 H28少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん |
【最優秀賞】(県知事賞)
ふるさとへの想いと私たちの未来
萩市立萩東中学校 2年 高屋 京佳
「都会で生きていきたい。都会に行ったら“ここ”ではできない、どんなことが出来るんだろう。」
旅行に行ったとき、目新しいもの、建物や人々の多さを目にすると、圧倒されることが多くあります。そして、同じ日本なのに、自分のふるさとよりも素敵に見えて、「すごい!こんなものが私の町にもあったらいいな。」と思っていました。都会の全てのことへの漠然とした憧れがありました。
私は山口県の萩市に住んでいます。萩市は高齢化が進み、人口約5万人のうち65歳以上が約2万人を占めています。「どうして萩には若い世代が少ないのだろう。」と疑問をもっていました。
たしかに、大学も限られ、就くことのできる職業の数も、農業・漁業・観光業が中心であり、決して多くありません。
正直に言うと、今の日本の若い世代は都会で自分の夢を叶えるほうがいいと考える人が多いのかもしれません。都会にはたくさんお店があるし、萩にはない職業もいっぱいある。自分の夢を叶える選択肢もたくさんあるでしょう。
私自身、眼科医という将来の夢があります。夢を叶えるには、萩から出て、医学部のある大学に行かなくてはなりません。
そんな私に、ふるさとへの想いを、大きく変える出来事がありました。
平成27年7月に「明治日本の産業革命遺産」として、萩市の五つの資産が世界遺産に登録されたのです。世界遺産の登録に向けての取組が行われていたとき、私は、まだ小学生でした。その学習の中で、今まで知らなかった萩の魅力を知ったのです。
かつて、萩は日本の産業発展の出発の土地であり、吉田松陰先生をはじめ、多くの先人達の知恵と志が、日本を変えていったのです。
私は、萩は歴史のあるふるさとだと感じました。その時、身近にあった資産の素晴らしさを改めて知りました。
また、萩は火山の関係で、土地が肥え、スイカやなす、大根など、味の良さでは定評があります。しかも、その食材を新鮮なまま食べられる幸せを感じました。
萩市の五つの遺産が世界遺産になった時、萩市の多くの人がその喜びを共有できました。そのとき、「あぁ、私は、やっぱり萩が好きなんだ。」と改めて思いました。「萩市民がうれしいことは私もうれしい。」と、多くの人たちと、喜びを分かち合いました。
今まで、外のことばかりしか見ていなくて、世界遺産の決定を聞いたときに、改めて私のふるさと萩を意識しました。萩を訪れる観光客が増えたときに、私が都会を憧れるように、外の人から見たら、萩にも魅力を感じるものが身近にあったのだと気付かされました。
私たち若い世代が、将来の志を胸に、チャレンジする心をもって都会に飛び出していくのは、決して悪いことだとは思いません。
しかし、それは自分のふるさとを誇りに思っていてこそ、意味があることだと思います。私は、例え、医師の資格を取るために、このふるさと萩から離れるようになったとしても、萩市に対する思いは忘れません。ましてや、私を育ててくれたこの町を誇りに思う気持ちは絶対に忘れません。そして、私が夢を叶えることが出来たら、またふるさと萩に戻ってきて、この町の貢献に繋がることを自ら探していきたいです。そういう気持ちを私たち若い世代が一人一人もっていかなくてはならないと感じます。そうすれば、今の日本のような都市部への人口集中も減ってくるのではないかと思います。
そして、今私が思うことがあります。「ふるさとへの感謝と誇りを忘れずに、ふるさとの想いを、私たちの未来に結びつけていきたい。」と。
【優秀賞】(県教育長賞)
私たちが住んでいる日本国内のルール
萩市立萩東中学校 2年 橋本 茉実
今年から、18歳以上の国民は投票権を得ることになりました。私たちは、日本のルールを考える政治家を選ぶ投票権という権利を、今までの先輩たちよりも2年ほど早く得ることになったわけです。
