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山口県青少年育成県民会議

 
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平成25年度「少年の主張コンクール山口県大会」入選作品について
2021/06/04

コンクール出場者のみなさん

【最優秀賞】(県知事賞)
手紙の力
宇部市立常盤中学校 2年 髙木 真琴
 
 引き出しの奥にあった便箋。最近は、手紙を書くことはありませんでした。携帯電話があれば友達への連絡も、「ありがとう」「ごめんね」の言葉も指先で簡単に伝えられるので、不自由なことはありません。返事もすぐに返ってきます。考えてみると、年賀状でさえ手書きの物は少なくなりました。挨拶文も住所も印刷され、手書きのメッセージが一文あればいい方です。慌ただしい年末に、心をこめる余裕もなく作業的に書いていました。
 字を書いて伝えるということがなくなっていた。そんな中、春休みに行われた子供自然体験スクールに参加しました。このスクールには、携帯電話を持って行くことは禁止されています。一週間、親や学校の友達と離れ、連絡もとれません。いつものメールもできません。ですが、不思議なことに寂しさは感じませんでした。
 スクール三日目の夜に「親子の絆」について講話がありました。指導者の若い頃の体験談です。手作りヨットで単独太平洋横断を決意し、その思いを両親へ伝えた時、大変反対されたそうです。しかし、思いは強く諦められない。お父さんとの会話もなくなり、出発の日も見送りに来てくれた両親と会話することもなく出航。ところが、お母さんからのお弁当を開けた時、二枚の紙が入っていたそうです。一枚はお母さん、そして、もう一枚はお父さんからの手紙。お父さんはただ一文書いていたそうです。「生きて帰れ」と。このわずか五文字にお父さんの愛情を強く感じたと言われました。そして、何度も読み返し、両親への感謝の気持ちと、「行ってきます。」と言わなかったことを後悔し、涙を流したそうです。
 この講話の後、一人ひとりに親や家族からの手紙を渡されました。突然の手紙に皆驚きました。暗い部屋の中で、懐中電灯の小さな灯りのもと、それぞれ家族からの手紙を読みました。皆、泣いていました。私も涙があふれて止まりませんでした。中学生になり、母とよく喧嘩をして、口をきかないことも多くなりました。そんな私に母から手紙が届くとは思ってもみませんでした。驚きました。
 そこには、スクールに参加させた母の思いが書いてありました。「転校したこともあり友達関係にとっても悩んだこの一年。学校に行くことがつらかったこともあり、いつも喧嘩ばかりしていたね。そして、じきに笑顔を見せることもなくなり、暗くなる一方だったね。だから、このキャンプでたくさんの楽しいことをして笑顔で帰ってきてね。」と私をはげますような力強い文字でした。
 私は、どうして喧嘩ばかりしていたのだろう。母の気持ちも考えずに、自分の言いたいことばかり言ってきた。それでも母は私を心配している。改めて家族の大切さを知りました。周りの友達も手紙を読んで感謝や反省をしていました。私も友達も皆涙が止まることはありませんでした。
 手紙のもつ力。手紙は素直な気持ちを与えてくれる。何度も読み返すことができる。一文字一文字に心がこもっている。手紙を書いている時、相手のことを思っている。
 「生きて帰れ」たった五文字で、お互いの気持ちがつながる。自分を振り返るチャンスを与えてくれる。
 母の手紙がなかったら、母の気持ちなど考えることもなく反抗するばかりだったことでしょう。顔を見て言いにくい時、文字が心を伝えてくれる。それは、相手のことを考えながら書き、書き間違ったら書き直すという作業の中で、気持ちが「文字」に表れるからではないでしょうか。あの日の母からの手紙がメールであれば、あれほどの感動、驚き、涙することはなかったかもしれません。毎日家事と仕事で忙しい中、手紙を書いてくれたと思うと、本当にうれしかったです。
 今でもスクールの友達と手紙の交換をしています。皆、手紙のもつ力を感じたからでしょう。小学校の友達にも手紙を書いてみました。すると、手紙で返事が戻ってきたのです。忙しい中学校生活の中でも懐かしい文字と絵が書いてありました。やはり、手紙はうれしいものです。相手の顔を思い浮かべながら郵便ポストに出す楽しみも、友達からの手紙を待ち郵便受けを見る楽しみも増えました。メールも、もちろん便利ですが、手紙という古風なのもまた一層いいものだと感じています。

【優秀賞】(県教育長賞)
理想の大人
平生町立平生中学校 1年 山本 怜花

 将来、私は設計士になるのが夢だ。「心をこめて設計をして、たくさんの笑顔に出会いたい。」「自分がたのまれた仕事は、責任をもってやりとげたい。」私は、立派な大人になりたいと思っている。
 しかし、現実には、社会の中には立派とは言えない大人が存在し、日々のニュースを見ていると、心が暗くなる出来事が起こっている。ルールを守れない無責任な大人たち。ゴミのポイ捨てをした人を私は目の前で見た。草むらに、どうどうと食べたゴミを捨て立ち去った。私たち子どもは大人の背中を見て、成長する。「ポイ捨て」という行為が、マナーに反するだけでなく、私たち子どもにどんな悪影響を与えるか、しっかりと考えてほしいと思う。
 でも、同時に、私の周りには、尊敬できる人が多くいる。中学生になった今だからこそ分かることもある。小学生の頃は、ボランティアに参加している人を見ても、そんなに深く感謝という気持ちはもたなかった。でも、今の私は、ボランティアに参加している人を見ると、感謝の気持ちでいっぱいになる。毎日、私たちの登下校を見守ってくださる方々がいる。テストの日には、「今日は、初めてのテストだね。がんばって。」と言ってくださった。私は、とてもうれしくテストにがんばって取り組むことができた。また、他の人が捨てたゴミを拾ってくれたり、歩道にはえている草をぬいてくださる近所の方々がいる。見て見ぬふりをする人もいる中で、地域をきれいにしたい、子どもを大切にしたいと思ってくださるのは、とてもすばらしく、まさに私が尊敬したい大人の人だ。私がこんな気持ちになった一つの原因は、私たちの中学校で行っている「ボランティア活動」の推進にあるのではないかと思う。私たちの学校は、「緑と花を大切にする」という心がけのもと、学校の花壇の水やりや苗植えなどを、委員会だけでなく、生徒のボランティア活動で行っている。また、地域の清掃活動や花植えの活動にも地域の方とともに、多くの中学生がボランティアとして活動する。そのような、中学校で学んでいる「ボランティア精神」「地域への感謝の気持ち」が、私に今まで見えていなかった。「立派な大人」の存在に気づかせてくれたような気がする。
 先日、あるテレビの番組で、エジプト人科学者シェリフ・エル・サフティ博士のことを知った。博士は、福島第一原発の事故から二年以上経った今も、放射線との闘いが続いている福島の人のために、自分の研究を生かし吸着剤「HOW」を開発した。この吸着剤は放射性廃棄物を減らす可能性を秘めたものだそうだ。親ぞくの反対をおし切り、自分のすべてをかけて研究に挑んだ博士の話に、私はとても感動した。『「命のための科学」………私の研究は、命を守るためにある。』という博士の言葉が深く心に残る。国境をこえ、人のためにつくそうとする姿は、私に大切なことを教えてくれた。その博士の娘は、博士と同じように、研究者の道をめざしているという。博士は尊敬できる父であり大人である。
 私にも仕事に対する姿で尊敬できる人がいる。それは、私の父だ。私の父は、責任感が強く何の仕事に対しても最後まで一生懸命に取り組む。だから、いつも夜帰ってくるのが遅い。父がいつも言っている「だれかがやらなければいけない。」という言葉が印象に残っている。自分の仕事が大変な時でも困っている人がいたら、ほっておけない。仕事中の父の顔は、とてもりりしくかっこいい。私も学級委員の仕事を責任もって行っている。大変だと思う時もあるが、やりとげた時の達成感は言葉で表すことができない。父を見習いたいと思っているからだ。
 十年後、私は社会人になっている。「尊敬できる大人」になっていたいと思う。そのために、進んでボランティア活動に参加をし、見本となる大人から多くのことを学び、日々成長していきたいと思う。そして、そのような輪を広げていける存在に私はなりたいと思う。「尊敬できる大人」が一人でも増えることで社会は確実にかわっていくと思う。今の気持ちを大切に、私にできる一歩を見つけ続けたい。

【優秀賞】(県民会議会長賞)
兄が教えてくれたこと
山口市立鴻南中学校 3年 村田 一貴

 僕には三歳年上の兄がいます。兄は生まれたときとても難産だったそうで、助産師さんがかなり強い力で引っ張り出し、ようやく無事生まれることができました。しかしそのときに肩を引っ張られたために、右手の神経が一部きれてしまいました。すぐに大阪の大きな病院で手術が行われ、その後ずっとリハビリに通ったおかげで、兄は今、ほとんど不自由なく生活することができます。でも、左手と比べると右手の握力は半分しかないし、やりにくい動きもたくさんあります。
 僕たち二人は、母がピアノの先生だったこともあり、小さい頃からずっとピアノを習っていました。コンクールにも参加し、手にハンディのない僕は、兄より多く予選を勝ち進み、全国大会にも出場することができようになっていました。その頃の僕は、勉強やスポーツ、何でも僕より勝っている兄にピアノは唯一勝てるものだと思って、毎日練習に励んでいました。
 そんなある日、同じコンクールで全国大会に進んだ僕たちは、演奏を終え、ロビーで結果を待っていました。そしてついに結果が張り出されましたが、その紙には兄の名前があるだけで、僕の名前は何度探してもどこにもありませんでした。兄は、初のアジア大会進出を決めたのです。僕は頑張っている兄の姿を一番近くで見てきました。兄の苦しい気持ちもわかっていました。でも、そのときの僕は胸が張り裂けそうなぐらい悔しい気持ちでいっぱいでした。「なぜ僕じゃないんだろう」と。
 今まで僕も精一杯練習し、努力をしてきました。でも、兄はきっとその何倍も何十倍も努力してきたのです。縄飛びや倒立、学校で行う両手を使うすべてのことを、兄は一度も右手のせいにして「できない」なんて言ったことがありません。ピアノも僕より長い時間あきらめずに練習してきたのです。そのことに気づいた僕は、自分が悔しいと思ったことが恥ずかしく思えてきました。
 僕は中学生になって、ある国際コンクールの本選に出場しました。でもそのときの僕は今までの僕と少し違った気持ちでその場に立っていました。どの人の演奏も自分よりうまく聞こえてくる中での張り詰めた空気、なんともいえない緊張感、それはいつもと変わらないものでした。けれど、その日の僕は初めて何より自分に負けたくないという思いでいっぱいだったのです。今までの練習に自信を持って、今、自分のできる最高の演奏がしたい、心からそう思いました。
 結果は入賞、ファイナル進出を決めることができました。結果を知らせると兄は電話口で、「すごい、すごい」と自分のことのように喜んでくれました。その言葉は僕にとって何より嬉しいものでした。僕はこの経験を通して、自分自身に負けないことがどれだけ大事なことか、そしてどれだけ大変なことかということを思い知ることができました。
 中学三年生になった今でも、僕は勉強、ピアノなど大変なことから逃げ出したくなることが時々あります。けれど、あのコンクールの日に感じた思いは絶対に忘れられない、忘れてはならない思っています。自分が初めて、兄にではなく、自分に勝てたと思えたあのときの気持ちを、これからも大事にしていきたいと思います。
 僕が将来、大人になったとき、頑張っている人に出会ったら、素直にその人を尊敬できる心を持っていたいと思います。そしてそんな誰かと自分を比べるのではなく、その人のように、いやその人以上に一生懸命頑張ろうと努力する自分でありたいと思います。そして僕の兄のように自分の頑張る姿が、人の心に何かを伝えられるような、そんな大人になっていたいと思います。

