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山口県青少年育成県民会議

 
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平成28年度少年の主張コンクール山口県大会について
2021/06/08

H28少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん

【最優秀賞】(県知事賞)
ふるさとへの想いと私たちの未来
萩市立萩東中学校 2年 高屋 京佳

「都会で生きていきたい。都会に行ったら“ここ”ではできない、どんなことが出来るんだろう。」
 旅行に行ったとき、目新しいもの、建物や人々の多さを目にすると、圧倒されることが多くあります。そして、同じ日本なのに、自分のふるさとよりも素敵に見えて、「すごい!こんなものが私の町にもあったらいいな。」と思っていました。都会の全てのことへの漠然とした憧れがありました。
 私は山口県の萩市に住んでいます。萩市は高齢化が進み、人口約5万人のうち65歳以上が約2万人を占めています。「どうして萩には若い世代が少ないのだろう。」と疑問をもっていました。
 たしかに、大学も限られ、就くことのできる職業の数も、農業・漁業・観光業が中心であり、決して多くありません。
 正直に言うと、今の日本の若い世代は都会で自分の夢を叶えるほうがいいと考える人が多いのかもしれません。都会にはたくさんお店があるし、萩にはない職業もいっぱいある。自分の夢を叶える選択肢もたくさんあるでしょう。
 私自身、眼科医という将来の夢があります。夢を叶えるには、萩から出て、医学部のある大学に行かなくてはなりません。
 そんな私に、ふるさとへの想いを、大きく変える出来事がありました。
 平成27年7月に「明治日本の産業革命遺産」として、萩市の五つの資産が世界遺産に登録されたのです。世界遺産の登録に向けての取組が行われていたとき、私は、まだ小学生でした。その学習の中で、今まで知らなかった萩の魅力を知ったのです。
 かつて、萩は日本の産業発展の出発の土地であり、吉田松陰先生をはじめ、多くの先人達の知恵と志が、日本を変えていったのです。
 私は、萩は歴史のあるふるさとだと感じました。その時、身近にあった資産の素晴らしさを改めて知りました。
 また、萩は火山の関係で、土地が肥え、スイカやなす、大根など、味の良さでは定評があります。しかも、その食材を新鮮なまま食べられる幸せを感じました。
 萩市の五つの遺産が世界遺産になった時、萩市の多くの人がその喜びを共有できました。そのとき、「あぁ、私は、やっぱり萩が好きなんだ。」と改めて思いました。「萩市民がうれしいことは私もうれしい。」と、多くの人たちと、喜びを分かち合いました。
 今まで、外のことばかりしか見ていなくて、世界遺産の決定を聞いたときに、改めて私のふるさと萩を意識しました。萩を訪れる観光客が増えたときに、私が都会を憧れるように、外の人から見たら、萩にも魅力を感じるものが身近にあったのだと気付かされました。
私たち若い世代が、将来の志を胸に、チャレンジする心をもって都会に飛び出していくのは、決して悪いことだとは思いません。
 しかし、それは自分のふるさとを誇りに思っていてこそ、意味があることだと思います。私は、例え、医師の資格を取るために、このふるさと萩から離れるようになったとしても、萩市に対する思いは忘れません。ましてや、私を育ててくれたこの町を誇りに思う気持ちは絶対に忘れません。そして、私が夢を叶えることが出来たら、またふるさと萩に戻ってきて、この町の貢献に繋がることを自ら探していきたいです。そういう気持ちを私たち若い世代が一人一人もっていかなくてはならないと感じます。そうすれば、今の日本のような都市部への人口集中も減ってくるのではないかと思います。
 そして、今私が思うことがあります。「ふるさとへの感謝と誇りを忘れずに、ふるさとの想いを、私たちの未来に結びつけていきたい。」と。

【優秀賞】(県教育長賞)
私たちが住んでいる日本国内のルール
萩市立萩東中学校 2年 橋本 茉実

今年から、18歳以上の国民は投票権を得ることになりました。私たちは、日本のルールを考える政治家を選ぶ投票権という権利を、今までの先輩たちよりも2年ほど早く得ることになったわけです。
 「自分は、政治のことが分からないから、投票しない。」と関心を持っていない人。
 「自分1人が投票しなくても、そんなに変わらないよ。」と1票の重みが分かっていない人。
 これまで、テレビのニュースや新聞記事でこうした投票権を持っている人の選挙に対する声を耳にしてきました。
 私も、そうした人たちと同じで、今まで日本国内の政治について、全然分かっていないし、ニュースを見たときに、「日本の政治はこれからどうなるのだろうか。」とほんの少し思うことはあっても、自分には関係ないことのように見ていました。
 しかし、自分が5年後には投票権を得ることができるようになったことで、政治のことについて、少し関心をもつようになりました。投票権って何?政治家を選ぶってどういうこと?どうやって選ぶ?いろんなことがわからなくて、家族に聞いてみました。
 すると、家族もニュースで見た人たちと同じで、あまり関心がなかったことが分かり、これではいけないねという話になりました。そこで、家族みんなで考えることになりました。
 まずは、今、学校で学ぶ政治や選挙のことは一体、いつ学ぶのかというところから話をしました。すると、中学校の3年生になってから学ぶことを知りました。そこで、高校生の姉が持っていた中学3年生の公民の教科書を読んでみようということになり、みんなで読んで、いろいろと話しました。
 教科書には、日本の政治は人数が多い政党が中心になって、政策を考えていることや、選挙制度のことが書かれていました。教科書を読んでいくうちに、これから自分が、投票権をもつにあたって、政党や政治家が考える政策をよく知り、自分が納得できる政策を考える政党を応援していくことの大切さを感じ始めました。だから、今までの何も知らない、自分には関係がないと人ごとのように思っていた政治に対する考えでは、ダメなのだと、焦りと怖さが生まれました。
 それとともに、テレビで見た人たちの「自分が投票しなくても世間は何も変わらない。だから投票には行かない。票を入れなくてもいい。」といった声。それではいけないのだと思いました。
 5年後には投票権が得られます。私は、誕生日が遅いので、同級生の中では投票権を得られるのが遅いです。最初は「単純に考えてラッキーだ。」と思っていました。しかし、今は1票の重み、大切さが分かります。だから、人任せにするのではなく、少しでも早く責任をもって投票したいと思います。
 私たちが住んでいる日本国内の方針、つまり政策は、政治家が決めています。その政策を決める政治家は私たち国民が決めています。その政治家に思いを託して、日本という国をより良くしていくためにも、私は、投票権を得たら、政治家の考えていることをしっかり聞いて、私が賛成できる政治家を選ぼうと思います。私は絶対に政治家を選ぶ権利を行使しようと思います。
 これから選挙に行くためにも、私たちは、受け身の姿勢ではなく、政治の仕組みや政治家の考えていることをしっかり知って理解し、自分が判断することができるようにならなければなりません。私は、今まで読んでいなかった新聞や、関心がなかった政治のニュースにも興味をもち、5年後に備えて、しっかりと学んでいきます。

【優秀賞】(県民会議会長賞)
命が教えてくれたこと
周南市立熊毛中学校 3年 藤井 美紗

 私の家族は両親と兄2人、姉1人、そして愛犬の6人と1匹です。私は4人兄弟の末っ子で、特に1番上の姉とは12歳差で、1番年齢の近い兄とも6歳離れています。
 両親は共働きなので、姉が友達と遊ぶ時間も惜しんで、幼い私の世話をしてくれました。母が仕事で保育園の送迎が出来ない時は、学校の帰りに姉が代わりに迎えにきてくれるなど兄や姉には、小さい頃からずっとお世話になっています。
 一昨年、その姉が初めて出産しました。姉は月に1度の検診が終わると、必ず私と母に赤ちゃんのエコーの写真を見せに来ました。私は4ヶ月や5ヶ月の頃の写真を見てもよくわからなくて、「何これ?どこが顔か分からんから宇宙人みたい」と言いました。すると姉は、怒ることもなく笑顔で「ここが目で、ここが鼻で」と嬉しそうに教えてくれました。私が性別を尋ねると、姉は最初「男の子がいいな」と言っていたけれど、赤ちゃんが成長していくうちに「元気な子が生まれてくれたら、それだけでいい」と言うようになりました。そして、日々大きくなるおなかで、落とした物が簡単に拾えていたのに拾えなくなるなど、出来ないことがどんどん増えていく毎日でした。しかし、不満や不安の表情より、むしろ笑顔の方が増えました。日々の何気ない動作にも我が子に対する思いやりが見て取れました。おなかをさすったり、階段や段差の上り下りにも細心の注意を払っていました。また、赤ちゃんの洋服を選ぶときも、おしゃれなデザインよりも赤ちゃんの動きやすさや肌のことを考えて選んでいました。姉の、まだ見ぬ我が子への愛おしさが日々深まっていくのを、私は間近で見ることができました。
 今か今かと我が子との対面を待ちこがれる姉の気持ちとは裏腹に、予定日を1週間過ぎても産まれません。そこで強制的に陣痛を起こし、いよいよ姉の出産が始まりました。しかし、陣痛が始まってから産まれるまで4日もかかりました。その様子を間近で見ていた母に話を聞きました。不規則に襲ってくる陣痛の痛みに、泣き言ひとつ言わず必死に耐える姉の横では、夫である義理の兄が昼夜を問わず姉の腰をさすり、励まし続けていたそうです。私には、兄がまるで姉と一緒に出産を乗りこえようとしているように思えました。
 4日間は姉にとっても母にとっても、とても長いものでした。母は心配と不安で、「替わってあげたい。早く痛みから解放してあげたい。」その一心だったそうです。
 そんな家族みんなの不安や期待の中、やっと新しい命が誕生しました。兄は感激のあまり言葉が出ず、目には涙が溢れていました。母は姉の子供が生まれた嬉しさよりも、自分の子供である姉が4日間頑張ったことに対して、涙が止まらなかったそうです。
 私はこの話を聞いたときに、生まれた赤ちゃんが姉の子供であるように、姉や私は母にとってかけがえのない大切な存在なのだと実感し、命のつながりを感じました。誰もが周囲の人の祝福を受けてこの世に生を受けた、かけがえのない命なのです。そして、親は自分以上に子供のことを大切に思って子供を育み、それを何代も繰り返し、永遠の過去の命を受け継いで、その1番先端に私が存在しているのだと思いました。
 私は命が宿り、生まれ成長していく過程を身近に感じることができ、とても幸せです。私の人生の中でこの経験は、命の誕生だけにとどまらず、これからの友達や先生、家族、地域の方との関わりに大きな影響を与えました。そしていつか私が母になったとき、この経験はきっと大きな糧となるでしょう。
 もうすぐ姉には2人目の子ども、私にとって3人目となる姪が誕生する予定です。新しい命に出会える日が今からとても楽しみです。

