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山口県青少年育成県民会議

 
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活動レポート 活動レポート( 54 )
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★平成22年度少年の主張コンクール山口県大会の入選作品について
2011/03/04
発表者のみなさん
表彰式
 山口県青少年育成県民会議では、中学生が学校生活や日常生活を通じて日頃考えていること、同世代や大人に訴えたいことについて、その意見を発表することにより、広く県民の皆様が少年の意識に触れることによって少年に対する理解を深めていただくために、「少年の主張コンクール」を行っています。
 平成22年度の山口県大会は、平成22年7月17日(土)に下松市のスターピアくだまつにおいて、山口県青少年健全育成大会と一緒に開催しました。
 書類選考による1次審査、2次審査を経て、8名の生徒の皆さんに発表していただきました。
 審査の結果、最優秀者1名、優秀者2名、優良者5名を次のとおり決定しましたので、作品とともに掲載します。

☆☆☆【最優秀賞】(県知事賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ぼくの学校、ぼくの先生」
 周南市立翔北中学校 1年 魚谷 耕司 さん

 2学期が終わるころ、教室は中学進学の話題で盛り上がっていた。どこの学校でも同じような光景なのかも知れないが、ぼくたちの場合は、少し違っていた。それは、翔北中の校区にあったぼくの長穂小学校は、ぼくたちの卒業と同時に休校になることが、突然に決まったからだ。混乱の中で、クラスの半分の人が、統合先の小学校の進学先となる中学校へ進むと言い出していた。
 ぼくは、4年生の時から、翔北中のソフトテニス部の夜練習に参加していた。先輩とは別の練習をするので、先輩たちと一緒に活動することはほとんどなかったけど、先生や先輩が、ぼくのことを「耕司」と名前で呼んでくれることがうれしかったし、テニスはとても楽しかった。ぼくは、先輩たちと一緒にプレーできる日が待ち遠しくて、早く中学生になりたいと思っていた。
 しかし、8人しかいないクラスで、6人が別の中学校へ行くことに決めて、翔北中に進学するのは、ぼくと1人の女子だけになった。これでは、テニスをしても、ペアを組む同級生もいない。体育の授業でサッカーもできない。今までのように、じょう談を言ったり、けんかをする相手もいない。
 ぼくは、本当に翔北中に進学してもいいのかと、何度も何度も考えた。
 ぼくは、ある日、テニスの先生に呼び止められた。
 「耕司が翔北中を選んでくれるのはうれしいけど、後から、翔北中に来たことを後悔することがないように。先輩たちが引退したら、部員はお前1人になるかもしれない。オレが練習相手にはなるけど、試合には出られない。つまり、テニスだけで学校を選ぶのはよくないと思う。テニスだけが人生じゃないからな。慎重に考えろよ。」
 ぼくはビックリした。ぼくの気持ちを知っている人が、ぼくと家族以外にいたんだと思った。ぼくは、頭の中で先生の言葉をくり返した。すると、ぼくの迷いはふっ飛んで、翔北中に進学すると決心した。
 テニス部があるからという理由だけで、翔北中を選んだのではない。翔北中には、ぼくを待ってくれている先輩と、ぼくの気持ちを理解してくれる先生がいるからだ。
 卒業式が近づくにつれて、教室では、進学の会話は減っていった。これまでなら口げんかで済んでいたささいなことでも、激しく興奮して、なぐりかかってくるようになった友達もいた。今思えば、早々と別の学校に進むと言った同級生も、本当はぼくと同じように迷っていたのだと思う。
 教室のそうじなど、休校の準備が始まると、ますますさびしくなった。だけど、それよりももっとさびしいのは、2人きりになった翔北中の1年生の教室だ。真ん中に置かれた2つの机が、よけいに教室を広く感じさせる。
 「さびしい」と思うのは、多分自分が、8人で過ごしたにぎやかな教室と比べているからなのだろう。今までの生活をリセットして、新しい世界で、新しい自分をつくり出したい。また、2人の教室を2人で盛り上げたい。まず、掲示物を増やしたり、花を飾ったりして、教室を明るくしたい。練習はきついけど、先輩たちと一緒に活動できるテニスを楽しみたい。失敗をおそれずに、色んな事にチャレンジしてみたい。ダイジョウブ!!翔北中には、ぼくを支えてくれる先生と先輩がいるから。
 そして卒業する時、ぼくは、翔北中に進学して良かったと思いたい。


☆☆☆【優秀賞】(県教育長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「私の決意」
 宇部市立桃山中学校 3年 堤 悠佳子 さん