【優良賞】
ボランティアを通して
周南市立熊毛中学校 3年 西村 咲綾

 「おつかれさま。」私はこの言葉をもらう度地域になじんでゆく。そんな気がする。
 私たちの学校は、地域のボランティア活動が盛んだ。ボランティアに参加する機会が多く用意されていて、多くの生徒が参加している。例えば、地域の清掃活動や、地区の祭りの準備・片付けなどがある。私は、地域とかかわれるこの校風が好きだ。
 私がボランティアに参加する時、地域の方に必ず掛けていただく言葉がある。それが、「おつかれさま。」である。「あたりまえだ。」という人もいるだろうが、私には最高のプレゼントだ。
 私が参加したボランティアに、地域の夏祭りがある。この祭りでの中学生のボランティアスタッフの募集は初めての試みだということで、私たち生徒も緊張とわくわくする気持ちでいっぱいだった。夏祭りが始まるのは夕方だが、準備は朝から始まった。朝日の当たる中、ちょうちんや電球をつけたり、電線をうめたりした。いざ本番になると、会場いっぱいをうめつくすお客さんに驚きながらも、綿菓子の出来上がりを待つ小さな子供のキラキラと輝く笑顔を見ることができた。祭りの一般客ではできない、貴重な経験をすることができた。片付けも終わると、皆疲れ果て、私たちも会話が無くなる程疲れていた時、こんな声が聞こえてきた。「みなさん、明日は12時に集合でーす。」私たちは驚いた。私たちが経験しただけでも大変だった。しかも前日からも準備したりしていると聞いている。地域の方は、本当にこのお祭りの運営に尽力されていることを知った。
 私たちが帰りの支度をしている時、自治会長さんにある言葉をかけていただいた。その言葉とは、「おつかれさま。今日はありがとうね。」である。私はその時、単純に、地域の活動に貢献できた事への喜びしか感じていなかった。
 しかし、その言葉が心にずっとあたたかく残っているのだ。
 私たちの住んでいる地域は田舎で、見知らぬ通行人にあいさつしても、ほとんどの確率であいさつが返ってくるような、とても温かい土地柄だ。だから、あんなに優しく、「おつかれさま。」と言ってもらえるのではないかと思う。例えば、都会ですれ違いざまにあいさつする人などいないだろう。もしあいさつしたなら、変な目で見られるかもしれない。
 私たちの地域で受け継がれているあいさつがある。それは、「ただいま帰りました」だ。児童・生徒が地域の方にするあいさつである。この言葉は、地域で子供を育てるような、本当にいい伝統だと思う。他の地域では聞かないこのあいさつは、温かいということの象徴のように感じる。
 地域というのは、大きな家族のようだ。私たちの地域では、みんなで子供の成長を見守ってくれている。その中で育った子供が大人になって子供を産み、そしてその子供が育ち、大人になってゆく。そんな連鎖が続いていることで、自然と伝統が受け継がれていくのだと思う。
 また、この「ただいま帰りました」というあいさつには、「いつも見守ってくれていることへの感謝」も込められている。「今日も無事に帰ってきました。」という気持ちを込めなければならない。
 この言葉のように、「言葉で伝え合う」ことは、人と人とがつながり合い、距離を縮めるときになくてはならない存在であり、とても大事な道具だ。言葉で伝え合ってこそ初めて地域との深い絆が築けるのだと思う。
 ボランティアを通じて、この地域は本当に温かいということを再確認した。この良き伝統を守り、継承して、地域の和を広げていきたい。

【優良賞】
後悔
周南市立熊毛中学校 3年 中原 実乃里

 「7時20分…。」その瞬間、皆は声を上げて泣きだした。祖父が死んでしまったのだ。
涙が流れる、皆の瞳から、私の瞳から、悲しみの涙が。だが私には、もう一つの涙があった。その涙の意味がわからない。どう考えようもわからず、モヤモヤするばかりだ。
 私は安らかに眠る祖父の顔を見つめる。この涙の意味はいったい…。
 私は祖父のことがあまり好きではなかった。祖父は私に厳しかった。食事でも、態度でも、少しでも悪いことや間違ったことをしたらすぐ怒る。その度に私は部屋にこもり、泣きたくなるのを堪え唇を噛み締める。「なんで私だけ。お兄ちゃんは悪くないの?おじいちゃんだって若い頃はそうだったんじゃないの。」そう思いながら堪えきれなくなった涙を流す。「悔しい。おじいちゃんなんか嫌い。」その言葉が私の中に埋め尽くされていく。兄だって悪いことをしていたのに祖父は私にだけ厳しい。私は祖父に嫌われているのかとも思う。もう一つそう思わせるものがあった。それは、写真だ。祖父は、兄の生まれた時の写真は飾ってあったのに、私の写真は飾っていないのだ。そのことに気付いた時、私は祖父に嫌われていると確信した。それからは祖父とは話せないでいた。
 昔のことを思っていると、母が泣きながら言った。「実乃里、おじいちゃんはね、美乃里のことを一番かわいがってくれたんだよ。」と。私は信じられなかった。祖父が私を一番かわいがってくれたなんて嘘だろうと。しかし、祖父との日々を改めてふり返ると…。
 祖父は私をよく買い物に連れていってくれた。誕生日や、そうでない日も電話をしてくれ、予定がない日は、欲しい物を一緒に買いに行ってくれた。他にも、母の日の時にプレゼントを買う時も協力してくれた。母に聞いた話だが、私が学校に行かなかった時、とても心配してくれたみたいだ。祖父に対する思いこみがほどけていく。どうしてちゃんと祖父を見なかったんだろう。こんなにも私のことを考えていてくれたのに。そんな思いがあふれてくる。あんなに嫌いだと思っていたのに。死んだ後になって本当の祖父の気持ちが分かるなんて。とても悲しくなった。何度もあやまりたくなった。ごめん、ごめんと、祖父に。
 そして分かった。もう一つの涙の意味が。それは後悔だ。私は後悔していたのだ。祖父ともっと話せば良かったと。そのことが分かった途端、涙が止まらなくなった。どうして、どうしてもっと話さなかったのだろう。そう思った。祖父ともっと話していたら、祖父との日々が変わっていただろう。嫌いだと思いこまずに、もっともっと話していたら。後悔だけが胸を占める。何度も思っても変えられないし、変わらない。祖父がもう目を覚ますことはないのだ。もう一緒に笑い合うことはできないのだ。祖父の心のおくに気付けたらと今でも後悔する。だが、もう祖父が生きていた頃には戻らない。
 これからは、取り返しのつかない後悔はしないと決めた。
 祖父は最後に私にとても大切なことを教えてくれたのだ。それは人ときちんと向き合うこと。私を大切に思ってくれている人の気持ちをしっかりと受け止めること。かけがえのない命。でもその命はいつか終わってしまう。
 「実乃里、頑張れ。」今も私の心の中に聴こえてくるおじいちゃんの声。おじいちゃんの心は、私の心の中で生き続けていく。

【優良賞】
障害者に歩みよって
山口県立高森みどり中学校 3年 芝原 朋香

私と同年代の中学生の多くは、障害者についてなんて考えたことなどないでしょう。障害者といえば、「意味のわからない奇声を発するきもちの悪い人たち」としか思っていないだろうと思います。友達と一緒に歩いていてときどき障害者らしき人を見かけると、引いたような目で見るか、クスクスと笑うかのどちらかです。その様子を見ると、悲しさがないとは言いませんが、やっぱりそうだよなあ、と納得してしまうことが多いです。実際私の弟が障害者でなければ、私も他の人と同じような目で見てしまうかもしれません。
 私の弟はダウン症という障害を持っています。この特徴の一つに身体や知能の発達が他の人より遅いということがあります。私の弟はたしかに変です。四六時中声を出しているし、もう小6なのに片言の言葉しかしゃべれません。ですが、私にとっては、とてもかわいい弟です。だれにも負けないと思っています。よく、障害者を弟や妹にもつ子が自分の弟や妹を恥ずかしがって隠してしまう、というのを聞きます。ですが、私は昔からその心情が理解できませんでした。弟を恥ずかしいと思ったことなんかないし、小学生のころは逆に見せびらかしたいと思っていました。まあ、でも店の中で大声を出して走り回られたときは別でしたが。私は弟を他の子よりちょっと成長が遅いだけ、と思っています。
 そもそも「障害」とは何なのでしょうか。国語辞典で調べたら、「さまたげになること。また、さまたげになるもの。」と出てきました。さまたげ?何のさまたげになるのでしょう。社会?家庭?そんなことはないと思います。少なくとも弟が私たち家族のさまたげになっていることはありません。むしろ生きがいとなっていることのほうが多いように感じられます。自分に正直に生きている障害者から何かを学ぶこともきっとあるはずです。ですから、私は、「障害者」という言葉が好きではありません。これ以外に表せる言葉がないので使っていますが、本当ならば使いたくありません。障害者を「障害者」と定義しているのは健常者なのです。障害だと思うから障害になるのです。障害者にだって心はあります。考えだってあります。もっと障害者本人を一人の「人」として見てほしいのです。
 今、健常者に必要なのは、まず第一に「知る」ことだと思います。知らないことは理解できません。少しずつでいいのです。健常者のほうから障害者にもっと歩みよってほしいと思います。障害者はやはり一人では生きていけません。障害者は小さな子どものようなものです。できることは普通の人に比べたら少ないし、うまくはできません。そんなときはきっと人の助けが必要になります。でも、だからといって「障害者だからしょうがない」というふうにあきらめないでほしいのです。障害者にだってできることはあるし、やりたいこともあります。だから健常者は、やさしく見守ってあげて、少しだけ手を貸してあげてください。それがきっと本当の「障害者のために手をさしのべる」ということだと思うのです。
 健常者と障害者が互いに学び合いながら、かかわり合っていける社会が生まれることが私の望みです。障害者は、かわいそうな人なんかじゃありません。一度同じ目線に立ってみてください。健常者と障害者が一緒に笑いあえる場面を、これからもっと見られることを願っています。