【優良賞】
小さな出会いから生まれた大きな夢
萩市立大井中学校 2年 森田 美穂

 「What’s wrong?」
これは、私の運命を変えてくれた言葉です。
 私には、後悔していることがひとつあります。それは、昨年の夏休みに行われた、「世界スカウトジャンボリー」でのことです。海外から来られた方々は、50名近くおられたでしょうか。いっしょに竹細工を作ったり、流しそうめんを食べたりしたことは、忘れられない思い出です。こんなにたくさんの海外から来られた方々と接することはめったにない体験です。わくわくする気持ちの反面、私は昔から初対面の人に自分から声をかけることができないところがあり、最後まで会話をすることができませんでした。積極的に話しかけている高校生たちを遠くから眺めながら、私は何もできませんでした。
 あるとき、いとこのお姉さんが海外での留学について話してくれました。彼女は、カナダとオーストラリアに留学していました。
「もう一度行きたい。」
そう言う彼女の表情は、とても生き生きとしていました。彼女の話を聞いて、私は外国のことに興味が湧いてきました。けれども、その頃の私は、興味のある仕事はあっても、夢とまでは言えませんでした。自分に自信がなかったからです。
 「どうせ私にできるわけないし。」
そんな言葉ばかり繰り返す私に、母は、
「私は夢をあきらめて、今でも後悔していることがあるよ。」
という話をしてくれました。私が何でもすぐにあきらめてしまっていたからです。母は、若い頃には、夢のことをあまり気にも留めていなかったそうです。だけど、最近になって
「あのとき、こうすればよかったな。」
などと思うようになったそうです。母が今になって後悔しているということを聞き、私は、
「後から後悔したくないな。」
と思うようになりました。
 そんなときのことです。私の人生を変えてくれる出来事がありました。最近、萩にも世界遺産に登録された観光地があります。そこに、海外から観光に来られた方が2人いらっしゃいました。地図を広げ、困っているように見えたので、勇気を出して、
「What’s wrong?」
と、話しかけてみました。そうすると、地図で「反射炉」を指差しました。私達は、1年生の頃に「道案内」について勉強していたおかげで、教えてあげることができました。その日のうちに、このようなことが2回もあり、海外からの旅行者は日本語で「ありがとうございます。」と言って、にっこり笑って手を振ってくれました。
「ありがとう」という言葉を言われたこともうれしかったのですが、それよりも、自分の英語が相手に伝わり、分かってもらえたことが1番うれしかったです。そして、この2度の体験が私に夢を与えてくれました。
 私は教科の中でも、英語と国語が得意で、好きな教科です。この二つに関わった仕事、それが「日本語教師」という仕事です。まず、夢への第一歩として、この夏、職場体験で、日本語教育の専門学校に行くことを決めました。そこで、海外の方々とのコミュニケーションや仕事内容について学び、夢の実現につなげていきたいと思っています。
 小さな一つの出会いから、私はなりたいと思える仕事を見つけることができました。あのときの一言が言えなかったら、今の私はいません。後悔をするくらいなら、まず、積極的に行動してみよう。それが夢をつかむチャンスにもなると思います。「できるわけない」という一言で、挑戦することから逃げて、小さな自分が傷つかないように守ってばかりいては、何もつかめません。行動こそが希望です。新しい自分に変わっていくために。

【優良賞】
「伝える」ということ
周南市立周陽中学校 2年 須山 和奏

 「そうじゃないのに…。」
 今日もまた、うまく伝えることができなかった。
 私は部活でキャプテンをしている。その中では、部員に指示したり注意したりする場面がたくさんある。さらに、4月に1年生が入ってきたことによって今まで以上にまとめる機会が増えたのだが、一部の人にしか伝わっていなかったり、みんなが理解していなかったりすることが多い。自分の気持ちをしっかり言っているのに、みんなにちゃんと伝わっていないのだ。そんなある日、先生から、
「キャプテンなんだから、もっとしっかりと指示を出しなさい。」
と言われた。どうして伝わらないのか分からなかった私は、先生からの言葉にとても悩んだ。なぜうまく伝えることができないのだろう。私には、何が足りていないのだろうか。
 言葉は、人が相手に気持ちを伝えるためのとても大切な手段だ。しかし、簡単に思いを知らせることができるという便利な部分がある反面、ちょっと言葉を選び間違えたり、タイミングを間違えてしまうだけで、誤解を招き、相手に嫌な思いをさせてしまうこともある。
 今までの自分の行動を振り返ってみると、私はいつも自分が伝えることばかり考えて、相手の状況や気持ちを理解していなかったことに気付いた。それに、指示がうまく伝わらないことに歯がゆさを感じ、言葉を選べず、厳しいことを言ってしまうこともあった。結果的に、相手を傷付けてしまっていたのだ。自分の思いを一方的に伝えるのではなく、その言葉を受け取った相手がどのような気持ちになるのか考えれば、しっかり伝えることができていたのかもしれない。
 今、私のまわりには、SNSなど文字だけでのやりとりが増えている。私も利用しているのだが、顔の見えない相手との文字だけでのやりとりは、本当に難しいものだと感じている。 
 SNSなどでの会話では、相手の表情を知ることができない。送られてくる文章のみから相手が伝えたいことを理解するのは難しいため、勘違いからトラブルが起こってしまうことも多い。だからこそ、相手に文字を送るときには、しっかり言葉を選び、相手がどのような気持ちになるのか考える必要があると思う。
 しかし、実際のSNSでの会話には、軽い言葉ばかり並んでしまっている。その場に会話の相手がいるわけではなく、表情を知ることができないからこそ、逆に油断してしまっているのだ。SNSでの会話をすることが増えてきたことによって、実際誰かと話す時にもいつの間にか軽い言葉ばかりの会話になってしまい、相手にうまく伝えることができなくなったのではないだろうか。
相手の表情や反応を見ることで、どれだけ相手に思いが伝わりやすくなるのか。相手の気持ちを考えるということが、どれだけ大切なことなのか。私たちは、そのことをあまり考えなくなってしまっていたのだろう。SNSによる影響は、思った以上に大きいものだったのだ。
 「みんな、ちょっと聞いてくれる?」
しっかり言葉を選び、一人一人の表情を確かめながら指示を出した。
「はーい!」
元気な声が返ってきた。ちょっと意識して話し方を変えるだけで、ここまで上手く伝わったことが、すごく嬉しかった。
「よし。今日も頑張ろう。」
 春の風が、私の頬をすがすがしくなでた。

【優良賞】
家族の「温かさ」
周南市立周陽中学校 2年 濵 陽笑
 
 私は、重い扉を開け、祖母の所へかけ寄った。意識がなく、酸素マスクから聞こえる、呼吸の音。祖母の入院生活で家族の温かさを知った夏休みだった。
 私は、いつものように部活から帰り、家でのんびりしていた。すると、母が帰ってきて「ばあちゃんが倒れたから、病院に行くよ。」と言われた。私は頭の中が混乱して真っ白になった。私が、部活から帰宅するのと同時に祖母からの電話があった。
「一人で大丈夫?何かあったら連絡してよ。」と言われた。その時から具合が悪かったのかなと病院へ向かう車内のなかで考えていた。病院に着くと、祖母は今、手術中と聞いた。待合室でたくさん考えた。大丈夫かな、早く会いたいななど、もう祖母に会えないのかなと考えると、目に涙がたまってしまった。いつもはお腹がすくのに、その時ばかりは全く食べる気になれなかった。
 手術開始から約5、6時間後に医師が待合室に来て、手術の成功が報告された。私の家族は、何度もお礼を言った。私もまた祖母と話せるようになることができると思うと、とても嬉しかった。祖母は、「くも膜下出血」だった。今まで元気だった祖母からは想像のつかないことだった。
 祖母は、集中治療室、ICUという所にいると聞いた。その部屋は、中学生以上が入室可能だ。でも、その日私は祖母との面会を拒んだ。祖母に会いたい反面、意識がなく、たくさんの管につながれた祖母に会う勇気がなかったからだ。私が、笑顔ではなく、心配な顔で会ったら、祖母は元気になれないなと思った。結局、その日は祖母に会うことなく帰った。
 それから、何日かして私は、父と母と祖母に面会しに行った。消毒をし、マスクをつけ重い扉を開けた。意識が戻って、想像していた以上に元気な祖母がいた。祖母とは部活や学校生活について話した。酸素マスクがあってしゃべりづらそうだったが、笑顔も見られた。それからは毎日のように祖母に会いに行った。
 私が祖母との時間で一番楽しかったのは、食事だった。食事をしている祖母を見ていると、日頃のつかれや悩みもふっ飛んでしまうくらいに楽しかった。今日のメニュー、何かななど話が盛り上がったことを覚えている。
 それから、何週間か過ぎて祖母が集中治療室を出て、普通の病室になったと聞いたときは、自分のことのように喜んだ。今まで祖母に会えなかった、私の弟と妹も久しぶりの再会を心待ちにしていた。祖母と話しているときは時間があっという間にすぎていく。そんな日を繰り返していくうちに1ヶ月が過ぎて、祖母が退院した。家族みんなで祖母を囲んで食べた食事。こうやって家族でご飯を食べられることも改めて幸せなことなんだと思った。
私は、祖母が倒れて、より家族の温かさを感じた。毎日毎日家族とご飯を食べたり話したりできるのは、当たり前のことではないと思った。ささいなことで母と喧嘩をして口も聞かないこともあったが、母は全て私のことを思って言ってくれていると思った。私は、祖母の入院で「家族」への考え方を見つめ直すことが出来た。私を育ててくれた親やいつも優しく面倒を見てくれた、祖父母に感謝したい。そして、私が大きくなったら日頃の感謝の気持ちを込めて親孝行をしたい。今まで支えられていた自分は、支える側に変わる。今、私にできることは、学校生活や部活動のことを話して教えてあげることだと思う。そして、何より健康で過ごすことが、家族にとって一番嬉しいことだと思う。私は家族が大好きだ。これからも、家族への感謝の気持ちを忘れず一日一日を大切に過ごしていきたい。