「自分は、政治のことが分からないから、投票しない。」と関心を持っていない人。
「自分1人が投票しなくても、そんなに変わらないよ。」と1票の重みが分かっていない人。
これまで、テレビのニュースや新聞記事でこうした投票権を持っている人の選挙に対する声を耳にしてきました。
私も、そうした人たちと同じで、今まで日本国内の政治について、全然分かっていないし、ニュースを見たときに、「日本の政治はこれからどうなるのだろうか。」とほんの少し思うことはあっても、自分には関係ないことのように見ていました。
しかし、自分が5年後には投票権を得ることができるようになったことで、政治のことについて、少し関心をもつようになりました。投票権って何?政治家を選ぶってどういうこと?どうやって選ぶ?いろんなことがわからなくて、家族に聞いてみました。
すると、家族もニュースで見た人たちと同じで、あまり関心がなかったことが分かり、これではいけないねという話になりました。そこで、家族みんなで考えることになりました。
まずは、今、学校で学ぶ政治や選挙のことは一体、いつ学ぶのかというところから話をしました。すると、中学校の3年生になってから学ぶことを知りました。そこで、高校生の姉が持っていた中学3年生の公民の教科書を読んでみようということになり、みんなで読んで、いろいろと話しました。
教科書には、日本の政治は人数が多い政党が中心になって、政策を考えていることや、選挙制度のことが書かれていました。教科書を読んでいくうちに、これから自分が、投票権をもつにあたって、政党や政治家が考える政策をよく知り、自分が納得できる政策を考える政党を応援していくことの大切さを感じ始めました。だから、今までの何も知らない、自分には関係がないと人ごとのように思っていた政治に対する考えでは、ダメなのだと、焦りと怖さが生まれました。
それとともに、テレビで見た人たちの「自分が投票しなくても世間は何も変わらない。だから投票には行かない。票を入れなくてもいい。」といった声。それではいけないのだと思いました。
5年後には投票権が得られます。私は、誕生日が遅いので、同級生の中では投票権を得られるのが遅いです。最初は「単純に考えてラッキーだ。」と思っていました。しかし、今は1票の重み、大切さが分かります。だから、人任せにするのではなく、少しでも早く責任をもって投票したいと思います。
私たちが住んでいる日本国内の方針、つまり政策は、政治家が決めています。その政策を決める政治家は私たち国民が決めています。その政治家に思いを託して、日本という国をより良くしていくためにも、私は、投票権を得たら、政治家の考えていることをしっかり聞いて、私が賛成できる政治家を選ぼうと思います。私は絶対に政治家を選ぶ権利を行使しようと思います。
これから選挙に行くためにも、私たちは、受け身の姿勢ではなく、政治の仕組みや政治家の考えていることをしっかり知って理解し、自分が判断することができるようにならなければなりません。私は、今まで読んでいなかった新聞や、関心がなかった政治のニュースにも興味をもち、5年後に備えて、しっかりと学んでいきます。
【優秀賞】(県民会議会長賞)
命が教えてくれたこと
周南市立熊毛中学校 3年 藤井 美紗
私の家族は両親と兄2人、姉1人、そして愛犬の6人と1匹です。私は4人兄弟の末っ子で、特に1番上の姉とは12歳差で、1番年齢の近い兄とも6歳離れています。
両親は共働きなので、姉が友達と遊ぶ時間も惜しんで、幼い私の世話をしてくれました。母が仕事で保育園の送迎が出来ない時は、学校の帰りに姉が代わりに迎えにきてくれるなど兄や姉には、小さい頃からずっとお世話になっています。