【優良賞】
リーダーとして
周防大島町立久賀中学校 3年 中野 弘崇

 「生徒会、大変だね。」
 2年前初めて生徒会執行部に所属した時、僕は周りから言われたこの言葉の意味が分からなかった。よりよい学校を創るために精一杯頑張ろうと生徒会に入ったが、実際は与えられた仕事だけをやり、特別何をするわけでもなく、名ばかりの執行部として日々を過ごしていた。
 そんな僕を変えたのが、ある先生との出会いだ。その先生は今まで僕たちが見たこともないようなタイプの方で、ストレートにものを言い、自分が決めたことは最後まで貫く方だった。厳しい印象の方だったが、一緒に過ごすうちにやさしくユーモアに溢れる先生の一面に気づいた。他の生徒からの信頼も厚いこの先生と接していくうち、自分も人の上に立つ立場になって学校をよくしたい、みんなから信頼される人になりたいと思うようになり、僕は生徒会長にになった。
 しかし、現実はそう甘くはなかった。僕自身、生徒会長として信頼されるには、ほど遠い存在だった。僕は生徒の代表として生徒会執行部にずっと所属していたはずなのに、会議の進め方やみんなの意見を聞き、まとめることさえ知らなかった。僕は後悔した。どうして今まで真剣に仕事に取り組んでこなかったのだろう。「生徒会、大変だね」という友達の声が耳にこだました。僕は生徒会長としてというより、一人の人としての基盤ができていなかった。人はそのときだけいい格好をしようとしても無理である。日頃からきちんとしていなければ必ず見せかけのメッキは剥がれてしまう。まとまらない学校を見て僕は自分に絶望した。自分はこんなにも無力だったのかと失望した。そしてこの時から僕は学校を動かすことよりまず自分の人としての基盤を作ろうと思った。弱気にならないことはもちろん挨拶をきちんとし、掃除もまじめにやり、人がごみを捨てているところを見たら注意するなど、人としての基盤を作っていった。あたりまえのことをやるだけのことなのだが、その時の僕にはその基本的なことが必要だった。そのうち、いろんなものに対する見方や考え方が変わり、気づけば周りから信頼されるようになっていた。
 久賀中学校は給食の待ち時間に「久中タイム」という時間を設け、様々な活動を行っている。その中に合唱練習があり、生徒会が中心となって活動している。僕たちは去年の夏、全校生徒で合唱コンクールに出場した。コンクール出場は素晴らしい経験だったが、そのために行われた夏休みの猛練習は過酷で、
「もうあんな苦しい思いはしたくない」
 と、その後は合唱への取り組みに難色を示す生徒が多かった。だから僕たちがいくら一生懸命働きかけても言うことを聞いてくれなかった。だらだらとまとまりのない練習をするうち、僕もだんだん嫌になり、たまにうわべだけの注意をしては、適当にやり過ごしていた。しかし、ある時「生徒会もちゃんと歌ったら。」と冷ややかに言われた。腹立たしかったが、いい返すことができなかった。考えてみれば、こちらが一方的にいろいろ言うだけで、僕はみんなの立場になったことが一度もなかった。例えば、「今から10キロ走ってこい。」と言っても、反発されて終わりである。10キロ走るつらさがわからないとこういう言い方になってしまうが、10キロ走るつらさを知っていてみんなの気持ちが分かっていれば、「えらいかもしれんけど、頑張って走ろうやあ。」という言い方に変えることができる。僕はそのことに気づき、自分もちゃんと歌い、みんなの立場になってものを言うようになった。すると少しずつではあるが、気持ちを分かってくれる人が増えてきた。リーダーはただえらそうに指導するのではなく、みんなに指導することを自分も身を以て経験し、それから伝えることが大切だと思う。また、どんなに正論を言っても、それが周りから信用されていない人の口から出たものなら何の意味もない。
 僕はこのような経験を通して、リーダーとして必要なことをたくさん身につけていったと思う。今では生徒会長として自分なりに自信を持って行動することもできるようになってきた。そして、何よりも忘れてはならないのは周りの人の協力である。僕は僕一人の力で成長したとは思っていない。リーダーは表に出て活躍する人だが、表があれば裏がある。裏の支えによって表がより際立つ。だから僕は先生や家族、他の生徒会のメンバーなどに支えられていることに感謝している。自分が先生と会って良い影響を受けたように、自分もリーダーとして周りに良い影響を与えられる存在になりたいと思う。そして、心で動かせるリーダーになっていきたい。

【優良賞】
本物の友情
周南市立周陽中学校 2年 武藤 悠子
 
私が、今までで一番嫌な思いをした出来事が、私を良い方向へと導いてくれた。
 私は、中学生になり、ソフトテニス部に入部した。それまで、勉強でも友達関係でも、困るようなことは一切なく、順調な日々を送っていた。
 ところが、ある時、私の世界は一転したのだ。私が所属しているチームの2年生は、14名という大所帯だ。練習するにも人数が多すぎるので、二つのグループに分かれることになった。ただ人数を半々に分けるために作ったグループだったが、片方は少し華やかな雰囲気のグループ、もう片方は真面目で地味な雰囲気のグループになった。そして、私は華やかな雰囲気のグループにいて、正直なところ、もう一方のグループを見下すような気持ちをもっていた。すると、ある日、私の居場所がなくなった。グループの皆から、仲間はずれにされたのだ。急に一人ぼっちにされ悲しくつらい日々を送っていた私が、結局たどりついたのは、見下していたはずの「もう一方のグループ」だった。もともと華やかな雰囲気が好きな私にとって、そのグループは決してぴったり合うグループとは言えなかったが、その時の私には、とても温かい居場所だった。
 そのうち、私は、自分の中の変化に気づいた。「真面目にコート整備をすること」や「人の指示に従うこと」はばかばかしいと思ってきたはずなのに、逆に、やらない方が恥ずかしいと思えてきたのだ。もともと入っていたグループの人達は、友達を急に仲間はずれにしたり、面倒なことは他人に任せたりしていた。自分は、これまで、そんなグループで、「嘘の友情」を「楽しい」と思って来たのだろうか…そんな風に考えるようになった。「戻りたい」という気持ちは、もうなくなっていた。それでも、そのグループの人たちの視線や陰口が怖くて、その一方で、腹立たしい気持ちも湧いてきて、自分の気持ちを紛らわせるために、クラスメートや家族に悪口をこぼすようになった。
 そんな時だった。いつも優しい姉が言ったのだ。
「悪口だけは言っちゃいけない。自分に返って来るんだから。」
 はっとした。それから私は、どんなに腹が立っても悪口を言わず、真面目に部活に励んだ。その時初めて、仲間はずれのショックから一歩前に踏み出せたと感じた。
 自分の気持ちや行動が変わったせいか、仲間はずれにしたはずのグループのメンバーが仲直りを申し出て来た。ほかのメンバーの手前、声をかけにくかったはずなのに…と思うと、この二人の行動に救われた気がした。
 そして、これをきっかけに、14人全員で一つのグループになろうという話がもち上がった。初めは、不満をもつ人もいたし、仲良くしたいけど難しいのではないかと、私も思っていた。それでも、話し合いを重ねて、私たちは仲直りにこぎつけた。一番心をゆさぶられたのは、保育園の時からの「親友」の涙だった。私を仲間はずれにしたグループの一員だったので、一時は、彼女に裏切られたと思った。けれども、このことに心を痛め、率先して私を助けてに来てくれたのだ。私のために涙を流して皆を説得している彼女を見て、自分も頑張らないと、と思ったのだ。
 今回のことで、たくさん傷ついたし、悩んだ。でも、学んだことの方が多かった。「何事も真面目に取り組む姿勢の大切さ」「悪口を言わないこと」そして「本物の友情のありがたさ」。どれも、あたりまえのことなのに見失っていた。これからは、大切なことを見失わないように、友といっしょに頑張っていきたいと思う。



 


 

平成24年度「少年の主張コンクール山口県大会」入選作品について
2013/01/30

コンクール出場者のみなさん

 山口県青少年育成県民会議では、中学生が学校生活や日常生活を通じて日頃考えていること、同世代や大人に訴えたいことを、自分の言葉でまとめ、その意見を発表する機会を提供することにより、広く県民の皆様に少年に対する理解を深めていただき、青少年の健全育成に資することを目的として「少年の主張コンクール」を行っています。
 平成24年度の山口県大会は、「青少年育成県民のつどい」と併催し、平成24年8月25日(土)に山口市の「カリエンテ山口」(山口県婦人教育文化会館)において開催しました。
 書類選考による1次審査、2次審査を経て、8名の生徒の皆さんに発表していただきました。
 審査の結果、最優秀者1名、優秀者2名、優良者5名を次のとおり決定しましたので、作品とともに掲載します。



☆☆☆【最優秀賞】(県知事賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「特攻隊員の心を想う」
 宇部市立桃山中学校 3年 秋山 鈴翔 さん

 『お母さんへ。大元気で。でっかい奴を沈めます。』
 この短い手紙は、私が修学旅行で知覧特攻平和会館を訪れたとき、最も印象に残ったものです。若い特攻隊員の、大切な母への想いと、彼に課せられた、大きな使命感が凝縮されていて、胸がしめつけられました。彼のお母さんは、この手紙を読んだとき、いったいどんな気持ちだったのでしょうか。命と引き替えに使命を果たした、大切な息子の姿が目に浮かび、声を上げて泣いたに違いありません。そして、息子を誇らしく思う一方で、最愛の息子の「戦死」を受けとめなければいけない、という現実。戦争という非常事態の中で、皆必死に耐えていたのだと思います。
 平和会館では、隊員の笑顔の写真が目につきました。彼らはなぜ笑顔なのか、私にはどうしても分からず、とまどいました。それは死の恐怖をかき消すためなのでしょうか。しかし、一人の人間として考えれば、たとえどんな理由を付けたとしても、死は恐ろしいにちがいありません。
 語り部さんは、険しい表情でおっしゃいました。「16才から30代前半の若者の隊員は、特攻前夜、声がもれないように毛布をかぶって泣いたのです。」と。苦しみを忘れるためのお酒にも、全く酔えない者、一人になると、沈みこんでしまう者もいたそうです。
 実際に見学した三角兵舎と呼ばれている宿舎は、真ん中に通路があり、その両側に大人一人がやっと横になれる幅のスペースが、奥に続いていました。ここで過ごした人々が大空に散っていったのかと思うと、その姿が目に浮かぶようで、胸がしめつけられてたまりませんでした。そして、写真に残された笑顔とは裏腹に、彼らは己の恐怖や寂しさと必死で戦っていた、ということを思い知りました。
 展示されている手紙の文面や写真の表情は、どれもが親や愛する人が悲しまないよう、精一杯気遣ったような気がしてなりませんでした。出撃の朝、女学生たちに見送られながら歩く隊員の姿は、ごく普通の若者に見えました。数時間後にはもう、この世にいないはずなのに、そのほとんどが微笑んでいるのです。彼らだって軍人である前に人間です。本心は死にたくなかった、生きて帰りたかったにちがいありません。その苦しみや悲しみは、すさまじかったはずです。しかし、すべてを乗り越えた姿が、そこに残されていたのです。彼らの写真の中の笑顔には、死にに行く者の最後の優しさが込められているのではないでしょうか。
 出撃の朝、片道分の燃料だけを積んだ飛行機に乗る特攻隊員は、飛行機を操縦して、体当たりする訓練しかしていなかった、といいます。展示されていた特攻機を見ながら、私は思いました。機体に乗り込む瞬間、地面から足が離れるときの感覚は、彼らにとってどういうものだったのでしょう。きっと、二度と歩くことのない地面と共に、大切な親や家族とも別れる現実を実感したのではないでしょうか。
 愛する親や家族を守るため、命を散らした彼らの最後の叫びは「天皇陛下万歳」ではなく、そのほとんどが「お母さん」だったそうです。国のため、天皇陛下のために、命を捧げることが正しいことだと教え込まれた当時、戦争に行く兵士達は生きて帰ることなど考えていなかったはずです。しかし、その「国」というのは、大切な人や家族のいる国、という意味が強いのではないでしょうか。そうやって自分を納得させなければ、命を捧げることなど不可能だったにちがいありません。
 私達が平和に暮らしている日本で、過去、これほどまでに壮絶な現実があったということを、私達は決して忘れてはなりません。たとえ想像することしかできないとしても、命をかけて戦った、多くの人々の心を想うことは、戦争という悲劇を二度と繰り返さないために必要なはずです。彼ら特攻隊員に使命があったように、私達にとっては、この現実と彼らの想いを風化させないことが使命なのだ、と確信します。そして、そうすることが平和を維持し、戦争のない未来につながる第一歩だと信じています。