【優良賞】
私のふるさと
周南市立熊毛中学校 3年 児玉 明香里

 兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川
 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと
 私は周南市の八代と言うところに住んでいます。田舎ですが、ナべヅルの越冬地でもあり、八代は有名な童謡「ふるさと」に似ています。小さいときには友達と棚田のあぜ道を走り回っていました。そして、自然豊かな八代は地域のつながりの強い、とても温かいところでもあります。
 いつもの学校帰り、私はスクールバスから降り、家へ向かう緩い坂道を登っていました。ふと顔を上げると、犬の散歩中のおじさんが見えました。ご近所さんではありませんが、昔から散歩をしていると、たまにすれ違う顔見知りのおじさんです。いつもどおり挨拶をします。こっちを見上げてハアハア言っている犬にも「こんにちは」を言い「かわいいですね。」「そうじゃろ。」から会話が始まります。しばらく歩きながら話していましたが、ついには座り込んでたくさん話をしました。話題は中学校のことや最近おもしろかったことです。いつの間にかだんだん日が暮れてきて、そろそろ帰ろうというときにおじさんは「頑張りいよ。こんなおいちゃんでも、応援しちょるけえ。」と言葉をかけてくださいました。ほんの一言なのに、何だかとても勇気づけられた気がしました。
 次の日、私は学校で友達にこの話をしました。すると友達は「えっ、挨拶以外の話を、しかもそんなに長い時間するの?」と目を丸くしていました。私はなぜ驚かれるのか分かりませんでした。
 そんなある日こんな話を聞きました。「都会では近所にどんな人が住んでいるのか知らない人がいて、アパートやマンションでは隣の人の顔も知らない人もいる。」と。私はその時初めてなぜ友達が驚いたかが分かりました。きっと友達から見れば、地域の人としか分からないおじさんと座り込んで話をするのが不思議に思えたのだと思います。私はずっと八代で育ってきたので、すれ違った人と話をするのは当たり前になっていました。
 八代はだんだん過疎化が進み、都会に比べると利便性に欠けることが山ほどあるかもしれません。しかし、ふるさと八代の人々の心の温かさは何物にも代え難い私の宝物です。
 先日、熊本で大きな地震がありました。その新聞記事を読んでいて印象に残ったことがあります。それは「地域愛が助け合いの精神につながる」という言葉です。日頃から交流している地域では、互いに連携して、愛する地域のために自主的に活動したと書いてあり
ました。もし、八代に同じことが起きても私達は自分達の力で立ち上がれると思います。
 今、都会で薄れている人と人とのつながり。どうすればみんなが八代のような心のつながりがもてるようになるのでしょうか。
 私達の学校では昨年延べ1,500人の地域の方が学校に来られたそうです。そして学校花壇に植える苗の種まきを教えて下さったり、本の読み聞かせをして下さったりしました。
そうやって知らない地域の方とふれあううちに、私たちは地域の方とも顔見知りになっていきました。また、私が所属している吹奏楽部は、地域のお祭りなどによく出向き、演奏をさせていただいています。私はこんなふうに地域と積極的に交流することが、地域とのつながりを深め、温かい人間関係を創るのに役立つのではないかと思います。
 私の夢は小学校の先生になることです。先生になって子供たちと地域をつなぎ、八代の人々から学んできた温かさや優しさを他の地域の子供たちにも伝えたいと思っています。そして、いつかまたふるさと八代に戻り、地域の方に恩返しできればと願っています。
 志を果たして いつの日にか帰らん
 山は青きふるさと 水は清きふるさと

【優良賞】
燃料電池の普及を願って
周南市立菊川中学校 3年 中村 優希
 
 「燃料電池」と聞いたとき、みなさんは、どのような印象を持ちますか。新しい電池、ちょっと高価な電池、あるいは、よく知らない、という方もいるかもしれません。
 「燃料電池」。これは、ただ新しいだけではなく、とてもエコロジーで、さまざまな可能性を秘めている電池なのです。
 自分が燃料電池に興味を持った理由は、自分の住んでいる場所にあります。ここ山口県周南市は、石油コンビナートで有名なところであるとともに、「水素先進都市」でもあります。燃料電池は、簡単に言えば、酸素と水素を反応させて作り出せる電気を利用しているのですが、石油コンビナートで得た水素を発電に利用する、というのが、工場群が建ち並ぶこの町ならではの構想です。この構想が、自分の住む町の発展につながると思うと、胸が躍りました。
 水素といえば、火と反応して爆発するなど、少し危険なイメージがあるかもしれません。しかし実は、燃えやすいガソリンよりもはるかに安全性の高い燃料なのです。
 燃料電池の利用方法は、家庭用の定置用燃料電池や燃料電池自動車などにとどまらず、外国で多くとり入れられているものに、燃料電池バスがあります。開発中のものには、トラックやフォークリフト、さらには、鉄道車両や船舶などもあります。これらは、もう30年ほどもしないうちに実用化されているかもしれません。
 先日、熊本で大きな地震が起きてしまいました。このことも、自分が燃料電池を叫ぶようになった一つの要因です。燃料電池は酸素と水素さえあれば発電できるので、被災時でも使用することができます。また、燃料電池自動車の中で発電した電力は外部の施設に送ることができます。たとえば、1病院で必要な電力を燃料電池自動車8台で、災害時避難所の照明や給湯200人分を燃料電池自動車1台たらずでまかなうことが期待されています。電気自動車でも同じように電気を送ることができますが、燃料電池自動車は、その約5倍の給電能力があるのです。
 熊本県は、今まで大きな地震など起こるわけない、と思われていました。でも、実際には起きてしまいました。山口県も、大きな地震なんて起きないだろうと思われている県の一つです。地震に限らず、災害の少ない県です。ですが、絶対に大きな災害など起きないとは決していえません。そのような県でこそ、この燃料電池は推奨されるべきだと思っています。
 自分は現在14歳。自動車運転免許証が取れるようになるのが、4年後の18歳のときです。燃料電池自動車が、ハイブリッド自動車と同じくらい普及する予定は、2025年ぐらいと言われているので、自分が車の運転を出来るようになったときに燃料電池自動車を持つことは、まず無理でしょう。けれども、無理と思ったらそれで終わり、何もできません。ほんの数年前まで燃料電池自動車なんて聞いたことも、ましてや見ることなんてなかったはずです。けれども今現在、少しずつですが、水素ステーションも増えています。もう水素や燃料電池の利用は、夢物語ではありません。
 安全でエコロジーなエネルギーである水素を利活用した燃料電池。様々な使い道が考えられるこの燃料電池の、更なる成長と普及を期待しています。


 

平成27年度少年の主張コンクール山口県大会について
2021/06/08

H27少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん

【最優秀賞】(県知事賞)
病気でもできないことはない
美祢市立於福中学校 3年 西嶋 元崚
 
 中学1年の3学期、僕は糖尿病の治療のため1ヶ月近く入院しました。退院後、学校でいじめられていたので、新しい環境で頑張るために、小規模校に転校することになりました。現在は、於福中学校に毎日通っています。
 昨年の夏に僕は「サマーキャンプ」に参加しました。糖尿病を抱えた人のためのキャンプです。1週間もあるキャンプに参加するのは嫌でした。学校でみんなと勉強したり、部活をしたり、おしゃべりをしたり…そんな夏休みがよかったからです。ところが、そこで僕はヘルパーとして参加していた運命の人、「まさえ姉ちゃん」と出会いました。
 自己紹介の時に、将来は医療関係の仕事に就きたいという夢を話した僕に、まさえ姉ちゃんは、「いい本があるからあげるね。」と言って、1冊の本を僕に手渡しました。その本は、『わたし糖尿病なの』というタイトルで副題には「小児糖尿病の少女医師を志す」とありました。著者は、南昌江・南加都子とあり、まさえ姉ちゃんとお母さんでした。僕は驚きました。
 もっと驚いたことがあります。それは、僕と同じようにまさえ姉ちゃんも糖尿病患者で、「病気で悩む子供たちのために医師になろう」と決意して、本当に医師になっているということです。僕は本を開き、まさえ姉ちゃんが中学2年で糖尿病を発病し、それから糖尿病と闘ってきたこと、さらに、医師になるために受験勉強を真剣にがんばったことなど、一気に読みました。
 読み進めるうちに、僕の中で何かがはじけました。それまでの僕は、「糖尿病だから何もできない」と決めつけていました。まさえ姉ちゃんも、当時そう思っていたようです。しかし、福岡赤十字病院の仲村先生に「糖尿病であっても、できないことは何一つないのだから、学校でも友達に負けないよう何でもしなさい。」と言われ、その言葉を胸に刻みいろんなことに挑戦したそうです。 まさえ姉ちゃんができたのだったら、自分も…、なんだかそう思えるようになりました。きついバレーボール部の練習も、きっとみんなと同じように頑張れるはずだ。勉強も、「できるまで絶対にあきらめない!」夜遅くまで頑張ってみようと。
 また、このサマーキャンプでは、参加者がとにかく元気で明るいことに驚かされました。みんな、僕と同じ糖尿病を抱えているのに、なぜこんなにも前向きで生活できるのかと、不思議でたまりませんでした。
 そんなとき、40年前に、まさえ姉ちゃんがまさにこのキャンプでヘルパーさんから言われた言葉、「君たちは、これから社会に出て行く。社会に出たら、周りは糖尿病でない人ばかりなんだ。そんな中で、糖尿病をもって生きていくには、いろいろな壁にぶつかるだろう。そのときに、その壁を乗り越えられるだけの強さをもたなくてはいけない。」本の中のその言葉が、当時のまさえ姉ちゃんと同じように、僕の胸に突き刺さりました。
 そうです。それまでの僕は、何かにつけて「病気だから無理」とか「糖尿病だから仕方ない」と心のどこかであきらめ、「みんなの迷惑になるから」と消極的でした。しかし、それは、壁を乗り越えようとしなかった弱い自分、いつも逃げ道や言い訳を探していたつまらないやつだったと悟ったのです。
 キャンプに参加している友達の明るさは、多くの人に支えられながらも、自分の人生を精一杯生きようとしている「強さ」であり、生きている「証」だったのです。
 また、まさえ姉ちゃんの人生は、順風満帆ではなく、糖尿病に加えて肝炎にもかかり、なぜ自分だけがこんな苦しい目にあうのかと自分の人生を呪ったとも書かれていました。しかし、そんなときも、家族や友達、そしてまさえ姉ちゃんを目標にして頑張っている子供たちが心の支えとなり、困難を乗り越えてきたそうです。僕は、人それぞれに乗り越える壁は違っても、支えてくれる人がいること、そして何よりも自分の目標をしっかり持つことが大切だと思います。まさえ姉ちゃんに負けないよう、僕もこれから何事にもあきらめず挑戦したいと思います。
 僕には大きな夢があります。それは、まさえ姉ちゃんと同じように人を助け支える仕事をすることです。自分には、何ができるかわかりませんが、やれることはやってみようと思います。今、僕は体調を管理しながら部活動のバレーボールに打ち込み、生徒会役員として、いじめゼロ委員会の運営など多くのことに挑戦しています。まさえ姉ちゃんのように、今の僕のような子供たちに夢と希望を与えられる人になって、まさえ姉ちゃんに立派な姿を見せたいです。
待っててね、まさえ姉ちゃん!