一昨年、その姉が初めて出産しました。姉は月に1度の検診が終わると、必ず私と母に赤ちゃんのエコーの写真を見せに来ました。私は4ヶ月や5ヶ月の頃の写真を見てもよくわからなくて、「何これ?どこが顔か分からんから宇宙人みたい」と言いました。すると姉は、怒ることもなく笑顔で「ここが目で、ここが鼻で」と嬉しそうに教えてくれました。私が性別を尋ねると、姉は最初「男の子がいいな」と言っていたけれど、赤ちゃんが成長していくうちに「元気な子が生まれてくれたら、それだけでいい」と言うようになりました。そして、日々大きくなるおなかで、落とした物が簡単に拾えていたのに拾えなくなるなど、出来ないことがどんどん増えていく毎日でした。しかし、不満や不安の表情より、むしろ笑顔の方が増えました。日々の何気ない動作にも我が子に対する思いやりが見て取れました。おなかをさすったり、階段や段差の上り下りにも細心の注意を払っていました。また、赤ちゃんの洋服を選ぶときも、おしゃれなデザインよりも赤ちゃんの動きやすさや肌のことを考えて選んでいました。姉の、まだ見ぬ我が子への愛おしさが日々深まっていくのを、私は間近で見ることができました。
今か今かと我が子との対面を待ちこがれる姉の気持ちとは裏腹に、予定日を1週間過ぎても産まれません。そこで強制的に陣痛を起こし、いよいよ姉の出産が始まりました。しかし、陣痛が始まってから産まれるまで4日もかかりました。その様子を間近で見ていた母に話を聞きました。不規則に襲ってくる陣痛の痛みに、泣き言ひとつ言わず必死に耐える姉の横では、夫である義理の兄が昼夜を問わず姉の腰をさすり、励まし続けていたそうです。私には、兄がまるで姉と一緒に出産を乗りこえようとしているように思えました。
4日間は姉にとっても母にとっても、とても長いものでした。母は心配と不安で、「替わってあげたい。早く痛みから解放してあげたい。」その一心だったそうです。
そんな家族みんなの不安や期待の中、やっと新しい命が誕生しました。兄は感激のあまり言葉が出ず、目には涙が溢れていました。母は姉の子供が生まれた嬉しさよりも、自分の子供である姉が4日間頑張ったことに対して、涙が止まらなかったそうです。
私はこの話を聞いたときに、生まれた赤ちゃんが姉の子供であるように、姉や私は母にとってかけがえのない大切な存在なのだと実感し、命のつながりを感じました。誰もが周囲の人の祝福を受けてこの世に生を受けた、かけがえのない命なのです。そして、親は自分以上に子供のことを大切に思って子供を育み、それを何代も繰り返し、永遠の過去の命を受け継いで、その1番先端に私が存在しているのだと思いました。
私は命が宿り、生まれ成長していく過程を身近に感じることができ、とても幸せです。私の人生の中でこの経験は、命の誕生だけにとどまらず、これからの友達や先生、家族、地域の方との関わりに大きな影響を与えました。そしていつか私が母になったとき、この経験はきっと大きな糧となるでしょう。
もうすぐ姉には2人目の子ども、私にとって3人目となる姪が誕生する予定です。新しい命に出会える日が今からとても楽しみです。
【優良賞】
小さな出会いから生まれた大きな夢
萩市立大井中学校 2年 森田 美穂
「What’s wrong?」
これは、私の運命を変えてくれた言葉です。
私には、後悔していることがひとつあります。それは、昨年の夏休みに行われた、「世界スカウトジャンボリー」でのことです。海外から来られた方々は、50名近くおられたでしょうか。いっしょに竹細工を作ったり、流しそうめんを食べたりしたことは、忘れられない思い出です。こんなにたくさんの海外から来られた方々と接することはめったにない体験です。わくわくする気持ちの反面、私は昔から初対面の人に自分から声をかけることができないところがあり、最後まで会話をすることができませんでした。積極的に話しかけている高校生たちを遠くから眺めながら、私は何もできませんでした。
あるとき、いとこのお姉さんが海外での留学について話してくれました。彼女は、カナダとオーストラリアに留学していました。
「もう一度行きたい。」
そう言う彼女の表情は、とても生き生きとしていました。彼女の話を聞いて、私は外国のことに興味が湧いてきました。けれども、その頃の私は、興味のある仕事はあっても、夢とまでは言えませんでした。自分に自信がなかったからです。
