小学校に入学するまで、母のことを「みんなと同じ普通のお母さん」だと思っていました。障害というものを知らなかったからです。しかし、小学校に入学すると、多くの友達が母の障害について疑問に思ったのか、
「ねぇ、お母さんって病気なの。」
と、よく聞かれました。ときどき、
「なんでちゃんとしゃべれないの。」
と、私にも分からない質問をされたこともありました。そのたびに、
「障害者だから、仕方ないんだよ。」
と説明していましたが、「障害者」の言葉を使うたび、聞くたびに心が痛みました。障害者は病気ではありません。完全に治すことができないのです。それでもみんなは理解してくれず、同じ質問をしてきます。そして私も、同じ説明をする繰り返しでした。
 やはり、障害者は悪いイメージばかりもたれるのでしょうか。彼らは悪いことなど一つもしていないのに。しかし、私は小学校高学年の頃から周囲の目が気になって、
「参観日、絶対来ないで。」
と、母にひどいことを言うようになってしまいました。娘の私が、母に対して決して言ってはいけない言葉のはずなのに。何度も母に言ってしまいました。でも、そのたびに母は、
「ごめんね、普通じゃなくて。」
と謝るのです。母がいつもどんな気持ちでいたか、私には想像もできません。本当に謝らなければいけないのは私のはずなのに。
 しかし、中学校に入学すると、障害に対する周囲の目はエスカレートしていきました。悪口を言わなくても、私が冷たい目で見られたり、障害者とあだ名をつけられたりもしました。もっとひどいときには、
「おまえの母さん、顔ぐちゃぐちゃ!。」
と言われたことがあります。今まで同じようなことを何度も言われたけど、面と向かって言われるととてもショックで、とても母には言えませんでした。怒り、悲しみ、悔しさが入り混じって、何度も泣きました。
 私はそのとき改めて、「障害者」は「障害者」という理由だけで、差別的な言葉を投げつけられたり、周囲の人に冷たい目で見られて避けられたりして、悪いイメージをもたれているのだと感じました。母は、障害者は、なりたくて障害者になったのではありません。それなのに、障害者について悪く言ったり、マイナスに思うことは差別であると私は思います。確かに障害者は、ものごとをするのも困難で、健常者よりも大変なことが少なくありません。でも、障害者も健常者も同じ人間です。温かい心があります。ひどいことを言えば、誰でも傷つきます。優しい言葉をかければ、誰でも嬉しくなるはずです。
 私の母は、一生懸命に私のことを育ててくれます。私のことを一番にわかって、大切に思ってくれる、かけがえのない存在です。だから今も、これからも、母の障害について悪く思わず、差別から母を守ろうと思います。
 障害者は不便でも、不幸ではありません。周囲の人に支えられて生きていることは、とても幸せなことだからです。
 私は、母が大好きです。だから、障害者を差別しないでください。障害者も健常者も、同じ人間なのですから。