【優秀賞】(県教育長賞)
車いすを身近に経験して
萩市立萩東中学校 1年 刀祢 日夏莉

 兄が松葉づえをついて帰ってきました。もうすぐ旅行だというのに。最悪、これじゃあ旅行に行けない、そう確信していたのですが最終的に行くことになりました。嬉しい気持ちもあったのですが、正直、不安の気持ちのほうが大きかったです。
 旅行当日、空港に着いて少し歩くと、松葉づえで歩くのが慣れていなかったのか、兄の手はまめができていてまっ赤でした。できるのなら自分が変わってあげたいくらい、とても痛そうでした。これ以上松葉づえがつけなくなったので、とうとう車いす移動となってしまいました。
 旅行先に着いても、兄はずっと車いすでした。痛い思いをしなくなるのでよいと安心していましたが、次は押すほうが大変でした。スロープや車いすの人が利用できるリフトなどはあったのでとても便利でしたが、階段のかわりとなるスロープは坂が多く、遠まわりをしなければなりませんでした。私も親と交代して押す場面が何度かありました。兄は大柄なので、私はともかく父も大変そうで、思っていたよりとても辛く、厳しいものでした。
しかも私たちが行ったのはツアー旅行で、同じツアーの人にスピードを合わせなければならなかったので、よけい大変でしたが、兄のためにがんばりました。
 ホテルでも、ツアーの行き先でも車いす。それでも兄は旅行のどの写真を見てもにっこりと笑っていました。それは、たくさんの人のおかげだと思います。
 その中でも1番お世話になったのはこのツアーの添乗員さんで、行く先々で車いすを手配してくださいました。夜、添乗員さんが車いすの件でくり返し電話しているのを見かけました。きっとたくさんの所にかけてくださったのでしょう。私は胸が熱くなってきました。兄のためにこんなにしてくださっていたなんて。それに私たちに会うと必ずといっていいほど、声をかけてくださいました。同じツアーや空港の方々、そして通りすがりの人まで。視線を感じはしましたが、けっしていやな視線ではなく、声に出さなくても「大丈夫?」と言われているようでした。
 観光地のどこに行っても、障害をもっている人が安全に観光が楽しめるように工夫がされていました。特に印象に残っているのは、イルカのショーを見る際、少しおそく入ったのに、ちゃんと車いす優先の席に通してもらい、家族も一緒に見られるということでした。家族連れには大変嬉しく、喜ばしい工夫だと思いました。
 最初は兄が車いすだと「みんなに見られる、はずかしい、不安」としか思っていませんでした。たしかに普通に歩いてくれたほうがいいと思いましたが、車いすを身近に経験して、スロープなどの便利さについて改めて考えることができました。もし、これらがなかったら、障害をもっている人たちはどうなるのでしょうか。それほど障害者の人たちにとってバリアフリーは欠かせないものなのです。
 障害者の人への思いやりを表す「バリアフリー」は確実に進化しています。しかし、実際に車いすの人と一緒に行動をしてみると、便利な反面、改善点はまだまだたくさんありました。例えば、人ごみの中で全然進めなかったこと、道のほんの少しの段差でもつっかえて通るのに苦労したことなどです。
 私もいつバリアフリーを利用する立場になるか分かりません。誰にでもありうることなのです。だから、私たちの未来ではもっと工夫を重ね、便利になり、障害をもっている人への思いやりがなくならないようにする、私たちの未来がそうであることを心から願っています。そして、私がこの経験で感じたたくさんの人の優しさ、バリアフリーの便利な点や改善点を多くの人に伝えていきたいです。

【優秀賞】(県民会議会長賞)
祖父母とのつきあい
周南市立熊毛中学校 1年 松﨑 彩恵

 「連休は田んぼがあるんじゃから、よそ様みたいに泊まりで旅行とかは無理じゃけぇね。」改めて言われなくても、そんなことはとっくに分かってます。ゴールデンウィークにどこに行くのかお約束のつもりでちょっと聞いてみただけなのです。友達がどこに行くだとかの話をしていただけです。ゴールデンウィークの間にもみまきをして、箱苗を作るのは恒例行事だから、そこはわかってたつもりなのです。
「そこはあえて触れないんだよ。春と秋はそんなもんだ。俺んときだってそうだったんだから。部活もあるんだから、半日くらい何とかしてやるよ。」
ありがとう父さん。映画くらいでお願いします。
 我が家は7人家族、3世代同居の兼業農家です。祖父母が作った季節ごとの野菜で、母が作ってくれるご飯はとても美味しいです。春と秋の田んぼが忙しい時期には、皆で作業します。最近は家族総出で協力して作業できるようになりました。妹の百音が近くに来て作業の邪魔をしないように遊んでやっておくのが今までの私の仕事でしたが、さすがに小学2年生にもなれば、ちゃんと手伝いができるようになっています。
 もみまきの日、5月5日は幸い好い天気でした。日焼け止めを念入りに塗って、帽子をかぶって、作業の準備は万全です。
 箱苗を作るというのは、泥の入った苗箱に、種もみを敷きつめて、上から泥をかぶせていく作業です。大規模にやるところは機械でするし、田んぼに植えられるまで育ったのを農協で買う家も最近は多いそうですが、我が家は昔から自分の家で、種もみをまいて、毎日水をやって育てて、田んぼまで持って行って植える方式です。
「農協に頼むのも楽でええかもしれんけど、どんな苗が来るか分からんし、こっちの日程どおりにはならんし、うちでできた苗をうちの田んぼに植えるのが、一番いいに決まっちょる。」
 祖母は言います。
 枡で量った種もみを苗箱の全体にまんべんなくまいていく作業は、思いのほか根気が必要です。妹の百音はうろうろするし、途中で話しかけられると気が散って、なかなか集中できません。
「ここが荒いから手直し。」
まばらにまいてあると、今度育った苗を田んぼに植えるときに困るのだそうです。厳しいことを言われながらも、全部で108箱あるうちのせめて10箱は自分で仕上げたい。そう思って頑張りました。
「よう手伝うてくれたね。あんたらが手伝うてくれたから、今年もえぇ米ができようね。」
祖母にもほめられ、終わったときの充実感はすばらしいものです。
「最近はうちみたいに3世代が一緒に生活している家の方が少ない。年寄りが一緒にいると口うるさいことを言われる回数も多いよ。でも、父さん母さんだけがお前らを育ててるより、知識も、コミュニケーション能力も、余分に付いてるはずだよ。」
 父の言葉に納得しました。小学校の時の、農業体験学習などでも、家で農業の手伝いをする時に教わった知識が役に立ってました。それに、物おじせずに話ができるようにも思います。本当に、人と触れ合う機会が多いほど、得るものが多いということは、実感しています。
 中学生になってから、生活の範囲が広がりました。これまで以上に、色々な人と関わっていく機会は増えていくと思います。積極的に色々な人達と話をして、経験を積み、誰とでも、積極的に話をすることができる大人になりたいです。

【優良賞】
「共に成長する」
周南市立熊毛中学校 3年 上田 久美子

 私は吹奏楽部に入っています。3年生が引退しこれからは自分が最高学年となり1年生の面倒も全て私達が見なくてはいけなくなります。最高学年という責任感と、1年生も自分も早く上達させないといけないという焦りで、私は何か大切なことを忘れていたのかもしれません。
 先輩がいなくなり、私が仕切るパート練習が始まりました。教室の真ん中に、3人で円になりました。「じゃあ、8拍全員で吹きます。」と私が言うと、「はい。」と小さく暗い声が返ってきました。「せーのっ。」「ポー。」全然合っていません。音程も音色も、音の出始め、終わりでさえも全てバラバラです。「よく聞いて。」「はい。」何回も繰り返しましたが、一向に良くなりません。それどころか、少しの変化も見られませんでした。「本当に聞こうとしてる?。」私は1年生に問いかけてみました。二人は何も言わず、私の方を向いていました。とても暗い目をして。
 何回吹いても一つの音さえ合わせられないのに曲が上手く吹けるはずもなく、その後の合奏は悲惨でした。部活が終わった後、私は顧問の先生に呼び止められました。「あなたのパート、今の演奏じゃ使えないよ。」と厳しい表情で言われました。
 もうどうしたらよいのか分からなかった私は、母に相談することにしました。母は台所でグラタンを作っていました。私は壁に寄りかかりながら、今日のパート練習の様子、1年生の態度、先生から使えないと言われたこと、どうしたらいいか分からないと話しました。すると母からは思いもしなかった返事が返ってきました。「あんた、いい青春しとるね。」「え、どこが?。」とつい私は言いました。私には、全く意味が分からなかったのです。
 それからしばらくした、ある日曜日の昼下がり、私はボーッとテレビを見ていました。母に相談してもいい解決策はもらえなかったので、あの悩みは放置したままです。
 「自分が変わらないと、相手も変わらないんですよ。」とふとテレビから聞こえてきました。私ははっとしました。今までは、1年生が上達しないのは全て相手のせい、やる気の問題だと思っていました。私はずっと、相手だけに変わってもらおうとしていたのです。しかし、この言葉を聞いて、自分も変わらなければと思いました。「やる気あるの?。」とか「それじゃ使えないって言われたじゃん。」とか、1年生のモチベーションが下がるような言葉しか自分は言っていなかったことに気づきました。それでは「頑張ろう」と思えるわけがありません。
 「これからパート練習を始めます。」しっかり腹から声を出して号令をかけてみました。すると、「はいっ。」と1年生の方からもいい返事が返ってきます。簡単なことでした。音が合わなかったときも、何回も繰り返すのでなく、どこをどうやって直せばいいかを具体的に細かく言い、一緒に考えるようにしました。こういうことに少し気をつけただけで、雰囲気ががらりと変わりました。
 ある日、たまに部活へ来るトランペット吹きの大学生がやって来ました。彼は私たちの合奏を、音楽室の隅でじっと見ていました。
 部活が終わり、皆が楽器を片づけていたとき「ホルン、上手って。」と顧問の先生に言われました。彼が先生に言ったようです。「えっ。」私は驚いてしまいました。そして、3人で「やったね。」と笑い合いました。後輩は首を縦にブンブンふって喜んでいました。
 先輩は後輩にいろいろなことを教えます。でも、先輩が後輩に教えられることもたくさんあります。教え、教えられながら共に成長し、共に高め合える関係って素敵です。
 私はこの関係を大切に育み、卒業するまでの1日1日を充実したものにしていきます。

