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山口県青少年育成県民会議

 
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令和7年度少年の主張コンクール発表作文紹介 最優秀(県知事賞)
2025/10/03

「「食」と向き合う」
山口県立高森みどり中学校 3年 須田 青慈

 人は、生まれて間もない頃の記憶をもっていない。しかし、そんな時期に、僕には人生を変えるような出来事があった。千葉県松戸市で過ごしていた生後5カ月のことだ。ある日を境に、水から有害物質が検出されたり、放射性物質を含む野菜が、出荷停止になったりした。そう、その出来事とは、東日本大震災、福島第一原発事故のことである。
 会社員だった父も、都会に慣れていた母も、安心して子育てをするため、山口県の山間地域への移住を決めた。そこは人口500人、近所の人と採れた野菜を渡し合う温かい場所だった。それからだと言う。父と母が「食」に気を遣い始めたのは。父は一から農業を学び、農家を始めた。母も、父を手伝うようになった。東日本大震災で、僕達家族の人生は、180度変わったのである。
 人は、食べ物抜きには生きていけない。ただ、僕達は、食べ物は当たり前のように毎日手に入るものだと信じている。実際そんな簡単なものではない。一食一食に大勢の人達が関わっていて、何かあると、今までそこにあった一食は、もうないのである。こんな体験をした僕だからこそ、「食」に関して考えたことがある。
 まず一つめは、農業の大切さである。父は、雨の日や暑い夏でも、毎日畑で作業している。その姿は、本当に大変そうだ。しかし、農業は人の「 生命(いのち)」を育む大切な仕事だと思う。日本の食料自給率は低く、多くを輸入に頼っている。世界の人口が増え続け、気候変動が進行する中、今までどおり食料を輸入することができるのか。それは難しくなってくるだろう。これから農業をもっと活性化し、少しでも多くの食料を自国でまかなえるようにしなければならない。しかし、現実には生産者の年齢層は高く、跡つぎがいないという声を耳にする。僕は、幼い頃から野菜が育つのを見てきた。自分で植えた苗の成長は、とてもうれしいものだった。そこで、子ども達や若者が、農業を体験する機会をもっと増やしてはどうだろうか。食べ物を生産する難しさや喜びを身をもって知るだけでも、農業の大切さに気づくきっかけになる。そして、生産者への感謝や応援したいという気持ちが、地産地消の促進につながるのではないだろうか。
 一方で、食品ロスの問題もある。日本では大量の食品が、毎日廃棄されている。給食でも、注ぎきれずに余ってしまうことがある。そんなとき、僕はおかわりをして、食缶を必ず空にする。父や近所の方の一生懸命な姿を思うと、無駄にはできないからだ。先ほどの「農業体験」は食品ロスの削減にも役立つと思う。外国では、紛争や貧困などで、一日一食さえ満足に食べられない人も大勢いる。食品ロスの問題を考えることは、世界中の人々の幸せを考えることでもある。
 そして、もう一つは、「食」を通じての団らんの大切さである。現代の食事は、短時間で済むようになった。ほとんどの家が共働きで、みんな忙しい。だからこそ、晩ご飯のひととき、「食」を楽しむ時間が必要なのではないかと思う。食べながら、生産者の苦労や遠い国の人々に思いをはせること、それだけでも「食」をめぐる問題の解決に向けて、小さな一歩になるのではないだろうか。
 14年前の出来事がなかったら、僕は「食」についてこんなに関心をもたず、食べ物は当たり前のように手に入るものだと考えていただろう。でも今は、「食」が手に入るまでの苦労やありがたさを知っている。そして、これからの「食」は、僕達若者が守っていかなければならないと気づくことができた。未来の僕達、生まれてくる子ども達、世界中の人達のために、僕達は、「食」と向き合うべきだ。大きな行動でなくても、小さなみんなの「関心」は、生産者、農業の支えとなる。そうすれば、「今ここにある食卓」だけでなく、「未来のどこの食卓」にも新鮮な食材と笑顔があふれていると信じている。