☆☆☆【優秀賞】(県教育長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「強い意志」
 周南市立富田中学校 3年 森國 華子 さん

 今から約1年前、東北で東日本大震災が起きました。今までにない巨大地震でたくさんの被害を受けました。私は直接の被害を受けたわけではないけれど、テレビや新聞などで目にした光景はとても悲惨なもので大きな衝撃を受けました。
 あれから約1年。今では、震災の時に被災地で発生した膨大な量のがれきの受け入れ先がなく、町の復興がなかなか順調に進まない状況だというニュースをよく聞きます。
 始めわたしはどこの地域も快くがれきを受け入れるのだと思っていましたが、実際にはそうではなく、たくさんの県や市が拒否している状態だということが分かりました。これは、がれきに含まれている放射能がとても危険で、受け入れ先の住民達が受け入れを反対しているからです。きっと、「自分たちが犠牲にならなくてもいいだろう」「どこかがきっと受け入れてくれるだろう」という人任せで自己中心的な考えからこのような状態になったのではないかと思いました。
 震災直後は、協力・助け合いなどの前向きな言葉をたくさん言っていたのに、自分たちの生活に影響があるとなると、他人事みたいになるのはとても自分勝手なことだと思います。確かに放射能は誰もが怖いし、自分の住む地域に入れたくないという気持ちは私にもありますが、ただ拒否するのではなく、状況を考えて皆が少しずつ我慢や努力をすることで、大変さを少しだけでも分かち合うことは必要だと思うし、しなければならないことなのではないでしょうか。
 私はこのニュースから二つのことをやろうと思いました。
 一つ目は人任せにしないで自分からやるということです。
 私自身も学校などの集団の中で生活していると、つい「自分くらいは・・・」という人任せな行動をしてしまいます。
 がれきの受け入れは大きなことだけれど学校生活の中にも似たようなことがたくさんあると感じました。体育のランニングの声や返事、掃除なども同じだと思います。人数が多いと頑張っている人に埋もれてしまいがちだけれど、自分をしっかりと持って、今何をすべきかを常に意識して生活していきたいと思います。一人ひとりのちょっとした気持ちで大きな力になると思うので自分から進んでやるという気持ちを持っていきたいです。
 そして一部の人だけが頑張るのではなく、全員で頑張っていける集団になりたいです。
 二つ目は、言うだけでなく行動に移すということです。
 言葉で言ったり書いたりするのは簡単なことだけど行動に移すのは難しいし大変なことです。
 目標なども掲げるまでは簡単なことだけど達成するには努力はもちろんのこと、我慢や犠牲も必要です。でも、それを強い意志を持ってやり遂げられる人になりたいです。
 昨年の震災後、全国からたくさんの温かい言葉や多くの募金や物資が送られていました。そのような全国からの支援は、被災地の人たちの生活を支えるのに、もちろん役に立ったと思いますが、でもそれは、安全なところから、自分たちの生活を犠牲にしない範囲でのほんの小さな協力であり、本当に被災地の人たちと同じ立場にたっての支援ではなかったのかもしれません。
 優しい言葉を言ったり、思いやりの気持ちを伝えたり、高い目標を掲げたりすることはすごく大切なことだと思うけれど、それを実際に行動に移してこそ、その言葉に本当の意味があると思います。
 今回の震災後のがれきの問題を考えて、あらためて自分の言葉に責任を持ち、実行できる人になりたいと強く思いました。



☆☆☆【優秀賞】(県民会議会長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「みんなの笑顔のために」
 周南市立熊毛中学校 3年 前田 敏明 さん

 3月始めに、以前からの持病であった心臓病の再発で入院した祖父は、95歳である。本人の強い意志と病院の方々のおかげで3月半ばに無事退院した。しかし、高齢で手術ができず完治したわけではないので自宅で薬での療養となった。たった半月の入院生活だったのに歩行が困難になり、ほとんど部屋で寝て過ごす毎日になった。以前の、仕事が大好きで元気一杯の祖父の姿はそこにはもうない。
 僕はそれを現実として受け止めることが難しく、ついつい素っ気ない態度を取ってしまう。心ではめちゃめちゃ心配で優しい言葉をかけたいけど、学校から帰っても部屋の外から「ただいま」と声をかけるだけである。
 ある日高校生の姉が、夜遅く部活を終えて帰ってきて「ただいま」といつものように声をかけた。すると、「今帰ったんか、えかった、よう帰って来たのう」という声が聞こえた。母が、「おじいちゃんはあなたやお姉ちゃんやお父さんが出かけた後、毎日、『早う帰って来んかのう』と言っているのよ」と話してくれた。みんなが出かけた後は心配ばかりしているようだ。最近は今話したこともすぐ忘れてしまう祖父でも、僕たち家族のことがいつも心の中にあるのだろう。だから、それからは帰ったら必ず祖父の部屋に行き、話をすることにした。何気ない一言でも祖父は嬉しそうに聞いてくれる。僕もそんな祖父の笑顔を見るとほっとして心が温かくなる。
 退院してしばらくの間、祖父は昼夜逆転と不安症が重なり、夜中に2時間おきに母を呼びマッサージをしてもらったり、昔の話をしたりして過ごしていた。母は、「久しぶりに睡眠不足実感中。あなたたちが赤ちゃんの頃の夜の授乳みたいで懐かしいなあ」と笑っていう。母は笑顔だが、かなり疲れもたまっているだろう。
 そこで僕は何かできることはないか、母が喜ぶことは何かと考え、小学校の時によくやっていた肩たたきを毎日することにした。母は気持ちよさそうに「サンキュー最高だあ」と喜んでくれる。姉は母と友達みたいに仲が良く、最近は「女同士の話ができるね」と楽しそうだ。これが姉の考える母へのストレス解消法なのだろう。介護する母の負担を少しでも軽くすることが僕たち姉弟の役目なのだ。
 一昨年の冬、倒れて入退院を繰り返し半身不随になった祖母は、現在介護施設に入所している。祖母が倒れた時、母は好きだった仕事やボランティア活動を辞め、介護する決断をした。しかし、家での介護は限界があり、家族で話し合って祖母の一番納得する方法として、新設される施設の開所を待ってそこに入所した。自宅では食欲もなく、毎日の入浴も困難な祖母だったが、今では親切な介護士さんたちのおかげで、1日3食とおやつまで食べられるまでに回復した。寝たきりだけど、僕たちが会いに行くといつもきれいな洋服を着て何か話したそうに微笑んでいる。帰り際、必ず力の入る左手で握手をする。帰りの車中で父が「いろんな人達にお世話になって、ありがたいね」とつぶやいた。
 少子高齢化社会が進み、介護は誰にとっても身近な問題になっている。誰もが介護される側になる可能性がある。だからこそ誰か一人に負担を押しつけるのではなく、家族それぞれが互いの立場を思いやり、支え合うことが大切だと思う。しかし、介護の問題を家族だけで解決するには限界がある。だから、家庭の中だけでなく共に生きる社会の人たちみんながお互い助け合い、支え合うという気持ちをもてば、この問題は解決でき、明るい社会が実現できるのではないだろうか。
 これからの時代をつくるのは、僕たち若者だ。祖父母や両親がいつも笑顔でいられるような社会を目指し、これから僕は自分にできることからやっていきたい。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「私のふるさと」
 阿武町立福賀中学校 3年 玉島 愛 さん

 私の住んでいる町にはコンビニやゲームセンターなどというものは一切ありません。車もめったに通らず、信号も、歩道橋もありません。とても不便な所です。しかし、そのかわりに豊かな自然環境と私たちを温かく見守ってくださる地域の方々がいらっしゃいます。私たちにとって地域の方々は家族同然で、とても大切な存在です。
 学校生活の中でも、地域の方々の存在はとても大きいです。とくに地域の方々が残してくださった福賀の伝統、神楽舞は私たちにとって大切なおくりものです。だからこそこの伝統をこれからも守り続けていくのが私たちの役目だと思っています。また、校内の清掃活動や神楽舞指導などいろいろな場面で協力していただいています。私たちは、運動会で元気な姿を見ていただいたり、学校祭で感謝の気持ちを伝えたりしながら少しずつ恩返しをしています。このように私たちにとって地域の方々はなくてはならない存在となっているわけです。
 ですが、地域とのつながりが深いわけがほかにもあります。それは、私たちのふるさと福賀に問題点があるからということも考えられるのです。
 私たちにとってとても大切な地域の方々、その多くはお年寄りがほとんどです。その上、子どもの数は年々少なくなっています。そのため、地域の方々の協力なしではできないことがたくさんあることも事実なのです。
 若い人たちが福賀を離れてしまうのは高校、大学、就職などたくさんのことが重なってしまうからだと思います。どれだけ福賀を思っていても、自分の夢によっては離れなければいけないときだってあるのです。
 そういう私も今年受験生で、その節目にあたります。しかし、福賀を離れても、きっと福賀のことは忘れないだろうし、いつかまた帰ってくるときがくると思います。
 問題点があるのはもちろんよくないことですし、ないにこしたことはありません。しかし、その問題点を痛切に感じる心を持った人々が多いからこそ、地域とのつながりが深くなっていると思います。大変だからこそ協力しようと思えるのだと地域の方々の優しさに触れながら感じます。
 それだけ地域のことを思っている私たちのほとんどは福賀以外のところから引っ越してきています。私もその中の一人です。最初は地域との強いつながりに疑問をもつかもしれませんが、生徒のみんなと地域の方々とたくさんの経験をすることによって徐々にそのつながりが当たり前になっていき、自分の「ふるさと」になっていくんだと思います。そうやって自分のふるさとを見つけていってほしいのです。
 先程も述べましたが、私の通っている学校の生徒数はとても少ないです。その分、一人に対する負担は相当なものです。でも、逆にいえば、それだけ一人一人がたくさんの経験を積めるのだと考えます。私も福賀に来てたくさんの挑戦をしました。今思えば簡単なことでも、あのころの自分にとってはとても勇気のいることでした。それをのりこえ少しずつ成長してきたんだなと思います。福賀にいると新たな自分を発見できたり、自分が変わったりするのかもしれません。
 私は福賀に来てたくさんの体験をしました。そして、たくさんの人に出会いました。本当に感謝しています。みなさんには自分のふるさとがありますか。みなさんにもそんな自分だけのふるさとを見つけてほしいのです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「理解しあえるって」
 周南市立和田中学校 3年 村上 知花 さん