【優良賞】
精一杯生きる
萩市立大井中学校 3年 古谷 遥佳

 今日も朝を迎えることができました。
 私たちはいつ、どこで何が起こるのか、全く分かりません。そんな中で、今日を迎えることができたというのは本当に幸せなことで、奇跡です。毎日当たり前のように学校に行き、ご飯を食べ、友達と話しています。でも、それは本当は当たり前のことではないのです。
 私は今も忘れられない映像があります。それは、東日本大震災のときのことです。あの日、私は何も知らずに家に帰りました。いつものようにテレビをつけると、そこにはいつもとは違った光景が映っていたのです。最初は何が起きたか、よく分かりませんでした。けれど、しばらくしてやっと理解できました。それが日本で起きた大震災だということを。一瞬の大津波にたくさんの人が飲みこまれ、命を亡くしました。その中には必死に避難場所に逃げる人、子供を守ろうと必死な親。生き残った人々は、慣れない避難場所で、食事も十分にとれず、不安な夜を過ごしたのです。
 また、最近私はユーチューブで東日本大震災の映像をみました。そこに映っていたのは、自分が思っていた以上にすさまじい光景でした。私は何も言葉が出ずに、ただ辛かったです。家や車は一瞬の波で流され、町はがれきだらけ。そんな、がれきだらけの町を泣き崩れながら見つめる少女。がれきのすきまから小さな手を出し、助けを求める少年。
 東日本大震災だけではありません。広島地域の豪雨災害、須佐地域の水害。たくさんの人が被害に遭われました。あまりニュースなどでは流されなかったけれど、とても辛い目に遭われたのです。大切な人や物を失い、家の中は泥だらけ。家の外をみれば、見慣れたはずの庭はあとかたもなく、流された木や土にまみれたがれきの数々……。そんな中で私が聞いたある一言。それは、
「自分は何も悪いことをしていないのに。どうしてこんな目に遭うのか。」
という言葉でした。何も悪いことをしていない人が辛い目に遭い、苦しい思いをし、泣き崩れている姿。自分までも心がむしゃくしゃしました。
 それでも、地震や災害、水害に遭われた人は苦しみ、困難にぶつかりながらも、
「必死に生きる。生きてやろう。」
と、あきらめずに進み続けたのです。ある人は被災された方々の衣服のクリーニングを無料で引き受けて。ある人は、被災した、その町に住み続けることを決意して。幸せを一瞬のうちに奪われ、かけがえのない人や物を失った方々。でも、この人たちの心は私たちの何倍も強いのです。いや何百倍も。家を失い、家族を失い、思い出にあふれた物の数々を失ったにもかかわらず、カメラに向かい、私たちに向かって笑顔で語っておられたのです。それも精一杯のほほ笑みで。あなたはこのような目に遭っても被災者の方のように、あきらめずに何でもやっていけますか。笑顔でいられますか。きっと多くの人が「はい。」とは答えられないでしょう。でも、画面に映っている方々は笑顔で希望を語っていたのです。これも、私たちと同じ日本人。同じ人間……。
 映像の中の瞳が私たちに語っています。こうやって今日も朝を迎えられ、生きていることこそ幸せなのだということを。今日という1日は、生きたくても生きられなかった人が精一杯生きたかった1日なのです。亡くなった方が何倍も何十倍も生きたかった1日なのです。私は思うのです。辛いときや苦しいとき。それでも前を向けば必ず道はあるのです。どんな暗闇の中でも、どこかに光があるのです。だから決してあきらめてはいけないのだと。簡単に「死にたい。」なんて言わないでください。生きてこそ、前を向いて進んでこそ道はできるのだから。生きている、あなた自身が未来への希望なのだから。

【優良賞】
若者にしかできない、若者の力
周南市立須々万中学校 3年 桑田 祐菜

 私は小学4年生まで大阪にいて小学5年生から山口へ引越してきました。大阪は都会で店が多いので行きたいときに行けてとても便利でしたが、山口は田舎で店が少ないので行きたくても行けないためとても不便な気がしていました。また、友達と遊びたくても車が無ければ遊べないなどという不都合なことばかりで最初の頃はこの土地を気に入ることはできませんでした。
 しかし、地域の人々は沢山挨拶をしてくれるし、話しかけてくれるし、思いやりのある人ばかりでそういう人の人柄がとても好印象でした。だから、私はすぐにこの長穂という地域を好きになりました。はじめは、温かい人柄だけで私はこの地域を好きになったけれど、さらにここを好きにさせてくれたのは地域の「青年部」の活動です。青年部とは、簡単に言えば地域を活性化させるために無償で活動しているボランティア活動です。活動内容は数えきれないほどありますが、主にはクリーン作戦をしたり、マラソン大会に出場したり、祭りで食べ物を売ったり、地域のためになることは何でもします。青年部はこの地域に住み、やる気のある若者なら誰でも入ることができます。
 昨年の、「長穂ホタル祭り」の際に同級生でステージに立とうと話があがったときも、ダンスやジャグリングが適しているというアドバイスをくれました。そして、それらの先生の手配もしてくれました。ステージでの披露は青年部の方が手助けしてくれたからこそ、成功できました。このように、青年部に所属している人達は皆優しさを持っていて、すごく良い人達ばかりです。また、青年部の人達の活気ある姿で私の地域に対する思いが変わってきました。
 だから私は高校に入学したら青年部に入りたいと思います。活動を見ていたら休日はあまりなく大変だということは目に見えて分かるけれど、私もこの大好きな地域のためにボランティアをしていきたいです。今、この地域は子供が少なく高齢者が多い少子高齢化になりつつあります。しかし、まだ若者は残っています。そのため、今の若者が次の世代へ、その世代がまた次の世代へと伝承していけます。だから私は、目の前のことを精一杯やっていこうと思います。こんなに優しくて思いやりのある地域はこれから、もっとより良くなっていくはずです。
 現在、私達の地域ではルバーブという果物を名物にしようとルバーブジャムを販売したり、休校になった小学校を支所にしようとしたり、山に散策ルートを作ったり、公園を作るか検討したり沢山の企画を考え、青年部だけでなく色々な人が色々な立場で沢山の努力をしています。青年部との関わりを通して、未来をつくるのは私達、今の若者だと強く感じました。力になれそうなことは全力でサポートしていきたいです。「田舎だから」「人口が少ないから」そんなことを口実にせず、これからのこの地域をつくりあげていきたいと思います。そして、この優しく思いやりのある長穂という場所を守っていきたいです。

【優良賞】
便利だけれども・・・
美祢市立美東中学校 3年 大中 密月

 あなたの周りを見てみてください。おそらくたくさんの人がスマートフォンを利用しているのではないでしょうか。電車の中ではどうでしょう。下を向いて猫背になりながらスマホの画面を見ていませんか。
 今世界中で普及しているスマホは、コンピュータ技術の発達によってつくられました。1台でネットはもちろん、メール、通話など何でもできてとても便利な物です。
 しかし、良いことばかりではないと私は思います。私も中1の時からスマホを使っています。特にラインなどのコミュニケーションツールやインターネット検索などをよく利用します。
 実際、ラインをしていて困ったことがあります。自分で他のことをしている時に友達とのグループ会話に参加してしまい、ついつい何時間も費やしていました。結果的に、自分の本来やっていたことがおろそかになってしまいました。また、ラインの文のあとに(笑)という字をよく入れますが、実際に自分はその時に笑顔になってはいない気がします。自分の表情が少なくなっているのではないかと怖くなりました。後で、会話して楽しかった気持ちよりも、無駄な時間を過ごした後悔の方が大きかったです。
 ネット検索も大変便利です。自宅での学習にも使っています。分からない単語なども簡単に調べられるし、調べ学習などの時はとても助かります。
 人類が誕生してからの歴史に比べると瞬く間にスマートフォンなどが広まってきました。今では生活になくてはならない物になっています。ではスマホが出現する前は、生活できていなかったのでしょうか。
 「昔の人は賢い。」という言葉を聞いたことはありませんか。それはある意味正しいと思います。年上の人達からためになる知恵をたくさん聞いたことがあります。シミぬきのベストな方法や風邪の治し方などおじいちゃん、おばあちゃんが教えてくれることは全てためになるのではないでしょうか。スマホで得る情報もありますが、身近な人から実体験に基づいたいろんな豆知識や知恵を聞くのも大切ではないのかと実感しました。
 日本では、これから授業でタブレットを使うことになるでしょう。電子黒板が増えるというのもニュースで見ました。私はコンピュータだらけの授業を受けたらどうなるのか想像してみましたが、あまりイメージがわきません。正直あまり身につかなさそうです。私は書いて覚えた方が、しっかり覚えられます。ネット検索の時には漢字がすぐに変換されるので、漢字を忘れたりもします。本もちゃんとページをめくって読んだ方が良いと聞いたので、コンピュータの授業は教科によっては合わないと思います。
 今回改めて、コンピュータやスマートフォンについて考えてみました。
 大切なのは、人はせっかく命があり、感情があるのだから達成感を味わいながら生きることなのではないでしょうか。スマートに検索するだけでなく、苦労して調べたり、人との会話から得ることがあったり、そこで喜びを感じたりすることが大事だと思います。
 もちろん技術の発達は大事で、欠かせませんがそのために失うものが多すぎてはならないのです。これからの時代を生きていく私達は、道具や技術に「使われる」のではなく、賢い使い手にならなくてはならないと思います。そのために、多くのことを見聞したり、正しい判断ができるように学んでいかなくてはならないと強く感じています。