 水俣病…それは私にとっては、教科書の中に書かれていること、あるいは新聞やテレビのニュース番組で聞くような、遠い過去の出来事でしかありませんでした。
 しかし、修学旅行で訪れた水俣病資料館で語り部さんのお話をお聞きし、不意を突かれたような思いがしました。なぜなら、水俣病は今でも続いている問題だと知ったからです。さらに、ニュースなどで聞く病気や訴訟などの問題だけでなく、水俣病の患者さんやその家族、さらには水俣市出身の実に多くの人々が不条理な差別を受けたというのです。私たちに真実を伝えようとする語り部さんの必死さを今でも忘れることができません。水俣病は、メチル水銀による中毒が原因でおこる病気なのに、伝染病であるとか遺伝する病気だと言われていたそうです。また風土病だと言われたこともあり、水俣市出身というだけで、結婚や就職を断られたこともあったそうです。これを聞いたとき、私は激しい怒りを感じました。なぜならば、水俣病の患者さんは、病気だけで十分に苦しんでいるのに、そこへ更に差別や偏見が重なり、体と心に二重の苦しみを負うことになったからです。また、患者さんやその家族以外にも、水俣市に住んでいたということで、どれほど深く傷ついた人がいたことでしょう。そして、訴訟をめぐって、いわれのない悪意あるうわさや中傷が地域の人々の関係を壊し、悪い方向へと変えていったこともあったそうです。
 語り部さんのお話からは、根拠のない情報が原因となって、差別や偏見が生まれているという現実が迫ってきました。もし、事実が明らかになっていたとしたら、事態も少しは違っていたかもしれません。
 「二度と水俣市の人々と同じような苦しみを味わう人をつくってはならない。同じ過ちを繰り返してはならない。」私は今、強く思います。そこでこうした差別や偏見をなくすにはどうしたら良いか考えてみました。
 差別や偏見は間違った情報や、根拠のない物事の見方から生まれてくるのです。最近では、インターネットの普及などによって、誰でも簡単に情報を手に入れ、発信することができます。そのため間違った情報に触れる機会も増えるでしょうし、自分が発信する危険もあるのです。常に真実が伝えられるとは限らないので、与えられた情報を鵜呑みにせず、その真偽を確かめることが肝心なのです。
 そして、一人ひとりが正しい判断をすることが、とても重要になってきます。また、周囲の意見にまどわされず、憶測で判断をしないことも求められます。自分からそうした行動をすることで、少しずつでも間違った考えをもつ人を減らし、身近にある差別や偏見などを防いだり、なくしたりすることができるのではないでしょうか。
 今まで私は身近にある差別や偏見などについて深く考えたことはありませんでした。たとえそれらがあったとしても、気づかないふりをしてきたような気がします。自分だけではどうにもならないという諦めにも似た感情を持ち、無関心という形で他人を傷つけてきたこともあったかもしれません。 
 今回、私は語り部さんのお話を聞くことで、水俣病への考え方も変わり、また、自分を変えていく勇気をもらったような気がします。差別は絶対にあってはならないことだけれど、もしかすると私が関わることがあるかもしれません。そんな時には語り部さんの言葉を思い出し、安易な気持ちで悪口を言ったり、先入観をもって人を見たりすることをなくしたいと思います。また、いつでも真実を見極めることのできる力と、たとえ自分ひとりになっても、この意志を貫き通す強さをもって、これから生きていきたいと思います。


☆☆☆【優秀賞】(県民会議会長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「日本の二つの社会」
 阿武町立福賀中学校 3年 野瀬 かれん さん