「どうせ私にできるわけないし。」
そんな言葉ばかり繰り返す私に、母は、
「私は夢をあきらめて、今でも後悔していることがあるよ。」
という話をしてくれました。私が何でもすぐにあきらめてしまっていたからです。母は、若い頃には、夢のことをあまり気にも留めていなかったそうです。だけど、最近になって
「あのとき、こうすればよかったな。」
などと思うようになったそうです。母が今になって後悔しているということを聞き、私は、
「後から後悔したくないな。」
と思うようになりました。
そんなときのことです。私の人生を変えてくれる出来事がありました。最近、萩にも世界遺産に登録された観光地があります。そこに、海外から観光に来られた方が2人いらっしゃいました。地図を広げ、困っているように見えたので、勇気を出して、
「What’s wrong?」
と、話しかけてみました。そうすると、地図で「反射炉」を指差しました。私達は、1年生の頃に「道案内」について勉強していたおかげで、教えてあげることができました。その日のうちに、このようなことが2回もあり、海外からの旅行者は日本語で「ありがとうございます。」と言って、にっこり笑って手を振ってくれました。
「ありがとう」という言葉を言われたこともうれしかったのですが、それよりも、自分の英語が相手に伝わり、分かってもらえたことが1番うれしかったです。そして、この2度の体験が私に夢を与えてくれました。
私は教科の中でも、英語と国語が得意で、好きな教科です。この二つに関わった仕事、それが「日本語教師」という仕事です。まず、夢への第一歩として、この夏、職場体験で、日本語教育の専門学校に行くことを決めました。そこで、海外の方々とのコミュニケーションや仕事内容について学び、夢の実現につなげていきたいと思っています。
小さな一つの出会いから、私はなりたいと思える仕事を見つけることができました。あのときの一言が言えなかったら、今の私はいません。後悔をするくらいなら、まず、積極的に行動してみよう。それが夢をつかむチャンスにもなると思います。「できるわけない」という一言で、挑戦することから逃げて、小さな自分が傷つかないように守ってばかりいては、何もつかめません。行動こそが希望です。新しい自分に変わっていくために。
【優良賞】
「伝える」ということ
周南市立周陽中学校 2年 須山 和奏
「そうじゃないのに…。」
今日もまた、うまく伝えることができなかった。
私は部活でキャプテンをしている。その中では、部員に指示したり注意したりする場面がたくさんある。さらに、4月に1年生が入ってきたことによって今まで以上にまとめる機会が増えたのだが、一部の人にしか伝わっていなかったり、みんなが理解していなかったりすることが多い。自分の気持ちをしっかり言っているのに、みんなにちゃんと伝わっていないのだ。そんなある日、先生から、
「キャプテンなんだから、もっとしっかりと指示を出しなさい。」
と言われた。どうして伝わらないのか分からなかった私は、先生からの言葉にとても悩んだ。なぜうまく伝えることができないのだろう。私には、何が足りていないのだろうか。
言葉は、人が相手に気持ちを伝えるためのとても大切な手段だ。しかし、簡単に思いを知らせることができるという便利な部分がある反面、ちょっと言葉を選び間違えたり、タイミングを間違えてしまうだけで、誤解を招き、相手に嫌な思いをさせてしまうこともある。
今までの自分の行動を振り返ってみると、私はいつも自分が伝えることばかり考えて、相手の状況や気持ちを理解していなかったことに気付いた。それに、指示がうまく伝わらないことに歯がゆさを感じ、言葉を選べず、厳しいことを言ってしまうこともあった。結果的に、相手を傷付けてしまっていたのだ。自分の思いを一方的に伝えるのではなく、その言葉を受け取った相手がどのような気持ちになるのか考えれば、しっかり伝えることができていたのかもしれない。