【優良賞】
「私たちが今、考えるべきこと」
平生町立平生中学校 2年 小田 瞳
 
 日本は18歳から選挙に参加することが決まった。これは日本にとって大きな変化である。賛否両論ある中での可決だと思った。
 日本は民主主義である。国のリーダーや市や町を任せる人を選ぶ選挙は、20歳以上の人達で行っていた。未成年だとしても、立派な国民だ。選挙権はあっても良いと思う。私たちはこれからの日本を背負う、未来の成人。早いうちから国政について考えることも大切だ。それに、近年、選挙の投票率が低くなっている。18歳から参加すれば、投票率アップにつながる可能性も充分あるだろう。18歳以下の人も、以前より選挙や政治に関心をもてるはずだ。良い方向へ進むきっかけとなるのかもしれない。若い世代の意見を取り入れていくと何が変化するのか、私自身とても興味がある。
 しかしメリットばかりとは思えない。未成年の私達が、本当にふさわしい人を選べるのだろうか。正直、私は自信がない。テレビで演説を聞いたことがある。町議会の議員選挙のときは、登下校中、演説を生で見た。言いたいことを理解しても、それでどう決めるのかがどうしても分からなかった。また、最近は未成年の事件や問題行動が目立ってきている。被害者ではなく、加害者。
 数多く起こる中で、私は高校1年生の男子生徒が川で流されたという事件が強く印象に残っている。下流で遺体が発見されたという。最も衝撃的だったのは、事故ではなく、事件だったことだ。少年3人が加害者だった。このニュースを目にしたときは、同じ未成年だけれど、信じられないと思った。大人だから犯罪を犯してもおかしくない訳では決してない。だが、未成年という言葉がよくわからなくなった。ニュースに出る人はごく一部だ。それを見て未成年と全てくくってしまうのはよくない。私も一つのことで全体の印象が決まってしまうのは好きではない。だけれど、大人から見て、私達は信頼に値するのだろうか。
 私はもう可決されたこの法に、賛成とも反対ともいえない。ニュースやネットなどで多くの意見を見たが、どちらの主張にもうなずいてしまうからだ。投票が、もし学校行事になったら、投票率を上げることになるかもしれない。だが、上がれば良い訳でもないはずだ。国を良くするのは、良き1票だ。その票を入れる権利が、18歳に与えられたのだ。これは大きなチャンスであり、大きな不安要素である。私はチャンスと思いたい。
 選挙権をもつ歳がたった二つ下がっただけなのに、こんなに変化を感じる。当たり前がくつがえされるのはこういうことなのだと思う。大人が決めてしまった私に深く関わる変化。これからの日本は私達が担っていく。良い方に進むか、悪い方に進むか、私達にも関係してくる。他人事ではなくなった。
 この制度にどれくらいの人が期待して、どれくらいの人が不安にしているだろうか。未成年の私達が今考えるべきことは何だろう。今一度、政治や選挙について理解しておく必要があると思う。選挙権を手にする日は、そう遠くない。そのために、私は身近な選挙に関心をもとうと思う。そして、18歳になったとき、票に自分の意見を書くのだ。その意見が、私にとって悔いのない精一杯、一生懸命選び抜いたものなら、私でも国の力になれると信じている。


 

平成26年度少年の主張コンクール山口県大会について
2021/06/08

H26少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん

【最優秀賞】(県知事賞)
気持ちを受け取る
周南市立熊毛中学校 3年 鬼武 亮輔
 
 「今日も長いぞ。はいはい、分かりました。分かってるって。」これは祖母に対する僕の心の言葉でした。
 僕には70歳になる祖母がいます。親の帰りが遅い時、祖母は僕の夕食を作ってくれます。夕食時に、祖母と学校の事や飼っている犬のことなどたわいもない話をしています。
 そして、祖母はよく同じ話をくり返します。いつものことだから僕はてきとうに返事をしていました。
 ある日、祖母から勉強のことで注意を受けました。同じ話をくり返し、どんどん熱が入ってくる祖母に初めは「わかった。はい。」と言っていたのですが、最後には「うるさいなぁ。分かってるって。」と吐き捨てるように言ってしまい、もちろんさらに祖母の怒りを買うことになりました。
 分かっているのに何で何度も言うんだとイライラしながら自宅に戻り、テレビを見ていました。
 その日の夜、仕事から帰ってきた母に、同じ注意を何度も言う祖母に腹が立ったことを話しました。母は僕に、「それで、おばあちゃんは何がいけないって言っていたの。どうしなさいって言っていたの。」と聞きました。
 「いろいろ」と答える僕に、母は「いろいろって何?」その質問に勢いよく答えようとして僕は「あれっ?」と思いました。「なんだったっけ・・・。」思い出せない。僕は急速に勢いを失いました。
 何度も勉強について注意をされた、怒られたという記憶はあるけど、具体的に何を言われたか思い出せなかったのです。あれだけ、「分かってるって」と言ったのに不思議と思い出せません。言われた端々の言葉は少し思い出せるけど祖母が何を言おうとしていたのか具体的には分かっていなかったのです。
 母から、「ちゃんと聞いてないのに分かったと空返事してたのがおばあちゃんには分かったからさらに怒られたんじゃないの。」と言われました。
 いつも同じ事をくり返すからといつからか僕は祖母の話の中身をいい加減に聞いていたことに気づかされました。
 僕は少し気長に、そして祖母が何を伝えようとしているのか聞くように心がけてみました。くり返しの言葉の中にある、祖母の僕に対する二つの気持ちが分かりました。それは「心配」と「期待」でした。この言葉は祖母の話す言葉の中にはあまり出てこないのですが、話をじっくり聞いてみると様々な表現を使って懸命に伝えようとしてくれていることに気がつくことができました。
 祖母の思いに気がつくと「長いな、同じ事ばっかり、分かってるはいはい、うるさいなぁ」という気持ちが不思議と和らいでいました。
 言葉に込められた気持ちが分かるようになると素直に話が聞けるようになりました。
 ある日、祖母に「いつもは話を最後まで聞いてくれないから少し怒ってしまっていたけど、今日は気持ちよく話せたよ。」と言われました。この言葉を聞いて、僕は、祖母の話の途中で言い訳をして、祖母を不快な気持ちにさせていたのだと改めて気がつきました。僕の甘えだったのかもしれません。
 以前、国語の授業で、「若者と大人はどちらも考えに柔軟性を持って接しなければ分かり合うことはできない。」という主旨の文を読んだことがあります。相手が伝えようとしていることを分かろうとし、最後まで聞き、受け入れ、考え、そして自分の思いを伝えるようにすることが大事だと思います。
 あわてないコミュニケーションが人と人とを温かくつなげてくれるように思います。
 祖母への感謝の気持ちを忘れないようにし、祖母からいろいろな事を学ぼうと思います。

【優秀賞】(県教育長賞)
「便利の裏にかくれている恐ろしさ」
周南市立須々万中学校 3年 山根 希海

 「LINE」このアプリは簡単に情報が交換でき、とても便利なのでよく使います。でも便利だからといって、安心して利用しているわけではありません。なぜなら僕は一度、LINEによって悪口をかかれた経験があるからです。
 2年生の2学期、同級生の集まるグループに招待され、そこに入りました。そこでの会話は、ひまつぶしのジョークを交わすぐらいだったので、通知がたまったら既読するということを繰り返していました。
 ある日、友達が僕の写った写真をグループに上げました。すると一人の女の子が、僕に対しての悪口をかいていました。「性格わかってる、魅力感じない」短文章でした。その子は僕がグループにいることを知らなかったそうです。僕はすぐに退会しました。その後個人のチャットに他の友達が再びLINEに入ることを勧めてきました。でも僕にはそんな余裕はありませんでした。そのグループの全員が僕の悪口を言っているのではないかと不安になりました。その女の子に対して特別な感情を抱いていたわけでもなく、嫌っていたわけでもありません。だから僕は、別にどうでもいいやと、開きなおったつもりでした。
 次の日の朝、その子が僕に謝ってきました。「私の性格が悪いの、本当にごめんなさい。」と。僕は「別にいいよ、気にしてない」と少し暗い声で返しました。謝られたのに、謝ったかのようでした。自分のとる行動にすべて問題があるのか。励ましてくれる友達もいない。僕は一人なのか。自分自身に淋しさを感じました。
 今になれば、あんなことあったなと思うぐらいですが、完全に僕の心から消えたわけではありません。対面で話すときに口から出る言葉には、どんなにあいまいであっても責任感を感じます。逆にLINE上では、どんなに仲がいい友達が送ったメッセージでも半信半疑になってしまいます。そのなか彼女は謝るという行為をLINE上ではなく彼女の口で伝えました。僕はこの子のことを恨んではいけないんだと思いました。
 このような経験からLINEの恐ろしさを実感し、なぜそうなるのかを考えました。情報を伝え交換し合うLINEが、人を傷つける道具になってしまい、事件やトラブルになってしまうケースは、ニュースでも最近耳にします。ではなぜそうなるのか。体験した僕から一つ言えることがあります。それは、オンライン上に自分の言葉を残す以上、発言に責任をもち、やってはならないことを自分自身で十分、理解する必要があるということです。今の若い人は、やってはならないことへの理解が足りてないと思います。やってしまった自分が悪いと分かっていても、結局理解しきれなかったのが事実だと思います。今後このようなアプリはますます発展するでしょう。僕たちは、判断する力、理解する力をもっともっと磨いていかなければなりません。
 普段の生活の中で友達に対する不満はなかなか口にできません。それを可能にするのがLINEといったアプリなのかもしれません。でもそれは間違っています。口で伝えるという行為から逃げてはなりません。それをしてしまうと、必ず自分ではなく他人を責めるでしょう。対面でケンカすることの何が悪いのでしょうか。
 僕はあの日以降、安心してLINEを利用したことはありませんが、いつか安心して利用できる日がくる。安心して利用できるよう努力していく。そう信じています。
 今後、LINEによって悲しむ人がいなくなるように願い、正しい使い方を共有、伝承していきたいです。LINEに安心という文字がぴったりあてはまるために。