 私の住む町では、自然を愛する心、人と人との関わりを大切にする心、他人のために自ら動く親切な心、現在(いま)では忘れられていたと思っていた心が息づいています。
 私は、今年の2月に大阪から阿武町の福賀に来たばかりで元々は都会生まれの都会育ちです。周りに田や畑、山など自然物がある暮らしなどありえないことで、常にビルや雑踏、人工物が隣り合わせの暮らしでした。煙草やゴミのポイ捨ては当然のことで、困っている人がいても見て見ぬふりはあたり前です。自然愛、親切心、そんなものはカッコ悪いことで、自ら進んで動くなんてことは、とても勇気のいる行動でした。それは洗脳とも呼ぶべきもので、元々持っていた大切な心が、そんな汚れた社会によって、徐々に黒く染まっていくのです。
 一方、私が今住む町は正反対です。人工物などほとんどなく、コンビニやマンションが一つもありません。毎日が自給自足で、私は正直、なんて不便な町なんだろう、と感じました。しかし、そんな考えを持ったことを、今は恥ずかしく思います。なぜなら、この町に住む人達は、不便だなんて微塵も思っていないからです。日々、自分が生きる為に田や畑を耕し、他人との繋がりの中で地域の行事に参加します。その活気と漲る生命力に、私は圧倒されました。そして、人々はなにも自分だけのためにやっているのではありません。それこそが、私がこの町に来て一番驚いたことです。人々は、当然のように必ず私の家に作物を持ってきてくれます。たまたま通りかかったから、今日はたくさん採れたから、そんな単純な理由で大切な作物を5、10、多い時は20個ほどくれます。私はその行為に言葉にならない衝撃を受け、強く胸を打たれました。人々の当たり前のようなその行為と、私の知っている当たり前の行為は大違いだったからです。
 さて、都会暮らしと田舎暮らし、どちらが住みやすい様に感じたでしょうか。都会では欲しい物はお金さえあれば、いとも簡単に手に入ります。しかし、田舎ではそうはいきません。なにかしら自分で行動しないと手に入らなく、苦労が付き物です。でも、その分達成感があり、充実感を得られます。
 私は、この二つの暮らしが本当に同じ日本にある暮らしなのか、と時々疑いたくなります。都会と田舎、それは私から見れば全く異なった場所で、アメリカと日本、簡単に置き換えるとそういう風に感じられます。文化は同じなのに、周りの環境とそこに息づく人の心で、そこまで違ったものに感じてしまうのです。
私は、自分の意見を発言するのが苦手です。間違えるのは怖くて不安だし、間違える事自体がとても恥ずかしく思えるからです。 しかし、ここの人々は違います。自分の意見を堂々と発言し、間違っても臆しません。私が思うには、都会では社会的な知識を身につけられますが、いざとなった時に頼りになるのは、田舎の人達ではないでしょうか。 
 私が先程から、まるで都会を悪者扱いしていますが、それは違います。都会が悪いのではなく、間違った思想と環境に、誰もが見て見ぬふり、もしくは気づかないから非難しているのです。私はそんな風な社会になってしまったことを、とても悲しく思います。一人ではできないことも、みんながいればできるのに、誰も立ち上がらないのでは、何もできません。住みよい社会を作るために、愛する自然を守るために、私達が行動を起こさないといけないのではないでしょうか。私は、誰かが間違いを訂正してあげないといけないと思います。そのためには、私達が一歩を踏み出す。言葉にするのは簡単ですが、その勇気ある行動を起こした時、初めて日本は未来のために動き出したと言えるのではないでしょうか。少なくとも、私はそう思います。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「世界中を平和にしていくために」
 平生町立平生中学校 2年 庄地 遥 さん