【優秀賞】(県民会議会長賞)
「本当の優しさ」
周南市立熊毛中学校 3年 磯村 早希

私には保育園に通っていたときから仲の良い男の子の友達がいます。保育園の卒園式の時、私は初めて彼に知的障害があり、同じ小学校に通えないことを知りました。その時まで彼がなぜ自分たちと違う教室にいるのか、どうして食事を一緒にしないのか不思議に思っていました。幼かった私は彼の障害を知り、彼のことを「周りと違うんだ。普通じゃないんだ」と思うようになりました。
 小学校に入学し、障害がある方との交流を何度か行いました。彼もその場にいて、たくさんの人と交流をしていました。しかし、再会したのにもかかわらず、私は彼に初めて会ったかのように振る舞いました。私は彼に声をかけるのが怖かったのだと思います。もしかすると自分のことを覚えていないかもしれないと思ったからです。そして、正直に言うと心の底に、彼と仲良くしたら他の人から変だと思われてしまうかもしれないという彼を差別する気持ちもありました。そんな私の様子を見ていた周りの人は私に「周りと少し違うだけだから、仲良くしてあげて。」と言われました。
 交流会も回数を重ねたある日、私は思いきって彼に話しかけてみました。すると彼は話すことはできなかったけど、私の顔を見て笑ってくれました。その笑顔を見たとき彼が私を覚えてくれていたことが分かり、嬉しくなりました。今度こそ彼と真正面から向き合って彼がもっと笑顔になれるよう、できるだけサポートしようと心に決めました。
 それからの私は、交流の機会がある度に、「私にできることは何でも、全部してあげよう。」と思いました。車椅子を押したり物を取ってきて渡してあげたり、彼の役に立てるように心がけました。
 そんなある日、彼のお母さんからこんな言葉をかけられたのです。「いつも一緒にいてくれて有難う。」そう言われた私は彼の役に立てたことが嬉しくて、誇らしくなりました。しかし、彼のお母さんはその後にこう続けたのです。「一緒にいてくれることは嬉しいけれど、あの子にもできることがあるの。何でもしてあげるんじゃなくて、できるまで見守っていてほしいの。いつも優しくしてくれるのに、こんなこと言ってごめんね。」
 私はその言葉を聞いたときたいへんなショックを受けました。今まで私がしてきたことは優しさではなく、自己満足だったのです。彼のお母さんは、彼の立場や気持ちを考え、彼が達成感を感じ自立できるように心を配っておられました。しかし私は上から目線で彼の気持ちも考えず、自己満足と自分の罪悪感をなくすために行動していたのです。
 私は本当の優しさとは何か考えました。そして、今まで自分がしたことや思ったこと、周囲の人が言っていたことを思い出しました。すると、初めて分かりました。自分が思った「普通じゃない」「全部してあげる」という思いや行動がどれだけ彼を傷つけていたのか。「周りと違うから、優しくしてあげて。」という言葉がどれだけ彼を苦しめていたのか。彼のお母さんに、「ごめんね。」と言われるまで気付くことができなかった自分は本当に最低の人間だと思いました。
 「本当の優しさ」とは相手を知ろうとすること、正面から向き合うことから始まります。もちろん自分と相手の今まで生きてきた環境が違うのだから、相手の気持ちを相手と全く同じに理解することはできません。でも、近づくことはできます。相手の立場に立って今どんな気持ちなのだろうと考えるだけで、自然とどうするかは分かってきます。
 最後の交流の日、彼はそれまでで一番の笑顔を見せてくれました。それは本当に心が通じたことを彼が私に教えてくれた瞬間でした。この笑顔を私は一生忘れません。