 私が今、この社会で足りていないと思うこと、それは「世代の違う人同士のコミュニケーション」です。
 去年の秋、私は中学校の職場体験で周南市役所にお世話になりました。3日間体験させて頂いた中で、特に印象に残ったのは3日目の午前中の受付での体験です。当日は、悪天候だったこともあり、来客がまばらでした。そこで、受付で私を担当してくださった方と私が、会話をする場合が多くありました。人見知りの私は、顔をひきつらせながらも、うなずきながら、時に真剣な面持ちで、その方と会話をしました。
 その方には、当時中学1年生の娘さんがいたようですが、口数が少なく、学校で何をしているのか、何を考えているのかも分からなかったようです。そこで、ちょうど同じ年頃の私に「今の中学校はどうなっているのか。」という、とても、気になっていたことを話しかけてこられたのです。私は、娘さんの代わりに?たくさん質問をされました。
 まず、先輩とは仲よくできるものなのか?という話。その方の中学時代は、上下関係がとても厳しかったらしく、「うちの弱々しい娘じゃあ、耐えられないかもしれない。」と心配されていました。私は、「そんなことはないと思いますよ。」と答えました。なぜなら、当時の私は2年生だったにも関わらず、先輩にいたずらをしかけたり、ちょっかいを出したりしていたからです。また、その方の娘さんが通っている学校に友人がいたので、その友人との話も交えて、やさしい先輩も多いから大丈夫だと思いますと話すと、その方は安心していらっしゃいました。
 次に尋ねられたのは、今の子供は何を考えているのかということでした。これはちょっと難しい質問です。「私はゲームやパソコン、本やテレビのことばかり考えていますが、周りの友達は、いろいろ。アイドルや漫画。アニメやファッション。あらゆることに興味があるらしいです。」と答えると、「やっぱりねえ。」とニコニコ笑っていらっしゃいました。
 少しの沈黙の後、その方は聞きづらそうに「勉強は?」と尋ねられました。ちょっと私もあせって、「それなりには・・・。」と答えました。勉強については、当時、2年生になって感じていたこと、高校のこと、テストのこと、成績のことなどを話しました。受付の方はやや驚かれた感じで私の話を聞いていたようでした。今の子はゆとり教育で、のんびりして不真面目だと思い込んでいたそうです。
 最後に質問されたのは、「親をどう思っているのか?」ということでした。その方の娘さんは、最近言うことを素直に聞いてくれなくなっていたそうで、「口ごたえにとても腹が立つ。」とおっしゃっていました。その言葉に私は背筋が凍るような思いがしました。娘さんと私はまったく同じだったのです。受付の方が私の母に見えた気がして、ぞっとしました。
 私が親に対して思っていることって・・・。口ごたえする時って・・・。その原因でよくあるのは、『理解してくれないこと』なのかなあとなんとなく思い浮かべました。親をはじめとして大人は「若い者の言うことなんぞ、聞いてたまるか!」といわんばかりに私たちの言動を戒めます。たとえこちらが正しかったとしても、その非を認めません。そして、私がその正当性を主張しようとすると、「口ごたえするな。」のひと言で抑えつけます。その言葉を聞いた瞬間、「どうせ、理解してくれないし、そのつもりもないんだ。」と悲しい気持ちになります。と、受付の方に思っていることを打ち明けると、少し黙りこんだ後で、「そっかぁ・・・。」とつぶやかれていらっしゃいました。「大人には大人の思いがあるんだけどねえ。」とぽつりとこぼされてもいました。
 この日、私はたくさんのことを知り、いろいろなことを考えました。親は子のことを常に考えていること。大人が子供だった頃と今はかなり違っているということ。大人と子供で、誤解や偏見がたくさんあること。そして、大人は子供のことをなんとかして理解しようとしてくれていること。
 世代が違えば、暮らしや社会、価値観は当然違ってきます。互いに疎外感を感じたり、拒絶しあったりすることもあると思います。その食い違いをなくすために大切なことは、コミュニケーションです。もっとも簡単なのは、「話す」ことです。まずは、家庭で、なんてことないことでも、親子で話すこと。次は地域の中で、同じ場所で暮らす人たちが、祭りや作業で語りあうこと。それがだんだん大きく広がりをもっていけば、社会に世界に人のつながりが広がり、過ごしやすく、明るく、楽しい世界になると思います。まずは、互いに会話をすることがきっかけです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「大切な人たちについて」
 周南市立須々万中学校 3年 藤田 綾美 さん

 私は小学生のとき、いじめにあったことがあります。話しかけても無視され、一人ぼっちになりました。いじめられている、ということをだれかに話すことはできませんでした。一人のときに泣く、というのでたえていたのを覚えています。
 そんなとき、やっぱり母が気付いてくれました。そのいじめはスポ少でされていたので、母に「やめる?」と聞かれました。でも、仲良く笑っていた時の友達が忘れられず、「やめる」とは言えませんでした。そんな私に母が「頑張れるなら頑張りなさい。」と背中を押してくれました。
 私は今、友達と仲良く過ごせています。でも、母の支えがなければ、私は逃げていたと思います。だから、今、つらいこと、苦しいことがある人は、一番近くにいる家族が支えてくれている、ということを忘れないでほしいです。家族は自分のことを大切に思ってくれています。私はそのことを一生忘れず、過ごしていきたいです。
 では、私が家族にしてあげられることは何だろう、と考えたときやっぱり家族が私にしてくれたように私も家族を支えてあげたいなと思いました。だれかが苦しんでいたり悩んでいたりしたら、味方になって、一番近くで見守って支えてあげたいです。
 そして、もう一つあります。それは夢を応援することです。私の家族はみんな夢を持っています。その夢を追いかけていくなかで、必ず、もうやめようかなとあきらめてしまいそうになることがあります。そのとき、母が私にしてくれたように今度は私が背中を押してあげたいなと思います。ほんの小さなことでも、その人がまた頑張ろうと思えるきっかけを作ってあげたいです。
 私の大切な存在の一つに友達があります。私はいじめにあってから、やっぱり友達や周りの人たちに遠慮というか心を開くことができませんでした。いつもニコニコして、相手の顔を見て行動する、いやなことでも断れない、そんな学校生活を送っていました。
 でも、中学2年生の初めごろくらいから、やっと心を開くことができました。それは、今までも仲良くしてくれていた友達でしたが、一緒にいるうちにその子はいっつもまっすぐで、本当の自分で私と接してくれていると思いました。それなのに、私が本当の自分でぶつからなくてどうするの、と自分に言い聞かせ、少しずつ本当の自分で相手と接することができるようになりました。今では、自分らしく周りの人たちとも向き合うことができています。いつわりの自分で接すると、いつわりの笑顔になってしまうと思います。だから、私は本当の自分で心から笑顔で笑うことができます。私にとって友達はとても大切な人たちです。
 私達にはこれからいろいろな出来事があるし、高校生になると友達と離ればなれになってしまいます。でも、どんなことがあっても、いくら離ればなれになってしまっても、私は変わらず本当の自分でみんなに接したいです。面と向かって伝えるのは難しいので、これが、精一杯の感謝を伝える方法だと私は思います。
 私は家族や友達はいるのがあたり前だと思っていましたが、一人になってしまうさみしさやつらさを味わいました。でも、今ではいじめという経験は悪いことばかりではないと思っています。確かに、それは本当につらいことだったけれど、家族がいてくれることのありがたさや自分を認めてくれる友達の存在など、私が今まで気付くことのできなかったことを教えてくれました。そして、何より人の傷みが分かることのできる人間になれたかな、と思います。そういうところでは本当に私は成長することができました。だから今、つらく苦しいことがある人も逃げず、家族や友達の支えがあることを心にとめて乗りこえていってほしいです。そして、自分にとって一番大切な人は一番近くにいるということをたくさんの人に知ってもらえたらいいです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「結ぶ」
 萩市立大井中学校 3年 久保田 結衣 さん

 結衣。この名前は、父と母の絆を意味する、両親がつけてくれた、大切な名前です。
 私は中1の頃、バレーが好きではありませんでした。場の雰囲気に流されてバレー部に入ったのはいいものの、硬いボールは痛くて腕は黒いあざがいつもできていました。最初は何も分からなくて、何度も注意されて辛いことばかりの毎日でした。ただがむしゃらにボールを追いかけて、走って疲れて、家に帰るとそのまま寝て、起きると朝、の繰り返しでした。平日は2時間、休日は3時間の練習で、「いつ終わるんだろう。」と、頭の中はその言葉でいっぱいでした。
 先輩が引退してから、私達だけで後輩を引っ張っていくことになり、私はセッターでいられるように、日々の練習を頑張りました。だけど、どこか心の中で、気の緩みがあったのかもしれません。私は足首を痛めて、練習が何日かできなくなりました。
 新メンバーになってから、みんなの練習を初めて外から見た時でした。みんなは一生懸命に一つのボールを追いかけて、転がって痛いのにすぐに立ち上がり、コートに戻って仲間のプレーをカバーし合っていました。そして、何よりすごく楽しそうでした。私は今までなぜこんなに楽しそうなバレーを、辛くて嫌なものだと決めつけていたのでしょうか。そう思っていた自分が不思議で、バカだったと思いました。みんなと一緒に、あの中でバレーがしたくて仕方がありませんでした。
 私は怪我が治ってから、少しずつ大切に練習を積み重ねていきました。みんなはそれぞれもっている力を磨いていきながら、チームの支えになっていきます。一つ学年が上がり、私達に後輩という存在ができると同時に、ライバルという存在が現れました。運動神経のいい後輩、トスの上手い同級生の二人です。セッターは、コートの中で唯一の私の居場所です。しかし、私はセッターとしてトスを上げなければならないのに、いつも肝心なときにできなくて、練習や試合を重ねていく度にだんだん不安が生まれてきました。「もっと練習して上手くなってやる。」という気持ちと同時に、「もしかしたらセッターが出来なくなってしまうかもしれない。」という焦る気持ちでいっぱいになりました。
 そんな中、ある試合の夜、バレー部の同級生で集まってバレーについて語った時です。「結衣がセッターでいると任せられる。」「安心できる。」ということを聞きました。私は一瞬止まってしまい、だんだん涙があふれてきました。私は、みんなと向き合い、声をかけ、チームを支える立場でありながら、どんなに良いレシーブが来ても確実にアタッカーが打ちやすいトスで上げることができない、重荷でしかないと思っていました。それを言ってくれた本人にとっては何気ない一言だったかもしれません。でも、私はその言葉を聞いて、私にも誰かを支えられたことがあったのだと、自信につながりました。今、私はセッターとしての誇りと、仲間たちに支えられながらバレーができることにすごく幸せを感じています。いつも真面目で手を抜かず頑張っているキャプテン。私のトスに合わせて打って、ナイストスと笑ってくれるアタッカー。セッターの所までコートを駆け回って上げてくれるリベロ。場の雰囲気を変え、笑顔にさせてくれるピンチアタッカー。そして、未経験者の私達を一から育て、導き、叱って下さる先生。
 私は多くの人の支えで今の自分がいるのだと思います。結衣。この名前のように、一人ひとりが今の私まで結び、つなげ、支えてくれているのです。決して誰一人として欠けてはいけない存在なのです。辛いことも壁にぶつかることもあるけれど、バレーと出会い、仲間と出会い、このチームでバレーが出来たことは、私の一生の宝です。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「いじめられてる?いじめてる?」
 平生町立平生中学校 2年 木村 友美 さん