【優秀賞】(県民会議会長賞)
一つの命
萩市立大井中学校 2年 長嶺 千佳

 みなさんは、考えたことがありますか。動物にも心があるということを。その心をしっかりと受け止め、愛情を与え続ければ、それだけ信頼が深まるということを。
 日本で飼われている犬や猫は約2,060万匹だそうです。私にとって一番身近な動物です。しかし、みなさんは、犬や猫が年間約20万匹も殺処分されているという事実を知っていますか。700匹以上もの命が1日に殺されているのです。殺処分は保健所で行われます。その数のほとんどが飼い主の持ち込みによるものです。考えてみてください。理不尽に命を振り回される、動物たちの気持ちを。動物は、物ではありません。それを分かってもらいたいと強く思います。
 では、飼い犬や猫の殺処分を減らすにはどうすればいいのでしょうか。
 以前私の家に、のら猫が来たことがあります。人に飼われていた経験があるらしく、人なつっこい猫でした。私が飼いたいと思いましたが、家族の反対もあり、結局はその猫を別の場所に置いて帰ることになりました。そこは、観光客やお店の人からえさをもらえる場所だったからです。しかし、私は、家に来たときの、あの猫のまなざしを忘れることができません。助けを必死に求めるような瞳。今もはっきりと覚えています。
 私は、まず飼い主の動物に対する意識を変えることが大切だと思いました。人は動物をかわいいからという軽い気持ちで飼い始めます。それが悪いとは言いません。しかし、命を預かるという自覚をもつことが大切なのではないでしょうか。最後まで責任をもって飼えるかどうかを、しっかりと考えてから犬や猫を飼ってほしいと思います。
 私はうさぎを飼っています。寝ている様子やえさを食べている仕草。ふわふわの毛をなでると、心が和みます。私は、その命に責任をもち、最後まで向き合っていこうと決めています。動物を飼うということは、決して容易なことではありません。けがや病気にかかったときには気づいてあげなければいけません。食事の世話もあります。汚れた小屋の掃除もします。どんなに疲れていても、辞めるわけにはいきません。それは、命が一回きりだから。そして、私だけが頼りで、私を見つめているからです。生き物を飼うということは、その生き物と共に生きるということで、長期間の覚悟が必要なのです。
 世界を見ると、ドイツでは、犬や猫の殺処分数がゼロです。どうしてなのでしょうか。それは、動物に対しての意識が高いからです。殺処分施設もありません。その代わりに「ティアハイム」という施設があります。そこは、捨てられた動物の里親を捜すためのものです。日本の保健所では、殺処分されるまでの期間が、3日から7日ですが、ティアハイムでは、滞在期間がありません。ドイツでは、動物を飼いたいと思えばティアハイムに行きます。そこで、90パーセント以上も里親が見つかっているのです。日本では良くも悪くも、様々な場所で、簡単に気に入った動物を飼うことができます。
 私は、日本もドイツのような取り組みを取り入れるべきだと思いました。国全体として意識を高めるためにも、飼い主が軽い気持ちで飼わないように、法律も変えていく必要があるのではないでしょうか。
 動物の命を守ること。そのためには、飼い主の動物に対する責任感。それが一番の解決策です。動物があなたを見つめるまなざしを見てください。それは、一つの命なのです。飼うことが決まったときから、頼れるのは、飼い主のあなただけなのです。
 動物は、いつでも気持ちを発信しています。まなざしや動作。体全体で、あなたを見つめています。それをしっかりと受け止めてください。一度飼うと決めたからには、愛情を与え続け、信頼し合える関係を築いてください。飼い猫や犬の、命の輝き。そして、まなざし。1回きりの命を、たった一人のあなたに預けて生きている小さな命。それを、飼い主である、あなたとのかけがえのない絆で、全うさせてください。何も言えない動物たちの声を聞いてください。それが私の願いです。


【優良賞】
平生からはばたく夢
平生町立平生中学校 2年 山田 瑞季

 小学校の卒業文集に書いた私の夢。それは医者になることだった。私をこの夢に導いてくれたのは、小学校3年生の時に入院した病院の方々との出会いだった。
 インフルエンザだったが、少しひどくて入院することになった。その時私についてくれた先生は、私をいつも心配してくれた。最初は親が妹を幼稚園に迎えに行っただけでさみしくて、涙を流していた私を優しさで包んでくれた。そんな優しさの中で私は安心して入院生活を送り、無事に退院する事ができた。その病院で私はたくさんの事を学ぶことができた。家族のありがたみ、感謝の心をもつという人間としてあたりまえの事を、この時初めて実感することができた。これも私を安心させてくれた病院の先生のおかげだと思う。
 私の場合、たった1週間の入院だったが、たくさんの事を患者に教えることのできる病院の方々を尊敬すると同時にあこがれをもった。
 医者という存在は大きな存在だと思う。人の病気が治ったり、けがが治ったりする。人に元気を与えられる。そんな医者という職業にひかれていった。それが私がこの夢を追う始まりだった。
 しかし、その夢は簡単に叶うものではない。中学生になり、通知票が5段階評価になった。そこでの成績は医者をめざす私にとって、とても満足できるものではなかった。私はしだいに医者になるという夢をあきらめそうになっていた。
 そんな時、私は中学校のキャリア教育講演会で平生中学校出身の大先輩の講演を聞く機会をもった。講師の方は、平生というこの小さな町から、世界へと飛びだした方だった。講演の中でその方は小・中学校時代の成績は特に良くもなく、悪くもなく、いわゆる普通の評価だったとおっしゃった。その方が変わったきっかけは、夢やあこがれをもったことだった。その方は、平生の美しい星空に興味を持ち、星へあこがれ、空へあこがれ、飛行機にあこがれた。そして実際に多くの飛行機の設計を手がけ、最後は宇宙開発にも携わっておられた。
 その方がもう一つ言われたことがある。それは「くじけないで、あきらめないで」ということだ。平生という小さな町の普通の中学校からも可能性はあると希望がもてた。私は講師の方へのお礼の手紙で、次のような気持ちを伝えた。「私は医者になるのが夢です。道は険しいですが頑張って医者になりたいです」と。私はもう1度医者になるという夢を追いかけてみたいとこの時思った。
 小学校の卒業文集にはもう一つ書いたことがある。どんな医者になりたいか、という事だった。私は、人に元気を与えられる、頼りにされる医者になりたい。目標は、もちろんあの先生だ。
 中学校での講演会は、夢を思い出すきっかけを与えてくれた。「くじけないで、あきらめないで」という言葉はその時の私に勇気を与えてくれた。だから、大先輩に感謝している。先輩のように夢・あこがれをもつことは、本当に大切だと思う。
 講師の方に教えてもらった最後の言葉がある。それは、「心のスイッチを入れる」ということ。人間は心のスイッチがオンになると細胞が元気になり、本当に頭や体も動くという事も教えてもらった。
 これから、たくさん乗りこえないといけない壁が次々と私の前に立ちはだかってくると思う。しかし、壁に見えても必ず通る道はあるのだ。その時は心のスイッチをオンにして、不可能なことも可能にしていきたいと思う。私も平生から夢に向かってはばたきたい。

【優良賞】
身近な恐怖
周南市立周陽中学校 2年 石丸 奈由

 いつものように中学校へ登校している時のことです。昨日までなかったコンビニの袋やペットボトルが道の端の方に散らばっていました。ゴミがそこにあるだけで、朝からとてもモヤモヤしたし、誰がこんなことをしたんだ、という怒りでいっぱいでした。
 私は、年に1回お父さんが働いている仕事場が企画しているゴミ拾い活動に参加しています。初めての時は正直驚きでした。みぞにカンを無理矢理おしこんで入れていたり、たばこの吸いがらを草むらに捨てていたり。1歩間違えれば火事になるところです。本当にこんなことをする人がいるのかとうたがうほどでした。
 さらに、小さい頃は、なんで人が捨てたゴミを自分が拾わなければいけないんだ、とずっと思っていました。でも最近になり、つらくだるいこの作業も、自分が町をきれいにしている、という達成感に変わっていきました。それと同時に、これからもこの活動に参加して、いろんな人を気持ち良くさせたいと思うようになりました。
 インターネットでゴミのポイ捨ての量について調べてみると、1年間で7.5トンものゴミが捨てられているそうです。だけどこのデータは、山林や道路付近だけのことなので正確とは言えません。本当はもっと多いはずです。
 そもそもなぜポイ捨てがおこるのか、不思議に思っています。ただたんに捨てるのがめんどくさかったり、ましては誰かが拾ってくれるだろうと考えている人も少なくはないはずです。それは人としてどうなのでしょうか。自分が使わせていただいている施設をよごして、罪悪感はないのでしょうか。
 また、こうしたデータを聞いて、私達にできることはないか、考えてみました。ポイ捨てがよくされているところにポスターをはって防止したり、友達同士で呼びかけあったり、ゴミ箱を増やしたりです。しかし、どれも捨てる人の気持ちを変える大きな案にはなりません。では、どうしたらいいのでしょうか。
 私は、ゴミのポイ捨てによっておこる様々な問題を具体的にあげてみるのがいいと思います。例えば、環境問題です。先日テレビで消したはずの炭を森に捨て、そこから大きな山火事につながったというニュースを見ました。炭を消したはず、と思っていても中はまだ熱く、燃えていたからです。これは森林破壊につながります。その人のちょっとした甘い気持ちだけで今回のニュースのような大事故になるのです。だから、平気でポイ捨てをする人にはこういった大事になるかもしれないとしっかり伝えてあげたいです。それが、普段からお世話になっている地球への感謝の気持ちになると思うからです。
 それに、ゴミのポイ捨ては軽犯罪ながらも立派な犯罪です。中学生がゴミのポイ捨てをするのは、未成年者が犯罪を犯すことと同じなのです。そして、それを続けていくとだんだん罪を犯すことに慣れていき、大人になる頃には犯罪がエスカレートしていくことだってあります。つまり、今している行動は、自分の将来を潰すことになるのです。そんなことは、なにがなんでも防がなければなりません。
 改めて考えてみると、ゴミのポイ捨てはとても怖いものだなと思います。心の弱さからなる、身近にひそんだ恐怖であると言っても過言ではないです。
 だけどその恐怖は、自分がもつ意思で変えられます。一人一人の行動が、私達の大切な未来へとつながっていくのです。