【優良賞】
新たな希望
下関市立豊北中学校 3年 山口 萌

 里親さんと初めて出会ったとき、私は全く話しませんでした。向こうから、好きな色や、好きな食べ物、家でどんなことをしていたのかなどを、たくさん聞かれました。「本当のことを言ってもいいのかな。」と思っていた私は、「家では、部屋で本を読んでいた。」とだけ言いました。すると、「お父さんと話さんかったん?」と聞かれ、「親の暴力があったから、ほとんど話してない。」と言うと、「そうやったんやね。」と聞き入れてくれました。
 それは、優しく問いかけてくれるような感じで、一緒にいてとても安心できました。柔らかい声、受け入れてくれるような穏やかな笑顔でした。
 私は、相手と1対1で話せたことがうれしく、相手が自分の思いを聞いてくれることが新鮮に感じられました。とても印象が強かったので、今でもはっきりと思い出せます。
 母が亡くなった6歳の時から、父と2人暮らしだった私は、毎日のように受ける暴力と、学校でのストレスから耐えきれず、父を突き飛ばしたことがありました。そのとき父は、とても悲しそうな顔で私を見て「ごめんな。」と言いました。そのとき、私は、すごく泣きたくなりました。父の口から「ごめん。」という言葉を初めて聞いたからです。
そして、母が亡くなったときの「父との約束」を思い出しました。それは、「これからも、ずっと一緒で、支え合って生活していく。」というものでした。私はそのことを思い出し、とてもひどいことをしてしまったと、少し心が痛みました。その日は、父と全く会話をすることができませんでした。
その後、私は、今の里親さんの家に行くことになりました。里親さんの家での生活を始めたある日、里親さんから「少しだけでも実の親と話してみないか。」と言われました。でも、私はいやだと言いました。父と会うのがとても怖かったからです。もし今、父と会うと、父にひどいことをしてしまうのではないかと、ずっと父と会うことを避けていました。
でも、私は父と会うことを決めました。
再会した父から、父がいつも私の気持ちを大切に思い、私の育て方も悩んでいたことを知りました。私のことを大切に思っていてくれたことを初めて知りました。そして、荒れていた気持ちが、少し落ち着きました。
暴力やいじめなどを受けたつらさは、体験した人しか分からないこともたくさんあると思います。でも、そのつらさを、きちんと話して、たとえ一度では理解してもらえなくても、自分の気持ちを相手に伝えるべきだと思います。だからといって、自分の気持ちを相手に押しつけたりせずに、相手の気持ちもしっかり聞くべきだと思います。
私の場合は、人に話すこともできず、人の話を聞くこともできませんでしたが、話しかけてくれる里親さんのおかげで、心を開くことができました。
 私は、この経験から、新たな夢ができました。それは、「自分の思いを、自分の言葉で、自分の声で、相手に伝える」ということです。
私は、態度や文章より、声のほうが今の想いをしっかりと相手に伝えることができると思います。私は里親さんが話しかけてくれるときに、言葉の温かさや家族の大切さ、声で想いを伝える大切さに気付くことができたからです。
 もし、また父と生活するときがきたら、まず最初に、「今まで、お父さんの気持ちに気付けなくて、ごめんなさい。」と謝りたいし、「今まで大切に思ってくれて、一人で育ててくれてありがとう。」と、感謝の気持ちを伝えたいと思います。
 これからの人生に「新たな希望」をもって、たくさんの人たちと話し、自分の思いを伝え、自分の夢をめざして頑張っていきます。