 「人間関係は難しい。」私はある体験から、このようなことを思いました。私は、自分の「真面目」「思ったことを口にする」このような性格を長所だと思っていました。しかし、私が大切なことと思い注意したことから、ある友達と仲が悪くなってしまいました。今では、その友達とは仲良くなっていますが、一時は、無視をされ、とても悲しい思いをしました。その時、最後まで話を聞いてくれたのが家族でした。自分の様子がいつもと違うことに気づき、話を聞き、アドバイスをくれ、学校の先生へも相談してくれました。その家族のサポートがあって、私は楽しい日常をとりもどしました。このようなことから、私は家族のありがたさを感じました。また、困った時には、自分達で努力をすると同時に、大人、親や学校の先生の力をかりることも必要だと実感しました。また、外からは気づきにくい精神的ないじめは、本人が助けを求めない限り気づきにくいと思います。私の場合、いつもとちがう口調や言葉、態度で両親が「何かあったの」と話を聞いてくれました。つらくなった時、話ができる家族がいることが助けになったと思います。そして、学校の先生にも、そんな時、大きな力になってほしいと思います。
 いじめの根絶が不可能な事だとしたら、病気の治療といっしょで、早期発見、早期治療ができるといいと思います。早期発見するには、日頃からの会話、そして、私達子供に向き合い信用してくれる大人が必要です。私達子供も、いじめられていると感じた時、大人に話す勇気をもたなければいけません。早期治療をするには、いじめられているという子を否定するのではなく何が一番つらいか、どうしたら楽になるのか、解決法を話し合って欲しいと思います。また、心ないいじめをしている子には、悪いことは悪い、間違っているよとみんなで教えていかなければならないと思います。私もこれからは、自分から話しかけて嫌な事や、やめて欲しい事を伝える勇気をもって前へ進んでいきたいと思います。
 次に、今回の体験をもとに、「言葉」について考えました。私達の中学校では、先日、広島平和学習を行い、原爆の体験をされた方からお話を聞く機会がありました。その方のお話から戦争のおろかさや平和の素晴らしさ、そして、命の大切さなど多くのことを学びました。それらのお話の一番最後に、その方が話された内容が「言葉の大切さ」です。「言葉には魂がある」「言葉で言ったことは本当になる」そういう力が言葉にはある。だからこそ、私達人間は言葉を大切にしていかなければならない。このようなお話でした。その語り部の方のお話を聞いて、本当にそうだと思いました。私達は日頃、何気なく話をし、言葉を使っていますが、その中には美しい言葉、思いやりのある言葉も多々あります。しかし、それと同時に考えずに出てきた一言の中には、冷たい言葉、相手を傷つける言葉もあります。人と人とのコミュニケーションの基本は「言葉」です。今回の体験をもとに私は「人間関係」は難しいと感じましたが、その基本となる「言葉」を大切にできる人になりたいと思います。これから私は、いろいろな体験を通し、大人になりますが、『人のことを思いやる』『言葉を大切に出来る』大人になりたいと思います。
 そのためには、やはり、私達子供から言葉づかいや、いじめられているかもしれないという不安、これはいじめているのだろうかという気持ちを勇気をもって大人に伝えることが大切だと思います。また、大人は勇気をもち、思いを伝えてきた子供の気持ちをしっかりと受け止め、理解し、いっしょに解決法をさがしていくことが大切なのではないでしょうか。


 

☆平成23年度「少年の主張コンクール」山口県大会の入選作品について
2012/05/07

コンクール出場者のみなさん

 山口県青少年育成県民会議では、中学生が学校生活や日常生活を通じて日頃考えていること、同世代や大人に訴えたいことを、自分の言葉でまとめ、その意見を発表する機会を提供することにより、広く県民の皆様に少年に対する理解を深めていただき、青少年の健全育成に資することを目的として「少年の主張コンクール」を行っています。
 平成23年度の山口県大会は、平成23年7月16日(土)に山口市の山口県総合保健会館において、「家庭の日」講演会と一緒に開催しました。
 書類選考による1次審査、2次審査を通過した8名の生徒の皆さんに発表していただきました。
 審査の結果、最優秀者1名、優秀者2名、優良者5名を次のとおり決定しましたので、作品とともに掲載します。



☆☆☆【最優秀賞】(県知事賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「私たちに出来ること」
 柳井市立柳井西中学校 3年 河村 蘭 さん

 3月11日といえば、日本人の誰もが、あの恐ろしい出来事を思い浮かべる事でしょう。
そう、東日本大震災です。いつも私たちを守り、育んできた大自然が、急にキバを向き、容赦なく、東日本を襲ってきたのです。
 あの日の午後、私は学校から帰ってきて、いつものようにテレビをつけました。すると、その途端、今までに見た事もないような、地震や津波の悲惨な映像が目に飛びこんできました。(これは本当に、今、日本で起こっている事なの・・・?)と、あ然としてしまいました。流されていく人や物、それに向かって泣き叫ぶ人々・・・まるで映画のワンシーンを見ているかのようでした。連日のニュースで流される、東日本の悲惨な状況に、心は痛み、何度も目をそむけたくなりました。
 でも、日本国民としてこの事実から逃げてはいけないと感じ、テレビやインターネットを通し、なるべく正確な情報をつかもうと努力しました。すると、震災直後は悲惨な映像だけが目につきましたが、しばらくすると、人と人が思いやり、助け合う、そんな心温まる映像も見かけるようになってきました。その中でも、最も印象的だったのは、私と同じ中学生が、自分も被害にあっているにも関わらず、炊きだしや親を失った子供の世話などのボランティア活動を、笑顔で行っている姿でした。それを見て私は「この東日本大震災を、テレビの向こう側の出来事として考えてもいいのだろうか、こんな風に頑張ってる人がいるのに、何もしなくていいのだろうか。」と、いてもたってもいられなくなり、実践できるいくつかの事を、実行に移す事にしました。
 まずは、学校募金や街頭募金に、積極的に参加しました。買い物などに行った際、ほしい物を一つ、我慢して、そのお金を募金にまわすなどの工夫もしました。そして、部屋やテレビの電気のつけっぱなしをやめ、こまめに消すなどの節電を心がけました。こうして、私が取り組んだささやかな行動は、東京電力が行った計画停電や、ある企業が贈った百億円という莫大な募金に比べれば、ほんのわずかな事なのでしょう。でも国民一人一人がそれらを行うと、どうなるでしょうか。やがて大きな力となり、日本が変わっていくのではないのでしょうか。
 さらに私は、節電や募金以外にも、もう一つある行動を起こしました。それは、学年全体による合唱です。私たち柳井西中学校の3年生は、寺井さんという方が被災者のために作られた「つながっているよ」という曲を、4部合唱で歌いました。歌詞の中の「つながっているよ心と心は」という言葉に、私はとても共感しました。性別や年齢、国籍などは関係なく、同じ一人の人間として、助け合い、思いやる―そんな心のつながりが、今の日本を支えている事を、この合唱を通して学ぶ事が出来ました。実際に被災地に行って、直接に援助は出来ないけれど、遠く離れた山口県にいても、同じ日本人として、共に悩み、そして励ましていきたいという思いで、この合唱に取り組みました。
 ふとした瞬間、思う事があります。それは、私がこうしてテレビを見て笑っている時、いったいどれだけの人が苦しみ、不安になっているのだろう―こうしてお腹いっぱいになっている時、いったいどれだけの人がお腹をすかせているのだろう―そんな、とりとめのない事です。電気があって食べ物がある。当たり前の事のようで、当たり前ではない。とても幸せな事なのだという事が、今回の大震災で本当によく分かりました。
 この東日本大震災で亡くなった人は、行方不明者をふくめ2万人以上にのぼるといわれています。その方々の、もっと生きたくても生きられなかった想いを考えると胸がはりさけそうになります。残念ながら現代の日本には、自分の命を粗末にあつかう人が少なくないのが現状です。実際、1年間で、自ら命をたつ人の数は、震災での死者を上回る3万人といわれています。この事実は、私に命の重さについて一歩深く考えさせてくれました。
 今回の震災で、互いに想い助け合う日本人の姿は、世界の人々に大きな感動を与えました。略奪等の暴動もなく、むしろ相手の事を考え、必死に行動する姿は、同じ日本人として誇らしく思えました。この日本人の良さを引き継いでいく事が、若い世代の私たちの使命だと感じました。
 東日本大震災が私に教えてくれたことは、「命の重さ」「小さな事でも、実行にうつす事の大切さ」そして「日本人としての誇りを忘れない事」です。それらを、自分の立場で実践できた時、本当の意味の「日本の復興」に貢献した事になるのではないでしょうか。



☆☆☆【優秀賞】(県教育長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「すべての人の普通へ」
 防府市立右田中学校 3年 木戸 寛捺 さん