【優良賞】
あたりまえの幸せ
下関市立彦島中学校 3年 中川 知優

 私の胸に何かがつきささった。それは受験生となって3度目の全校集会のとき、ナイジェリアで起こった「生徒拉致事件」について校長先生が話された時の話である。そのとき「もしも私が被害者側の立場なら。」などといろいろな感情がこみ上げてきた。そして私は事件についてもっと知ろうと、家で詳しく調べてみた。するといくつかのことが明らかになった。それはこの事件がイスラム過激派によるものだったということと、拉致されたのが17歳前後の女学生233人であったということだ。私はそのとき初めてナイジェリアという国の状態を知った。1億6千人以上を超える人口のうち、70万人が奴隷状態であるということ。そしてその多くが誘拐や親族の借金のために売られた人なのだという。その上、この事件を起こしたイスラム過激派は激しすぎるテロ活動で知られているそうで、この組織は今までに千人以上の人の命を奪っているらしい。この事件の目的を彼らは、「拉致した少女たちを拘束して、花嫁として売り飛ばす。」とまで宣言していた。人が人を売りさばいていいわけがない。私はとても残虐な話であると思った。しかし私にはそれ以上の感情はわかなかった。「悲しみ」や「怒り」といった思いは浮かんできても、「怖さ」や「恐れ」といった感情が出てこなかった自分に気付きはっとした。きっとどこか日本とは無縁のことだと思ったのだろう。戦争は日本にとってそう遠い未来のことではないと思う。しかし私たちにとっては日本という国が平和であることがあたりまえになっている。まして私たちが奴隷となる日が来るなんてとうてい考えられない。日本人は世界の争い事を客観的な感情でしか見ることができないのではないだろうか。だけど私はこのままではいけないと思う。実際、被害者も、もちろん加害者も私たちと同じ人間なのだから、一つ一つの問題を一人の人間として見つめ直す必要があると思う。
 このような国際問題はまだまだたくさんある。それにより毎日数えきれないほどの人々の命が失われている。内戦から直接的に死に至る人もいれば、内戦による食料不足などで命を落とす人もいるのだ。
 ではいったい世界ではどのくらいの人が飢餓に苦しんでいるのだろうか。きっと私たちが思っている以上にいるはずだ。しかし苦しんでいる人たちがいる一方、私たちはどんな生活をしているだろうか。無意味な時間を過ごしてはいないだろうか。私はテレビで貧困地域の子どもたちの特集を見たとき、何とも言えない感情に襲われた。その痩せ細った体で1日1日を一生懸命に生きている姿に、言葉がでなかった。だけどそれ以上に私は自分自身に悲しくなった。私はその日、給食を残したからである。そのときふと思い出した。それは小学校頃、学級活動としてしていた「完食記録」のことだ。どんなに休みの人が多くても完食し続け、1年間の完全完食を成し遂げた。そのときは、残さないのがあたりまえ。しかし今はどうだろう。残飯があるのがあたりまえとなってはいないだろうか。
 「あたりまえ」とは一体何なのかと私は思った。今私にとって学校へ行けること、食に不便がないこと、家族がいること、私の居場所があること、全てがあたりまえであると思う。日本人の誰もがそう思っているのではないだろうか。だが他の国ではどうだろう。私たちの逆のあたりまえがあるかもしれない。
 ではそう思うことがいけないのか。それは違う。私は、あたりまえと思えることは幸せの証なのだろうと思う。だから、私はあたりまえのことへの感謝を忘れないようにしていきたいと思う。そして私の周りがたくさんの自然の笑顔であふれる、あたりまえの幸せが「あたりまえだ」と言える人になりたい。

【優良賞】
安心な国 日本
田布施町立田布施中学校 3年 石川 花鈴

 みなさんは、毎日の暮らしの中で、安心して暮らせていいなぁ、と思ったことがありますか。災害や交通事故にあわなくて良かった、というようなことではないのです。
 私は今年の5月までアメリカ合衆国のアリゾナ州で暮らしていました。父の仕事の関係で生まれてすぐに渡米したのです。アリゾナは1年のうちの300日以上が晴れで、夏の気温は45度にもなります。
 私が通っていた学校は日本人と大きく違っていました。まずは窓の数です。日本の学校の窓は日が差し込む方向の一面が窓ガラスで覆われています。でも、私が通った学校は違います。窓がないのです。あるのは明かり取り程度の小窓で、厚い防弾ガラスがはめ込まれています。ドアも防弾の鉄製です。学校に入る門は全て鍵がかけられ、警察官とガードマンが見張っています。そして学校をパトロールしています。もちろん2人とも拳銃を持っていました。
 2012年、アメリカのコネチカット州では、小学校に銃を持った男が侵入し、何十人もの子どもたち目がけて、銃を乱射しました。そして、無残にも多くの尊い命が奪われるという事件が発生しました。
 アメリカでは、このような事件は決して珍しいことではなく、日常的に次々と起こっているのです。
 また、アメリカでは、通学方法はスクールバスや車です。そして、アメリカのスクールバスは優先車両になっています。日本のように小学生が歩いて学校に通うことなどあり得ないことなのです。1人で歩いていたら、だれかにさらわれそうで怖いのです。
 私は日本に帰ってきて、「なんて日本は油断しているのだろう」と日本とアメリカの学校のセキュリティの違いに驚きました。もちろんアメリカも日本も生徒の安全を第一に考えていることに変わりはありません。ただ、その方法が全然違うことがとても不思議でした。私が、今、通っている中学校の正門は1日中あいています。不審者がいつ入ってもおかしくない状況です。不審者に「どうぞ、お入りください。」と言っているようなものです。
 けれども日本で暮らすうちに、アメリカのようなセキュリティは必要ないことがわかってきました。
 なぜ、日本は安全なのか、私なりに考えてみました。
 アメリカでは、ちょっとした不満やトラブルでも拳銃を乱射するような凶悪な人たちがいますが、日本にはそのような人はいません。少なくとも私が住んでいる町はとても穏やかでやさしい人たちばかりです。
 また、日本人は大変礼儀正しい国民だと思います。学校も町も大変きれいです。そして、自分たちで使うところは自分たちで掃除をして、きれいにしようと心がけています。困ったことがあれば、となり近所や地域で助け合う気持ちを持っています。何よりもお互いを信じ合う気持ちを持っています。だから、拳銃を持って身の安全を守ることは必要ないのだと思います。安心してのびのびと生活が送れる日本は世界のどんな国よりも理想的であり、すばらしい国なんだと改めて思うようになりました。
 今、アメリカでは、安全な学校生活を守るため、新たな問題が起きています。「ガン・コントロール」という大問題です。これは、全国の学校の各教室に拳銃を保管しておき、いざ犯罪者に襲われたら、その教師が拳銃を手に持ち、攻撃をしても良いという制度です。これだともちろん生徒の命を救う可能性は高くなるかもしれません。けれども、拳銃に慣れていない教師は誤って人を傷つけてしまうという反対の意見もでています。長い議論が今でも続いています。
 最近、日本でも凶悪事件が増えていると感じている人もいるかもしれません。日本がアメリカのようになってしまう恐れがあります。しかし、そんなことになってはいけません。
 私は、これからも安心して生活できる学校や街であってほしいと思います。いや、絶対にそうでなくてははならないと思います。日本人の思いやりの心や礼儀正しい心は全世界が見習うべきだと思います。
 私は14歳までアメリカで暮らしましたが、今、日本人として安心して暮らせるこの国を本当に誇りに思っています。

【優良賞】
「水のありがたさ」
萩光塩学院中学校 3年 齊藤 彩華
 
 昨年、私達の住んでいる山口県を大きな水害が襲いました。「水」の恐ろしさを肌で感じた出来事でした。大量の水によって泥が流され、家も学校も破壊されたのです。しかし、その後、住民たちは、生活用水の不足による不自由さを強いられました。
 「水。」私達の生活とは切っても切れない大切な「水。」そこで、私は「水」について調べてみることにしました。
 私は、水を使うときに「使いすぎていないか?」と思うことがあります。また、この水が無くなったらどうなってしまうのだろうとも思います。蛇口をひねれば当たり前のように水がでてきます。私たちは、1日にどれくらいの水を使うのでしょうか。同時に、どれくらいの水を無駄にしてしまっているのでしょうか。みなさんは普段何気なく使っている「水」について考えたことはありますか?
 朝起きて顔を洗うのに1回、歯磨きをするのに2~3回、学校や家で手を洗うのは10回以上、お風呂では大量の水を流します。飲む、洗う、流す、かける・・・数え切れないほどの量の水を私達は生活の中で利用しているのです。水はゼロ円ではありません。そう考えると、節水を考えます。私は、実際に節水をしてみようとしました。しかし、蛇口をひねれば当たり前のように出てくる水を目にすると、節水しようと思っていたことを忘れてしまいます。そして、どうしようと気がついたときにはもう遅いのです。大量の水を使ってしまっています。
 私は、水に関する問題などについて知りたいと思い、インターネットのホームページで水について検索したところ、NPO法人ネットワーク「地球村」のホームページに次のような記事を見つけました。
 「地球は水の惑星と言われていますが、98%が海水で、淡水は2%、その大部分は南極や北極の氷山などで、私たち陸上生物が利用できる水は全体の0.01%にも満たないのです。」
 地球上には、多くの生物が共存しています。もしも、地球上の水が風呂桶1杯ならば、我々生物が使える水はほんの1滴の水しかないそうです。「1滴の水。」すべての陸上生物で分かち合うべく命の水が、わずか1滴・・・。実は、現在、世界の約7億人が水不足の状況で生活しているのです。不衛生な水しか得られないために毎日4900人(年間約180万人)の子どもたちが亡くなっているそうです。
 この少ない水を分け合って生活している私たち自身に感動しました。しかし、私たち日本人が水をどれだけ無責任に使っているのかということに気付きました。世界各地で起きている水不足を引き起こしている原因の大部分は、アメリカやEC、日本などの先進国の水の大量消費にあるとも言われています。私たちの豊かな生活を支えるために水の使用量が急増したことが、最も大きな原因だそうです。今、地球の「水」は危機にあります。水を汚し、無駄に使っているのが自分だということを知らなければなりません。水を大事に使うなんて簡単なことじゃないかと、思うかもしれません。しかし私たちは、しなくてはならないと頭の中で思っているだけで、台所で油を流してしまうなど、ついやってしまい、節水することを忘れてしまうのです。節水は難しいです。
 今後、2050年に人口は90億人になると言われています。食料生産や途上国の経済発展に伴ってますます水需要が増加します。さらに、温暖化により、世界各地の雨の降り方も大きく変化し、乾燥化が進むところや洪水により、かえって飲み水などが不足する地域も出てくるということが予想されています。予測されていることを元に、防ぐことができるといいと思いました。だから、身近なものから節水を心がけたいです。私は今回、「水」について初めて知ることが多かったです。
 私たちの身近にある「水。」コップの回りにつく水滴を見て、私たち地球に住む生物が分かち合う「水」の大切さを改めて、今感じています。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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