【優良賞】
「バトンに託す思い」
周南市立熊毛中学校 3年 松本 裕太

 「まっちゃん、はい!」と先輩は僕の背中を優しく押してバトンを差し出しました。
 僕は陸上部に所属し、走り幅跳びが専門です。自己ベストが更新される度に陸上に対する興味も増し、とても楽しく部活動ができました。先輩たちも自分の競技種目に打ち込み、自分の目標に向けて努力を重ねていました。
 昨年の秋の県体は、3年生の先輩にとっては最後の大会でした。しかし、リレーメンバーの1人が自分の競技とリレーの時間が重なってしまい、僕がリレーメンバーとして走ることになりました。今までリレーを経験したことがない僕は、こんな自分で良いのかという申し訳ない気持ちと不安な気持ちで一杯になりました。あまり気が進みませんでしたが、僕は困っている先輩方の気持ちを考え、一生懸命リレーの練習に参加しました。そして、改めて先輩方のスピードとバトンパスの技術に驚かされ、ますます不安が募りました。
 いよいよ秋季県体の当日になりました。熊毛中のリレーはランキング1位。もちろん優勝候補でした。だから、アップをしているときも僕の頭の中は、先輩方に対する申し訳なさと不安で一杯でした。そうしている間も、時間は瞬く間に過ぎていきます。
「パン!」というピストルの音が聞こえました。その瞬間、僕は構えました。後から足音が近づいてきます。後、5メートル位のところで僕は走り出しました。「まっちゃん、はい!」先輩がバトンを僕に差し出しました。それを合図に、僕は手を後に差し出しました。しかし、バトンは僕の手から滑り落ちたのです。数秒後、初めて僕はバトンを落としたことに気がつきました。その後のことを僕は良く覚えていません。しかし、先輩にとって最後の県体で自分がしてしまったことに茫然とし、ぼろぼろ涙がこぼれました。
競技が終わってテントにもどり1番最初に聞こえたのは「ありがとう、お疲れ様。」という先輩の言葉でした。その言葉を聞いて僕はまた涙がこみ上げてきました。最後の県体、しかも優勝候補だった先輩たちの方が、よっぽど悔しかったに違いありません。僕の口から出せる言葉は「ごめんなさい。」だけでした。
大会2日目、僕は自分の出る競技がなかったのと昨日のショックから、大会を欠席しました。そして次の日、先輩から、熊毛中が総合優勝したことを聞き、驚きました。
後日聞いた話によると、先輩たちが僕のいないところでこう言っていたそうです。「明日の試合で上位に食い込めば、団体で1位になれる。自分たちが頑張るしかないだろ。」と。そして、その言葉どおり先輩たちは強い思いでライバルに競り勝ち、見事総合優勝を勝ち取ったのです。優勝はもちろん先輩たちの3年間の目標だったに違いありませんが、その強い思いの陰にある、僕に対する思いやりを感じました。きっと僕を勇気づけるために先輩たちは奮起したに違いありません。
3年生になって道徳の授業で、完全試合達成という劇的な場面で誤審をし、記録を台無しにしたジョイスの話を勉強しました。ジョイスは自分の間違いに気づくと、相手に謝り、周囲の反対や強烈なブーイングにも負けず、次の日球審としてグラウンドに向かいました。
あのときの自分を思いだしながら、自分の責任を果たすということは、結果が悪くても良くても決して逃げず、全てを真摯に受け止めること。そして、その時自分にできる最善を尽くすことだと僕は悟りました。
「まっちゃん、ハイ。」先輩は僕に優しくバトンを渡してくれました。試合の時、僕はそのバトンをつなげることはできませんでした。が、先輩たちの思いは確かに受け取りました。しっかり受け止めた熱い思いをバトンに託し、僕が全国大会に届けたいと思います。今度こそ自分の責任を果たすことを心に誓って。


【優良賞】
「考える力」
周南市立熊毛中学校 3年 弘津 健太

 最近はインターネットが普及し、とても便利になっています。道に迷ったときや音楽を聴きたいとき、買い物や個人的な悩み相談までインターネットでする時代になりました。
 そんな中で僕が気になったのは個人的な悩み相談です。そこには学校で出されたレポートや課題がそのまま画像としてアップされていたり、課題作文の例文がそのまま書かれたりしています。それを見たときに、こうやってインターネットを利用して「答え」を手に入れることに疑問を感じました。困った時に助けを求めることが悪いことだとは思いませんが、人に頼るだけで自分では何も考えていないのではないかと思ったからです。とはいえ、僕も昔はインターネットを使って「答え」を手に入れようとする一人でした。
 僕は文章を書くことが苦手です。夏休みになるとどうしても読書感想文が最後まで残ってしまいます。中学生になって買ってもらったスマートフォンで読書感想文の書き方を検索すると、悩み相談のサイトで、例文がそのまま書かれていました。これをこのまま丸写しすれば宿題が終わる、と僕は早速「作業」に取りかかろうと思いました。しかし、そのサイトの下の方に「この構成で書けば感想文はすぐ書ける。」という類のことが書いてあり、それはまるで僕のずるい心を見透かし「ちゃんと自分で考えろ」と僕に訴えかけているようでした。結局僕はもう一度本を読み直し、サイトで示してあった構成を参考にして、自分の力で読書感想文を書き上げました。
 読書感想文は自分で書き上げましたが、僕は自分に対してかなり甘いところがあります。文章だけでなく、何か問題にぶち当たるとすぐに答えを見ようとするのです。休み中の課題やテスト週間中の課題もそうです。「まだいい。まだ大丈夫。」とやるのを先延ばしにして、結局課題を溜めて、早く終わらせるために答えを写す羽目になってしまうのです。そんなことを繰り返すうちに成績も下がっていき家族に「たまには真面目にやってみたら。」と指摘されるようになってしまいました。
 このままではいけないと思った僕は、テスト週間に早めに課題を終わらせることにしました。解いていくと、どうしても分からない問題にぶつかります。そんな時は答えを見ずに解説を丁寧にたどっていきました。ヒントを見ながら問題と向き合ってみると、驚くほど簡単に問題が解けました。苦労した分、達成感も感じ、テストの点も前回に比べ上がってきました。
 僕はこの経験から考えたことがあります。すぐに答えを手に入れるのはとても簡単です。しかし、答えを手に入れるまでの課程で、自分で考えることを省いてしまうと、大切なものを失ってしまうのではないでしょうか。学校で今僕たちが学んでいるのは、答えではなく考える力です。自分で考える習慣が身についていないと将来問題が起き、壁にぶち当たったとき、自分で解決することができません。また、一見無駄に思われることの中にも大切なものはあるのではないでしょうか。
 例えば電子辞書と紙の辞書を比べた場合、早く引けるのは電子辞書ですが、紙の辞書をめくるうちに、調べたかった言葉以外にも興味を引く言葉に出会うという寄り道も、辞書を引く楽しみの一つになると思います。また分からなかったことを友達や先生や親などに尋ねるうちに、コミュニケーション能力もつき、人との絆も深まるのではないでしょうか。そして何より自分で苦労して考え、答えにたどり着いた達成感は大きいと思います。
 もちろん便利なインターネットを使うことには賛成です。しかし、すぐに答えを求めるのではなく、答えを手に入れるまでの課程を大切にし、常に自分で考えるという姿勢を僕は大切にしていきたいと思います。