 

令和7年度少年の主張コンクール発表作文紹介 優秀(県民会議会長賞)
2025/10/03

「言葉の強さ」
下松市立久保中学校 3年 三浦 仁太

 皆さんには、両親はいますか。私の両親は、私が小学四年生の頃に離婚しました。今は、父と兄と三人で暮らしています。今時、親が離婚するのは珍しくありません。しかし、小学生の私にとって、それは受けいれがたいことでした。いえ、信じられませんでした。「これは何かの間違いだ。そうだ、きっとこれはドッキリなんだ。」とずっと心の中で唱えていました。そうしないと、自分が壊れてしまいそうで怖かったからです。しかし、普段は全く泣かない兄が泣いているのを見て、「あっ、これは間違いでもドッキリでもないんだ。本当なんだ。」と分かると同時に、いろいろな気持ちがあふれ出しました。両親が離婚することへの悲しみ、この家庭に生まれたことへの憎しみ、他の平和な家庭への妬みなど、全部挙げたらきりがありません。小学生の私には、この現実を受け止めることが本当に辛かったです。
 母が家を出る日のことは、今でも忘れられません。母は、
「お仕事、行ってくるね。夜勤だから、明日の朝まで帰れないの。お留守番頑張ってね。」と私に言いました。母は、私が不安にならないように、嘘をついたのです。しかし私は母がもう家に帰ってこないことを知っていました。けれども、いや、だからこそ、私は笑顔で、
「いってらっしゃい。」
と言いました。その日の夜、私は分かっているにも関わらず、母が帰ってくるという僅かな希望を抱いて眠りました。しかし、朝起きても母は帰ってきていませんでした。
 私は絶望しました。その日から、私は生きる光がなくなったように感じました。学校では両親の離婚について一切触れず、「いつも通り」を演じていました。少しでも自分の感情を出すと、学校のみんなを妬む気持ちが爆発してしまいそうだったからです。その頃から、私は、心の中の思いを押し殺し、上から嘘を塗りたくることが普通になってしまいました。思いを押し殺すことによる疲れやストレスさえも押し殺す、そんな無限ループにはまってしまいましたが、何も感じることはありませんでした。
 ある日、学校から帰る途中、友達が不意に
「大丈夫?」
と声をかけてきました。どうやら、疲れやストレスが蓄積されすぎて表に出てしまったようです。すぐにそれらを無理やり押し殺して、「大丈夫だよ」と言おうとする前に、彼は、「辛いことがあったら何でも相談してね。だって僕たち、友達でしょ。」
と言いました。彼は何気なく言ったのかもしれません。でも、私の心には一筋の光が差し込み、それまでのもやもやがパアッと晴れたように感じました。本当の思いをひた隠しにしていた私の心は、実は誰かの優しい一言を待ち望んでいたのだと気付きました。
 その日から私は、自分の気持ちに嘘をつくことや、人を妬むことを止めました。私は再び、より多くの友達と笑顔で会話することができるようになりました。あのときの彼の一言が、私にもう一度、生きる光を灯してくれたのです。
 私は、今、生徒会長を務めています。友達は「仁太、仁太」と気軽に声をかけてくれます。「仁太ならできるじゃろー」とも言ってくれます。こうして、今、私が楽しく生活できているのも、全ては彼がかけてくれた言葉のおかげです。次は私の番です。彼が私を救ってくれたように、今度は私が、何かに困ったり悩んだりしている人を救いたいです。そして、伝えたいです。「自分の気持ちに嘘をつかないで。苦しいときは苦しいと言ったほうがいいよ。私があなたの思いを受け止めるから。」と。


 