今、私のまわりには、SNSなど文字だけでのやりとりが増えている。私も利用しているのだが、顔の見えない相手との文字だけでのやりとりは、本当に難しいものだと感じている。
SNSなどでの会話では、相手の表情を知ることができない。送られてくる文章のみから相手が伝えたいことを理解するのは難しいため、勘違いからトラブルが起こってしまうことも多い。だからこそ、相手に文字を送るときには、しっかり言葉を選び、相手がどのような気持ちになるのか考える必要があると思う。
しかし、実際のSNSでの会話には、軽い言葉ばかり並んでしまっている。その場に会話の相手がいるわけではなく、表情を知ることができないからこそ、逆に油断してしまっているのだ。SNSでの会話をすることが増えてきたことによって、実際誰かと話す時にもいつの間にか軽い言葉ばかりの会話になってしまい、相手にうまく伝えることができなくなったのではないだろうか。
相手の表情や反応を見ることで、どれだけ相手に思いが伝わりやすくなるのか。相手の気持ちを考えるということが、どれだけ大切なことなのか。私たちは、そのことをあまり考えなくなってしまっていたのだろう。SNSによる影響は、思った以上に大きいものだったのだ。
「みんな、ちょっと聞いてくれる?」
しっかり言葉を選び、一人一人の表情を確かめながら指示を出した。
「はーい!」
元気な声が返ってきた。ちょっと意識して話し方を変えるだけで、ここまで上手く伝わったことが、すごく嬉しかった。
「よし。今日も頑張ろう。」
春の風が、私の頬をすがすがしくなでた。
【優良賞】
家族の「温かさ」
周南市立周陽中学校 2年 濵 陽笑
私は、重い扉を開け、祖母の所へかけ寄った。意識がなく、酸素マスクから聞こえる、呼吸の音。祖母の入院生活で家族の温かさを知った夏休みだった。
私は、いつものように部活から帰り、家でのんびりしていた。すると、母が帰ってきて「ばあちゃんが倒れたから、病院に行くよ。」と言われた。私は頭の中が混乱して真っ白になった。私が、部活から帰宅するのと同時に祖母からの電話があった。
「一人で大丈夫?何かあったら連絡してよ。」と言われた。その時から具合が悪かったのかなと病院へ向かう車内のなかで考えていた。病院に着くと、祖母は今、手術中と聞いた。待合室でたくさん考えた。大丈夫かな、早く会いたいななど、もう祖母に会えないのかなと考えると、目に涙がたまってしまった。いつもはお腹がすくのに、その時ばかりは全く食べる気になれなかった。
手術開始から約5、6時間後に医師が待合室に来て、手術の成功が報告された。私の家族は、何度もお礼を言った。私もまた祖母と話せるようになることができると思うと、とても嬉しかった。祖母は、「くも膜下出血」だった。今まで元気だった祖母からは想像のつかないことだった。
祖母は、集中治療室、ICUという所にいると聞いた。その部屋は、中学生以上が入室可能だ。でも、その日私は祖母との面会を拒んだ。祖母に会いたい反面、意識がなく、たくさんの管につながれた祖母に会う勇気がなかったからだ。私が、笑顔ではなく、心配な顔で会ったら、祖母は元気になれないなと思った。結局、その日は祖母に会うことなく帰った。
それから、何日かして私は、父と母と祖母に面会しに行った。消毒をし、マスクをつけ重い扉を開けた。意識が戻って、想像していた以上に元気な祖母がいた。祖母とは部活や学校生活について話した。酸素マスクがあってしゃべりづらそうだったが、笑顔も見られた。それからは毎日のように祖母に会いに行った。
私が祖母との時間で一番楽しかったのは、食事だった。食事をしている祖母を見ていると、日頃のつかれや悩みもふっ飛んでしまうくらいに楽しかった。今日のメニュー、何かななど話が盛り上がったことを覚えている。
それから、何週間か過ぎて祖母が集中治療室を出て、普通の病室になったと聞いたときは、自分のことのように喜んだ。今まで祖母に会えなかった、私の弟と妹も久しぶりの再会を心待ちにしていた。祖母と話しているときは時間があっという間にすぎていく。そんな日を繰り返していくうちに1ヶ月が過ぎて、祖母が退院した。家族みんなで祖母を囲んで食べた食事。こうやって家族でご飯を食べられることも改めて幸せなことなんだと思った。