【優良賞】
地球からのS・O・S
平生町立平生中学校 1年 直井 麻佑子

 ぼくは地球。ぼくは約46億年前に誕生した。同じ時期に生まれた太陽と共に、太陽系の有名人だ。
 ぼくはいつも太陽の熱によって温められている。しかし、その熱はそのままでは宇宙に逃げていってしまう。それを防いでくれるのは、二酸化炭素などの「温室効果ガス」なのだ。このガスのおかげでぼくはいつも14℃くらいに保たれているけれど、もしそれがなかったらマイナス19℃くらいになってしまい、寒くてしかたがない。つまり、ぼくはこのガス達のおかげで温かく過ごしていられるということなのだ。
 しかし、最近はぼくは熱っぽい。それは、ぼくの中に住む人類の産業活動が活発になり、温室効果ガスが大量に排出されているからだ。
 だからだんだんと元気がなくなってきて、このところ海面の上昇をおさえることができない。それにより、海抜の低い土地に住む人々やウミガメの産卵場所を奪うなど、多くの生物に迷惑をかけている。また、まんべんなく雨を降らすことができず一方ではかんばつ、ある一方では集中豪雨、河川の氾濫や農作物への被害も甚大でどうすることもできない。
 そんなぼくを助けようと、世界の196ヵ国が集まり、「パリ協定」という取り組みをしてくれているそうだ。しかし、その中でも多大な影響力を誇るアメリカがその協定から離脱するらしい。
 「ぼくはどうすればいいのだろう・・・たすけて、ください」
 「S・O・S」
 さて、中学生である今の自分には何ができるのか?貢献できることはあるのか?考えてみました。
 まず、買い物をするときはエコバックを持参し、レジ袋の使用をひかえたり、過剰包装を断る努力をしていきたいです。
 次に、車の中の不必要な物を降ろし、少しでも燃費を良くしガソリンの消費をおさえたり、アイドリングストップを利用するなど、両親の協力も得ていきたいと思います。
 また、ガラスびん・スチール缶・アルミ缶などをただ捨てるのではなく、リサイクルボックスに入れるなどして少しでも資源の再利用に努めていきたいです。
 家庭内では、冷房の設定温度を1℃上げ、暖房を1℃下げる、照明をこまめに切る、家族が同じ部屋で過ごす、またシャワーの使用時間を1日1分減らしたり、使っていないコンセントをぬくなどで待機電力の消費削減につなげる、そしてテレビやパソコンといった電子機器の使用をできるだけ避けるなど、身近でできることから行動に移していきたいと思います。
 私たちのせいでピンチにおちいってしまった地球。だから、その地球を救うのは私たちでなければなりません。世間からの関心がうすれてしまっている今だからこそ、地球からの危険信号を感知し、もう一度、私たち1人1人が自分の生活を見直さなければいけないのではないでしょうか。1人が努力するだけでは救うことができるものではありません。意識の輪をもう一度世界中に広げ、私たちの代だけでなく、その取り組みを次の世代へつなげ、持続可能な世界を一緒に作り上げていきましょう。
 「大好きな地球のために」