令和7年度少年の主張コンクール発表作文紹介(優良賞)
2025/10/03

「「今」の私ができるまで…」
周南市立桜田中学校 1年 �眈勝ヾ�杏

 私には、ある特性があります。周りのことが、よく見えていなかったり、物をよく忘れたりするのが一例です。それが、自閉スペクトラム症、ADHDという発達障害だと知ったのは、六年生の終わりごろのことでした。おそらく、大抵の人は、自分に障害があるということをカミングアウトすることには、抵抗があると思います。周りからどう思われるのかが不安だからです。それでは、私がなぜこうしてカミングアウトしようと思ったのかこれからお話ししていこうと思います。
 私は、小さい頃、保育園に通いながら、リハビリテーション病院の訓練にも通っていました。ここでの作業療法、言語療法の先生たちとの関わりは、とても楽しいものだったように記憶しています。ほめてもらい、共感してもらうことが多かったからだと思います。
 そして、小学校入学を迎えました。保育園は隣の市だったので、知っている人は一人もいませんでした。そんな一年生になったばかりのころ、私は授業中にもかかわらず、教室から逃げ出してしまうこともありました。
「のあんちゃんが、いません。」
と、担任の先生がSOSを出して、支援員の先生に探してもらっていたということを、少し大きくなってから聞きました。また、クラスメイトにもあまり関心がなく、友達も作ろうと思わなかったため、友達と呼べる人は誰もいなかったように思います。さらに、被害妄想も激しく、周りの人のことを、みんな敵のように感じていたように思います。どうしてなのか、今思い出しても、よく分かりません。ただ、その時は、自分ではそんなに困っていたという印象はありません。多分、困っていたのは、先生や周りの人だったのでしょう。
 そんなとき、私に声をかけてくださったのが、支援学級の先生でした。私は、一年生のころは、まだ支援学級の児童ではありませんでした。
「のあんちゃん、きららで一緒に勉強してみない?」
との言葉に、私はすぐにきららに行ってみることにしました。人数が少なく落ち着けそうだし、パズルや教具も魅力的だったからです。そこで学習を続ける中で、支援学級の先生は大切なことを教えてくださいました。それは、授業など、やらなくてはならないことからは逃げ出さないこと、みんながみんな敵ではないこと、自分を分かってくれる人は必ずいることなどです。そして、何でもやってみれば「私ならできる。」ということを、優しく、根気強く、何度も繰り返し話してくださいました。学習に対する不安や、できなくて落ち込むことの多かった私が、少しずつ「できた。」を体験することができ、学校生活が楽しいものに変わっていったような気がします。
 もう一つ、私を支えてくれたのは、友達の存在です。二年生からきらら学級に在籍しましたが、普段の授業や生活では、今までと変わらず話しかけてくれました。人との関わりが苦手だった私にも、仲良しの友達ができました。その友達とは、勉強の話をしたり、同じ趣味の話で盛り上がったりしています。まだまだ、おっくうになることもありますが、少しずつ、自分から誘うこともできるようになってきています。
 自分に自信がなく、すぐ諦めていた私、何か嫌なことがあると、逃げ出していた私。そんな私が変わってきたのは、周りの人のおかげだと感じています。支援学級の先生は、私の特性を理解して、最大限のサポートをしてくださいました。その事実に、私は救われました。そうして、相手のことも、自分のことも大切にすることができるようになったので、良い友達もたくさんできました。
 私のことを分かってくれる人がいる。支えてくれる人がいる。そう思うことで、自信をもてるようになりました。小学校二年生から六年生まで、支援学級に入り、支援学級の先生や生活指導員の先生、担任の先生、家族、友達など、たくさんの人に支えられてきました。そして、中学生になった今、私は支援学級を卒業し、通常の学級でスタートを切りました。たくさんの人からの支えによって「今」の私ができています。
 これから先も、たくさんの困難が待っていると思います。くじけそうになったり、つらかったりすることも、多いことと思います。人生は、人との関わりによって大きく変化します。これまで、私のことを理解してくれる人に出会えたことに感謝しています。そんな私は幸せ者です。これらのことは、私の生涯の宝物です。今の私は、たくさんの人からの支えによってできている。そのことを知ってほしいと思い、カミングアウトしました。これからも自分らしく生きていきます。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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