私は、祖母が倒れて、より家族の温かさを感じた。毎日毎日家族とご飯を食べたり話したりできるのは、当たり前のことではないと思った。ささいなことで母と喧嘩をして口も聞かないこともあったが、母は全て私のことを思って言ってくれていると思った。私は、祖母の入院で「家族」への考え方を見つめ直すことが出来た。私を育ててくれた親やいつも優しく面倒を見てくれた、祖父母に感謝したい。そして、私が大きくなったら日頃の感謝の気持ちを込めて親孝行をしたい。今まで支えられていた自分は、支える側に変わる。今、私にできることは、学校生活や部活動のことを話して教えてあげることだと思う。そして、何より健康で過ごすことが、家族にとって一番嬉しいことだと思う。私は家族が大好きだ。これからも、家族への感謝の気持ちを忘れず一日一日を大切に過ごしていきたい。
【優良賞】
私のふるさと
周南市立熊毛中学校 3年 児玉 明香里
兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川
夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと
私は周南市の八代と言うところに住んでいます。田舎ですが、ナべヅルの越冬地でもあり、八代は有名な童謡「ふるさと」に似ています。小さいときには友達と棚田のあぜ道を走り回っていました。そして、自然豊かな八代は地域のつながりの強い、とても温かいところでもあります。
いつもの学校帰り、私はスクールバスから降り、家へ向かう緩い坂道を登っていました。ふと顔を上げると、犬の散歩中のおじさんが見えました。ご近所さんではありませんが、昔から散歩をしていると、たまにすれ違う顔見知りのおじさんです。いつもどおり挨拶をします。こっちを見上げてハアハア言っている犬にも「こんにちは」を言い「かわいいですね。」「そうじゃろ。」から会話が始まります。しばらく歩きながら話していましたが、ついには座り込んでたくさん話をしました。話題は中学校のことや最近おもしろかったことです。いつの間にかだんだん日が暮れてきて、そろそろ帰ろうというときにおじさんは「頑張りいよ。こんなおいちゃんでも、応援しちょるけえ。」と言葉をかけてくださいました。ほんの一言なのに、何だかとても勇気づけられた気がしました。
次の日、私は学校で友達にこの話をしました。すると友達は「えっ、挨拶以外の話を、しかもそんなに長い時間するの?」と目を丸くしていました。私はなぜ驚かれるのか分かりませんでした。
そんなある日こんな話を聞きました。「都会では近所にどんな人が住んでいるのか知らない人がいて、アパートやマンションでは隣の人の顔も知らない人もいる。」と。私はその時初めてなぜ友達が驚いたかが分かりました。きっと友達から見れば、地域の人としか分からないおじさんと座り込んで話をするのが不思議に思えたのだと思います。私はずっと八代で育ってきたので、すれ違った人と話をするのは当たり前になっていました。
八代はだんだん過疎化が進み、都会に比べると利便性に欠けることが山ほどあるかもしれません。しかし、ふるさと八代の人々の心の温かさは何物にも代え難い私の宝物です。
先日、熊本で大きな地震がありました。その新聞記事を読んでいて印象に残ったことがあります。それは「地域愛が助け合いの精神につながる」という言葉です。日頃から交流している地域では、互いに連携して、愛する地域のために自主的に活動したと書いてあり
ました。もし、八代に同じことが起きても私達は自分達の力で立ち上がれると思います。
今、都会で薄れている人と人とのつながり。どうすればみんなが八代のような心のつながりがもてるようになるのでしょうか。
私達の学校では昨年延べ1,500人の地域の方が学校に来られたそうです。そして学校花壇に植える苗の種まきを教えて下さったり、本の読み聞かせをして下さったりしました。