 普通とはなんでしょうか。『普通』という言葉を聞く度に、いつも思います。普通、ふつう、フツウ。普通とは一体なんでしょうか。
 普通という言葉を耳にします。そういう時、それは他と比べたときにあまり変わらないという意味で使われています。私はそこで思います。ある人が普通さ、と話し始めた。その時に、その人の話す事柄が果たしてすべての人にとって『普通』と言えるでしょうか。
 私は友達が普通と思っていることが私にとって普通ではない、ということをよく体験します。例えば、味付けです。給食を食べていて、友達が
「これ、辛すぎるね。」
と言っても、私にはそれが普通に感じられることがあります。その味付けは私にとっては普通だったのですが、友達にとっては普通とは違う味付けだったのです。
 このような体験の一つに父が障碍をもっていることに関連することがあります。私の父は、目が見えません。耳も、よく聞こえません。だから、それについて普段から配慮をします。ドアはきちんと閉めるか全部開けるかで、中途半端にはあけない。床には物を出来るだけ置かない。父が使うものは決まった位置におく。大きな声でゆっくり話す。そのようなことを意識的にします。それが、私にとって普通だからです。でもそれを私が友達に普通さ、と話したら、納得する人がどれだけいるか分かりません。この私の普通は、多くの人の普通とは異なるのです。だからといってどちらかの普通は間違いで、どちらかの普通は正しいということもありません。ただ、価値観が違うだけなのです。
 しかし、障碍のある人への普通が本当にそれでいいのでしょうか。
 バリアフリーということが言われます。障碍のある人や高齢者が、一般社会の中で安全・快適に暮らせるよう、身体的、精神的、そして社会的なバリアを取り除こうという考え方です。私の中学校の体育館は、数年前に建て替わりました。だから、車椅子用のスロープがついています。バリアフリーです。ですが、よく見るとそれが本当の意味でバリアフリーではないことに気がつきます。スロープの先には清掃道具入れやモップ立て、傘立てなどがあるのです。今、スロープを利用する人がいない私の学校ではそれでいいのかもしれません。
 では、車椅子の人が学校に来て体育館に入ろうとする。するとスロープがあり、『良かった。』と思ってのぼっていったら置いてあるもののせいで入れない。それでもいいのでしょうか。障碍のある方が不便な思いをするバリアフリーが『普通』でいいのでしょうか。私はダメだと思います。
 障碍のある方が安全・快適なバリアフリーに必要なことは二つ。一つは物理的なバリアを取り除くこと。そのためには段差をなくすスロープなどが必要です。しかし、そこでスロープの上に物を置いてしまっては意味がありません。ここで、心のバリアを取り除くことが必要となります。自分達のことだけを見るのではなく、障碍のある方の立場に立って考えてみましょう。そうすれば、おのずと本当の意味でのバリアフリーが完成するはずです。
 そして、私はこのようにわざわざ考えるのではなく、障碍のある人への気配りがごく普通にできる世界になってほしいと思います。人と価値観の違うことは確かにあります。ですが、障碍のある方への気配りはすべての人にとって『特別なこと』ではなく『普通なこと』であってほしいのです。
 普通とはなんでしょうか。私は答えます。普通とは、全ての人が考えずとも自然に思えることであると。



☆☆☆【優秀賞】(県民会議会長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「今、伝えたい大切なこと」
 周南市立須々万中学校 3年 山本 雪乃 さん

 「人間は一人では生きていけない」
この言葉は私の母がよく口にします。小さいころのわたしにはその言葉を理解することができず、人は一人で生きているのだ思い込んでいました。しかし、大きくなるに従ってその言葉の意味が分かってきた気がします。そのことを一番わたしに教えてくれた入院生活でした。
 わたしは中学校2年生のときに入院しました。学校で急にお腹が痛くなり、父につれられてそのまま病院へ。生まれてから大きなけがや病気をしたことがなかったわたしは、とても不安でした。その日は姉の受験日で母と姉がそばにいてくれなかったこともあると思います。しかし、母はわたしが入院したと聞くと、すぐに病院にかけつけてくれました。母がいうには、姉が「早く行ってあげて。」と言ってくれたそうです。姉も初めて行く場所で受験だったので、不安でいっぱいだっただろうにな・・・と思うと胸があつくなりました。入院中、わたしが病室にひとりきりになることは一度もありませんでした。父と母が毎日交代ごう代に来てくれたからです。また検査のときにはずっと姉がそばにいてくれました。このとき素直に感謝の気持ちを伝えることは恥ずかしくてできませんでしたが、家族のありがたみが心にしみました。看護師さんや担当の先生も、院内で出会うたびに笑顔でやさしい言葉をかけてくださり、わたしが元気になっていく姿を見て、我が子のことのように心から喜んでくださいました。家族も含め、みなさんの支えがあったからこそ頑張ることができたと思います。1ヶ月という短い期間でしたが、たくさんの人と話し、ふれ合うことによって、「家族」や「仲間」というとても大切なことを学ぶことができました。
 わたしは「仲間」の原点となるのは「家族」だと思います。「家族」は一生離れることはありません。無理なことや、わがままなことを言っても取り返しが聞くし、許してもらえます。だから、家族がいることが当たり前となってきています。けれど本当にあるべき姿は、お互いが足りないところを補い合い、助け合うものだと思います。思春期になると「家族なんか・・・」と思ってしまいがちです。しかし、絶対に一人で生きているという考えは持たないでほしいです。普通に日々の生活を送れているのは、「家族」という仲間が自分を支えてくれているからなのです。それは家族だけではありません。学校で楽しく過ごせるのは「クラス・学年」の仲間が、地域で何不自由なく過ごせるのは、地域の仲間がわたしたちを支え、受け入れてくれているから。
 こうしたかけがえのない仲間が自分の周りにいることに気付き、大切にすることができれば、楽しい日々を送ることができると思います。
 今、日本は震災により、「自分は一人になってしまった」という思いの人もいると思います。確かに、被災地に行って話しをしたり直接手をさしのべるということは困難です。
 しかし、わたしたちも同じ人間で、同じ日本に住んでいる「仲間」なのです。募金をつのったり寄付をしたりして、仲間を支えようと必死に頑張っています。一人の力はたかが知れていますが、わたしたちには、たくさんの仲間がいます。このことが被災地の方に届くといいなと思います。
 そして、これからは、わたしが「人間は一人では生きていけない」という言葉を大切にして、少しでも多くの人に「家族」そして、「仲間」のありがたさを伝えていきたいです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「この町だからこそ知ることができた」
 阿武町立福賀中学校 3年 石川 真理奈 さん

 この町で育ってもう少しで15年が経とうとしています。私が今暮らしている所は、とても田舎で信号機もなく、お店もあまりないので不便な事もたくさんあります。ですが、とても自然豊で地域の方々も温かく、私はこの町が大好きです。ここで育ったからこそ体験出来た事、学んだ事がたくさんあります。その中で、私が一番誇りに思うのは、伝統のつながりです。私達の学校では、神楽、鯉のぼり立てといった伝統的な行事が多いです。
 神楽という伝統芸能は、20数年前から続いています。大蛇、四神という二つの演目があり、太鼓や笛などの楽器に合わせて舞を舞います。大蛇の方は、物語にもなっています。小学生の頃から神楽を見てきて、地域の方々も神楽を毎年楽しみにされていました。中学生になり、神楽に初挑戦しました。学年を積み重ねるごとに先輩から受け継いだものを今度は、私達が後輩に教えていく番になりました。やはり責任の重さが全々違っています。これも貴重な体験です。
 神楽を披露すると、地域の皆さんはいつも大きな拍手をくれます。その拍手がうれしくてまた次へつなげていきたい、もっといいものを披露したいと心から思います。練習のときでは分からなかった事が、神楽披露を通して分かったような気がします。人の力は人をこんなにも動かすのだと思い、現在、練習真っ最中なので皆で力を合わせて披露に向けて頑張りたいと思います。
 鯉のぼり立ては、今年で18回目になります。100匹以上の鯉のぼりを川沿いに立てていきます。その景色は何度見てもきれいであきることはありません。私にとっては今年で最後の鯉のぼり立てとなりました。中学校生活の思い出の一つです。
 ではなぜ、何のために、神楽や鯉のぼり立てといった伝統行事を続けているのかと考えたとき思ったのが、伝統はつなげていくから伝統だということです。今までつなげてきたものをこれからも守り続けたい、そんな気持ちが今もこれからも続いていくからです。そして、これらの行事はどちらも地域の皆さんの協力なしでは出来ません。その感謝の気持ちも同時に続いていきます。伝統をつなげていく意味は必ずあります。その意味をこれらの体験で見つけ、感じていくことが大切だと思います。
 伝統が残っているというのは、今となっては珍しいことだと思います。今、現在は流行の物がすごく注目を浴び、人気になっていきます。ですが、その人気もいつかは消えていく日が来ると思います。しかし伝統は自分たちが残そうという意志があれば、続いていくのではないでしょうか。これから生徒の人数も減っていきます。それはどうしようも出来ない事です。それでも、私達はやれる限りやりたいです。それが伝統を残すという、私達にとっての大きな誇りです。
 私は中学3年生なので、中学校生活最後の年になります。何をするにも最後になってきます。小学生から今までを思い返してみました。その時は、何も思わなかったけれど、一つ一つの事が大切な思い出です。この15年間は、私の人生のほんの少しかもしれないけれど私にとっては、とても大きな事で、今まで過ごした日々はもう二度と体験できないかけがえのない時間だったのだと改めて思いました。
 この時をこの町で過ごせて、伝統という大切な事を知れて本当によかったです。これから卒業するまでの学校生活1秒1秒を大切に過ごせていけるようにしたいです。
 卒業したら、この町を離れることになってしまうけれど、ふるさとで学んだ事や思い出を胸に、将来、前へ前へと進んでいきたいです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「お年寄りの大切さ」
 下関市立豊田西中学校 3年 中川 裕樹 さん

 ぼくは、小学生のころバス通学でした。いつものようにバスに乗ったけれど乗客が多くギリギリですわれました。次の、バス停で一人のお年寄りが乗車してきました。ぼくは、席をかわろうと思っていましたが、声がまったく出ませんでした。情けないなあと思いました。すると、後ろにいた一人の高校生が「どうぞ」という一言で席をゆずりました。ぼくは、かっこいいなあと思いその時から、ぼくは「お年寄りの大切さ」について考えるようになりました。みなさんは、自分のおばあちゃん・おじいちゃんだけでなく身の周りのお年寄りを大切にしていますか?最近では、小さいころはお年寄りと話をしたりする人も多いけれど中学生・高校生になると話も全然しないし独立をしてお年寄りを一人にさせる事が多くなっています。仕方がないかもしれないけれどぼくは、まちがっていると思います。例えば電車やバスでお年寄りが立っているのに座っているのがほとんど若者ばかりなのにびっくりしました。さらに、一人高校生がおりて「やっとお年寄りが座れる」と思って安心していたら、近くにいる男子高校生がお年寄りをさしおいて自分が座りました。それだけでもおどろいたのに周りにいる人はみんな「見て見ぬふり」をしていました。でも、ぼくもその人に何も言えないまま時間が過ぎていきました。
 ところで、みなさんは老人ホームにあずけられたお年寄りの本当の気持ちを考えたことがありますか?ぼくは、文化祭でボランティアサークルというのに入り2年連続で2日間「豊田ほたるホーム」という老人ホームへボランティア活動としていきました。ぼくたちがいったとたんに、笑顔でお年寄りの人たちがむかえてくださいました。でも、お話しの時間に誰もが口にしたのは、少しでも長く家にいたいという一言でした。ぼくは、それを聞いて心が傷みました。その瞬間から少しでも長く、そしてやさしくしてあげたいという気持ちになりました。でも、その気持ちを表に出さないのがお年寄りのやさしさだと実感できました。
 最後に、エレベーターについてですが、大きなお店なんかに行くと、エレベーターがいつも満員です。だからエレベーターではなくて階段でのぼりました。すると、お年寄りが休憩をしながらのぼっていました。ぼくは、まちがっていると思います。エレベーターはお年寄りや障害者や小さい子供を抱いている人などこういう階段ではなかなかのぼれない人専用にしたほうがいいと思います。こういうことは、みんなが協力、そして実行していかないと絶対に無理なことです。日本が一つにならないといけません。お年寄りは、自分一人で出来ることと出来ないことがあります。そういうお年寄りが一人暮らしをしてなんでも一人でやらないといけません。ぼくは、絶対に無理だと思います。絶対に周りの世話なしでは生きていけません。こういった人達を増やさないためにも、若者が立ち上がらないといけないと思います。そして、高齢化社会を救っていかないといけません。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「希望-のぞみ-」
 宇部市立桃山中学校 3年 坂東 遙 さん