【優良賞】
働くということ
萩光塩学院中学校 3年 中村 文音

「共働き」これは、自分の両親が2人とも仕事をしている夫婦を指します。少し前なら専業主婦の妻と働く夫という形が当たり前でしたが、現在、共働きが主流の働き方となっています。私の両親も共働きです。みなさんは、この現代の働き方をどう思いますか。
 一言に共働きといっても午前または午後の半日で働く人。時間を区切って働く人。1日フルに働く人。と様々な働き方がありますが私の両親は2人とも1日フルに働いています。私の場合、それが今年度から始まった生活です。しかし、既に家の中で変化があります。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
「ただいま。」
「おかえり。」
といった声が家からほとんどなくなってしまいました。また、平日に家族が全員そろっての夕飯という時間も激減しました。そのうち家族で話す時間も減ってきました。寂しいです。辛いです。家族ともっと話したいです。でも、毎日、一生懸命に働いてくれている両親の姿を見ている私にはそんなこと、絶対に言えません。
 今、現在、少年・少女がいじめを起こしてしまったり、犯罪に手を染めてしまったり、と「問題行動」といわれるものが日本全国で後を断ちません。自分の未来を自分の手で壊してしまっているのです。その中でも私は、13歳から15歳の子どもが起こしてしまった事件をよく耳にします。そう、中学生です。私と同じように「寂しい」「辛い」といった思いが言葉にできず爆発したとき、「心配して!」「もっと私に注目して!」という最大限のSOSが表れるのではないでしょうか。私も実際に、今までは弟にやったことのないような当たりの強さを出してしまったり、自分の部屋で物に当たったり、部屋の中を随分荒らしてしまったりもしました。今考えるとどんな理由であってもいけないことはいけないことです。その行動が、多くの人を傷つけてしまうことをわからなければなりません。それは許されないことです。親が働くことは、私たち子どもの未来のためでもあるし、家族のためでもあるので辞めるなんてできないと思います。しかし、子どものSOSだけは見逃さないでください。
 私の家は、土・日・祝日は家族がそろい賑やかな家へと変身します。そして母の料理を家族で囲みます。その時間は心が落ち着きます。温かくなります。そして普段より何倍もおいしく感じます。笑顔が家にあふれます。明るい声が家中に響き渡ります。それが私にとって家族と過ごす時間の大切さ、温かさ、ありがたさを見つけるキッカケになりました。だから私は今、家族と一緒にいられる時間を大切にするようになりました。
 やはり、家族とのコミュニケーションは様々なことを変えてくれます。お願いです。家族内のコミュニケーションをSNSで済ますのではなく顔を合わせてお互いの目を見ながら話してみてください。テレビもゲームも全て消し、1日たった5分、10分でも家族みんなで話す時間は私たちがいくつになっても必要であると思います。そうすれば1件ずつでも少年・少女の問題行動が減るのではないでしょうか。
 私たち中学生にとってお父さん、お母さんという存在はまだまだ必要不可欠な存在です。反抗もするし、時には関係がギクシャクしてしまうこともあるかもしれません。でも、心の中ではみんなお父さん、お母さんが大好きです。仕事で疲れているかもしれません。忙しいかもしれません。でも私たちは、私は、仕事よりも大切なものもあるのではないかと思います。会話一つで少年・少女の私たちが正しい未来へ進めますように。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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