そうやって知らない地域の方とふれあううちに、私たちは地域の方とも顔見知りになっていきました。また、私が所属している吹奏楽部は、地域のお祭りなどによく出向き、演奏をさせていただいています。私はこんなふうに地域と積極的に交流することが、地域とのつながりを深め、温かい人間関係を創るのに役立つのではないかと思います。
私の夢は小学校の先生になることです。先生になって子供たちと地域をつなぎ、八代の人々から学んできた温かさや優しさを他の地域の子供たちにも伝えたいと思っています。そして、いつかまたふるさと八代に戻り、地域の方に恩返しできればと願っています。
志を果たして いつの日にか帰らん
山は青きふるさと 水は清きふるさと
【優良賞】
燃料電池の普及を願って
周南市立菊川中学校 3年 中村 優希
「燃料電池」と聞いたとき、みなさんは、どのような印象を持ちますか。新しい電池、ちょっと高価な電池、あるいは、よく知らない、という方もいるかもしれません。
「燃料電池」。これは、ただ新しいだけではなく、とてもエコロジーで、さまざまな可能性を秘めている電池なのです。
自分が燃料電池に興味を持った理由は、自分の住んでいる場所にあります。ここ山口県周南市は、石油コンビナートで有名なところであるとともに、「水素先進都市」でもあります。燃料電池は、簡単に言えば、酸素と水素を反応させて作り出せる電気を利用しているのですが、石油コンビナートで得た水素を発電に利用する、というのが、工場群が建ち並ぶこの町ならではの構想です。この構想が、自分の住む町の発展につながると思うと、胸が躍りました。
水素といえば、火と反応して爆発するなど、少し危険なイメージがあるかもしれません。しかし実は、燃えやすいガソリンよりもはるかに安全性の高い燃料なのです。
燃料電池の利用方法は、家庭用の定置用燃料電池や燃料電池自動車などにとどまらず、外国で多くとり入れられているものに、燃料電池バスがあります。開発中のものには、トラックやフォークリフト、さらには、鉄道車両や船舶などもあります。これらは、もう30年ほどもしないうちに実用化されているかもしれません。
先日、熊本で大きな地震が起きてしまいました。このことも、自分が燃料電池を叫ぶようになった一つの要因です。燃料電池は酸素と水素さえあれば発電できるので、被災時でも使用することができます。また、燃料電池自動車の中で発電した電力は外部の施設に送ることができます。たとえば、1病院で必要な電力を燃料電池自動車8台で、災害時避難所の照明や給湯200人分を燃料電池自動車1台たらずでまかなうことが期待されています。電気自動車でも同じように電気を送ることができますが、燃料電池自動車は、その約5倍の給電能力があるのです。
熊本県は、今まで大きな地震など起こるわけない、と思われていました。でも、実際には起きてしまいました。山口県も、大きな地震なんて起きないだろうと思われている県の一つです。地震に限らず、災害の少ない県です。ですが、絶対に大きな災害など起きないとは決していえません。そのような県でこそ、この燃料電池は推奨されるべきだと思っています。
自分は現在14歳。自動車運転免許証が取れるようになるのが、4年後の18歳のときです。燃料電池自動車が、ハイブリッド自動車と同じくらい普及する予定は、2025年ぐらいと言われているので、自分が車の運転を出来るようになったときに燃料電池自動車を持つことは、まず無理でしょう。けれども、無理と思ったらそれで終わり、何もできません。ほんの数年前まで燃料電池自動車なんて聞いたことも、ましてや見ることなんてなかったはずです。けれども今現在、少しずつですが、水素ステーションも増えています。もう水素や燃料電池の利用は、夢物語ではありません。
安全でエコロジーなエネルギーである水素を利活用した燃料電池。様々な使い道が考えられるこの燃料電池の、更なる成長と普及を期待しています。