 「聞こえない音を聞きたいとは思わない。聞こえないこと、それが私の個性であり才能だから。」
 これは、難聴者であるフランスの女優、エマニュエル・ラボリの言葉です。
 世界には、音や声が聞こえる人と聞こえない人、目の前の景色が見える人と見えない人、自分の足で歩ける人もいれば、歩けない人もいます。
 私たちにできることが障がい者にできない、それはあって当たり前のことです。そして障がいとは、その人の一つの個性なのです。
 私の妹は障がい者です。生まれてすぐ、心臓と脳に病気があることがわかりました。今でも、脳梗塞という病気をもっているので、右脳の機能が失われています。そのため、身体の半分が麻痺していて上手く言葉が話せず、右目の視力がほとんどありません。自分の足で歩くこともできないので、小さい頃からずっと車いすに乗っています。私たちが普段当たり前のようにできていることが、私の妹にとってはとても難しいことなのです。
 そんな妹をもっている私は、今の社会を見て思うことがたくさんあります。それは、障がい者に対する偏見です。
 私が小学生のとき、車いすに乗った妹と街を歩いていると、小さい女の子が近寄ってきて、車いすに触ってきました。車いすは小さい子にとって珍しい乗りものです。だから私は、女の子が車いすを通して妹と仲良くなってくれるのかな、と期待していました。
 しかし、それを見ていた女の子のお母さんが、「触っちゃいけんよ」と注意しました。そのお母さんの言った言葉は、「妹への気配り」だったのかもしれません。でも、私にとってはとても胸が痛かったです。なぜなら、妹に近寄ってきてくれた人が、その一言で遠ざかって行ったからです。その時の気持ちは、今でも忘れることができません。
 障がい者にとって街でいちばん困ること。それは、「障害」によって起因するものでなく、「まわりの人の反応」なのです。私は、障がい者を腫れもの扱いすること、そして障がい者というだけで過剰な接し方をすること、それ自体が差別、偏見だと思います。
 自分の足で歩けないから車いすに乗っている。それは、目が悪いから眼鏡をかけていることと変わらないことではないでしょうか。
 同時に私はこのとき、障がい者を受け入れてもらえないのかな、と思いました。これまでは、障がい者と呼ばれる人たちは、あまり外出することがなく、街で見かけることが珍しかったため、障がい者を「別者」だと感じることが少なくなかったのです。だから多くの人が障がい者を見たとき、受け入れることができず、どうしても偏った見方をしてしまうのだと思います。だけど、同じ社会を生きて行く限り、助け合い、差別をなくしていく必要があります。そのためには、「障がい者の本当の声」をもっと多くの人に伝えなければいけません。
 障がい者が求めていることとは、何か力を貸してみせることや特別な接し方をすること、そんなことではなく、私たちが障がい者と対等の人間関係を築くことなのです。そう心がけることで例えば、体の不自由な人が大きい荷物を持っているとき、自然に「持ちましょうか」ではなく「何か手伝うことはありませんか」と声がかけられるはずです。そして、「障がい者だからできない」ではなく「できるように支援する」そんな考えをもってください。
 私の妹にできないこと、私の妹にしかできないこと。私は今までにそれをたくさん見つけてきました。だから、周りの人よりもゆっくりと、確実に成長している妹が、将来自活できるように、やさしく見守っていこうと考えています。そして、障がい者である妹の希望(のぞみ)から決して目をそらさず、ひとりの妹として接していきます。妹が心から思い描く希望を叶えるためのサポートをしていきたい。そう思っています。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「あいさつって・・・」
 周南市立和田中学校 2年 村上 知花 さん

 「今の人はなぜあいさつをしないのか・・・。」
 私は、周りを山に囲まれ、川のせせらぎが教室からも聞こえ、秋になると田んぼの稲が風にそよぐ、そんなのどかな所に住んでいる。学校の行き帰り、近所のおじさんおばさん、日ごろ顔を合わせない人達など、すれ違う人すべてにあいさつをします。また、あいさつをした人すべてがあいさつを返してくれます。
 しかし、塾の前の道では少々様子が違います。私は中学生になってから、車で20分くらいかかる街の塾へ行っているのですが、塾の講義が終わり、入口の前の道で母の迎えを待っていた時のこと、私の前を小さな女の子とそのお母さんらしき人が通りました。私は、いつもどうりに、「こんにちは」とあいさつをしました。すると、そのお母さんは下を向き、女の子は不思議そうに私を見てきたのです。「何がおかしいんだ――。」と思わず叫びたくなりました。
 私が住んでいる和田というところであれば、私が「こんにちは」とあいさつすれば、「こんにちは」だけでなく「○○ちゃん、いつも元気じゃね。」など、さらに一言二言つながって言葉が返ってくるのは当たり前なのに・・・。
 あいさつをされても、人にあいさつを返さない人は、この親子の他にもいます。ウォーキングに一生懸命で、イヤホンをして歩いているので人の声が聞き取れない人、にぎやかに行き帰りする小学生、世間話に花が咲き、人が通りすぎたのも気に留めないおばさま軍団・・・。実は、なかなかスムーズにあいさつを返してくれる人はいません。
 私は小さい頃からたくさんの人に、「あいさつをしなさいよ。」と教わってきました。それは、私だけ?違うでしょう?道のところどころ、公園の入り口や柵、様々な施設の決まりなど、あらゆる所に「あいさつをしよう」の標語や看板はあります。一体、日本はどうなっているのでしょうか?
 そんなこんなで、結局私はあいさつをしたのに恥ずかしい気分になることが多いのです。そのため、最近は和田ぐらいしかあいさつをしなくなりました。
 そもそも、なぜ最近の人はあいさつをあまりしないのか?あいさつされてもなかなか返さないのでしょう?
 近くであまりあいさつをしていない人って誰だろう・・・。そうだ、ということで、父に理由を聞いてみました。父は、会話は普通にいや普通以上にする時もあるのだけれど、あいさつはあまりしないのです。そこで、父に聞くと、「めんどうじゃから。」と一言。つまり、必要だと感じていないようなのです。父は、「子供はあいさつしろって言われるけど、父さんはもう大人じゃけえうるさく言われん。っていうより、ほとんどの大人はあいさつせんじゃろう。」と言い、母は「今の子はあいさつをしないのが普通と思っているから、あいさつしてくれると、かあさんは驚くけどね。」と言います。
 今は大人も子供もあいさつしないのが当たり前の時代なのか?本当にそれでいいのか?それではおかしいです。あいさつは、相手に関心をもっているからこそできるものです。また、自分を相手に対して表現したいと思う気持ちがないとできないものです。言い換えれば、人が人同士でつながり合うための重要なコミュニケーションの手段なのです。
 私は、大人があいさつしないから、子供もあいさつしないのだと思います。大人ができないことは、子供もできません。だから、父のようにあいさつに関心のない大人がしっかりあいさつすれば、子供もあいさつすると思います。でも、ちょっとずつ、少しずつ気をつければ、今よりもよくなると思います。
 私はこれからもあいさつをしていきます。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「感謝の言葉が言えたなら」
 岩国市立通津中学校 3年 宮原 利佳 さん

 私は最近よく母親とけんかになることがとても多い。その理由は本当に小さなことが原因なのだ。私が出したものをそのままにしていたり、言われたことにすぐ行動しないことに母親はいつも腹を立てている。自分でも、いけないな、と分かっているのに私はいつも素直になれないでいる。もちろん、けんかの原因をつくってるのは、ほとんど私。そのせいで最近、母親の笑った顔を見ていないな、と思う。なんで自分が悪いと分かっているのに素直に聞けないのだろう。私はそういう自分が、時々いやになるときがある。
 ある日、こんなことがおこった。母親が、ご飯できたよ。と私に言ってくれたのにもかかわらず私は、つい携帯電話のメールに夢中になっていて、母親の声なんて全く耳に入っていなかった。そして、ついにその態度にキレた母親は、本当におこってしまって、
「もういい。」
とだけ言って、その後は、もう私とは口をきいてくれなかった。私はすごく後悔した。とても、やりきれない思いでいっぱい、いっぱいだった。あのとき、母親の言うことを1回できいてやっていたとしたら、今はどうなってるのかな。など、せっかく母親がおいしいご飯を作ってくれたのに、とても失礼な態度をとってしまったな。と自分でも、とても反省した。素直に、
「ごめんなさい。」
と言うべきなのに私は、いえなかった。素直な心になる自分をどこかで、変にきらっていた。ごめんなさいの一言を言うことが、こんなにも難しいことを、私は初めて実感した。でも、やっぱり自分が悪いと思ったならば、素直にあやまる。というのが、人としてのすじというものだと思う。だから、私は思いきって、
「ごめんなさい。」
と、勢いよく口をひらいた。すると母親は、「素直になれるなら、はじめから、そうすればいいのに。」
と言って、ほほえんでくれた。その瞬間、私は思った。素直な心をもつことは、とても大切なのだ、と気づくことができた。
 母は、いつも仕事を夜までやって帰宅し、洗濯にご飯の準備、いそがしくても全てを、きちんとこなしてくれる。それは、すべて私たち家族のことを思ってのことだと思う。私が毎日、おいしいご飯食べられるのも、きれいに洗濯された服を着ることができるのも、学校に行くことができるのも、私が好きなスポーツを思うぞんぶんやることができるのも、すべて母や父が外で一生懸命に働いてきてくれるからだと思う。だからこそ私たちは、与えられた環境の中で、のびのびと生活できる。私たちにできることは、学校で一生懸命、勉強に部活にはげみ、しっかり自分のやることを、やりとげることだと思う。そして、絶対に感謝の気持ちを忘れないこと。たまには、両親にむかい、感謝の気持ちを込めて
「ありがとう。」
と、言ってみることも、私は大切だと思う。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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