 今を、当たり前に生きている私達…。命を無駄にしてしまう人々…。そんな考えをなくしていく為には、どうすれば良いのか。
 私は、広島平和学習で、たくさんのことを学んだ。
 今から65年前、ヒロシマに原子爆弾が投下された。そのころの苦しみ、辛さ、悲しみ、恐ろしさを、私は知っていると答えたら、被爆者の方に、すごく失礼だと思う。しかし、だからといって知ろうとしないのは、再び戦争を起こしてしまうことと同じだ。事実を知ることは、怖いことかもしれないが、私は、あの頃の人々の死を無駄にしたくないと思った。
 平和学習で、被爆者の方が当時のお話をしてくださった。それは、聞いているだけでも恐ろしかった。「目ん玉が取れてしまう人…。」「内臓がとび出てしまっている人…。」「泣き叫ぶ子ども…。」助けてあげたくても、その頃の自分には、「ごめんね。」と言うことしか出来なかったのだと話してくださった。お話の中で、私には、とても心に残る言葉があった。それは、「今朝見た夢よりも鮮明に、原爆が落とされたときのことを、今でも覚えている。」ということだ。しかし当時その方は、私より一つ下の12歳である。あの時から、65年たった今でも、忘れることが出来ない恐ろしさに、私は胸をえぐられた思いがした。
 平和記念資料館では、8時15分で止まっている時計、被爆者の当時の様子をまねてつくられた人形、そして、当時のヒロシマの風景を表した模型などが展示されていた。展示物の一つ一つが、原爆の恐ろしさを物語っていた。
 私に今出来ることは何だろうか、と考えた。それは、「伝えていくこと」だと思う。人間は、いずれは死んでしまう。被爆者の方も永久に生き続けることは出来ないのだから、どんなに小さな声でも、ほんの一言からでも、私からあなたへ、あなたから世界へと戦争の恐ろしさを伝えていくことが出来たらと思う。まだ、この世界には、戦争をしている国がある。戦争は、友達同士のケンカとは、レベルが違いすぎるが、人の痛みを知り、平和を願う人々の気持ちが戦争をおおいつくせば、きっと最後には、戦い
をやめることが出来ると思う。昔、原爆を落としたアメリカ人も、平和記念資料館をたくさん訪れていた。ヒロシマの苦しみを一緒に分かってくれようとしているのではないかと思った。そうであってほしいと願った。日本だけでなく、アジアにもヨーロッパにもつながる65年前の悲しい戦争は、人々の命を奪ったむごい戦争であったけれども、昔があったから心から平和を願う今があるのだと、私は思う。
 平和学習で、被爆者の方が必死に訴えてくださった一言一言は、私達にその思いを託してくださった、未来に続くメッセージなのだと思う。「物」が語ってくれたことや、人間の死も、「伝えていく」ことが意味のあることなのだから。
 そして、私達は原爆の子の像の前で平和宣言をした。
 一、自分の命を大切にします。
 一、他人の命を大切にします。 
 一、今が平和であることに感謝していきます。
 一、争い事をなくし、何事も言葉で解決します。
 一、私達は、よりよい世界の平和を願います。
 これは、私達平生中学校2年生のみんなで意見を出し合い、その願いをまとめたものだ。この平和宣言をみんなで忘れないように、実行していきたい。
 私達に、今出来ること、それは、「伝えていく」ということ。しかし、それは一部の人間が頑張っても、世界中に伝えていくことは出来ない。人から人へ、心から心へ、多くの人々がメッセージを受けとり、未来の平和を強く願うことが必要なのだ。だから、みなさんの力も貸してほしい。私自身も、そのたくさんの思いを胸に、前へ進んでいきたい。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「いつも心にありがとう」
 下松市立下松中学校 2年 升見 夏穂 さん

 私は家族に素直になれない。心の中の気持ちが言えない。いつも逆らってばっかりで…。そんな自分が私は嫌いだ。本当は大好きなのに、心の中には素直な自分がいるのに…。近くにいる存在だからこそ言わなきゃいけない言葉があると思う。そう…。「ありがとう。」いつもこの5文字の言葉が浮かんできては心にたまっていく。家族に言えなくなったままの私の本当の気持ちだ。
 私の家族は、父と母と私の3人だ。兄弟がいないので大事な相談は父か母のどちらかにする。しかし年が大きくなるにつれて考え方が異なり“どうせ私の気持ちなんか分かるはずがない”で済ませてしまう。でも本当は一生懸命考えてくれているということを分かっている。それなのにいつも同じ結果だ。その時は何も思わないのだが、後になってあの言葉が私の脳裏をよぎる。当たり前の言葉だから言わないのだろうか?それともそれが当たり前になっているから言えないのだろうか?その答えは私にも分からない。家族に対して言うのに、恥ずかしいという感情を持ってしまう。その時にいつも家族とは何だろう?と考える。分かりそうで分からないこの疑問。この答えは私が見つけるしかない。いつもそばにいて支えてくれているとても大きな存在。私が何かするのでも家族の協力があってこそだ。そう、家族とは、かけがえのない存在、信頼できる存在、そして何よりも、自分を強くしてくれる存在だと思う。もしこんな大きな存在がなくなったらどうだろうか?当たり前のようなことなので考えることもなかった。でもこうやって考えてみると、どれだけ家族が大事なのか改めて感じることが出来た。この作文を書いて私の気持ちが分かった。私は家族に「ありがとう。」を伝えたいのだ。ありがとうは言っている人も気持ちがいいし、言われた人も笑顔になれる。家族だけではなく、周りの人にも言えばもっと笑顔が広がり輪も広がると思う。お礼の気持ちを表す時に使うこの言葉だがとても意味が深い。私の一番好きな言葉だ。家族に使うありがとうを増やしたいと思う。しかしそこで考えてみたとき、家で過ごす時間と学校で過ごす時間はあまり変わらないことが分かった。とても短い時間でしか家族と過ごす時はない。だからその時々を大切にしたい。そして笑顔で過ごしたい。
 そして私が最近、「家族っていいな。」と感じた時がある。それは普通の日常会話からだ。私が学校へ行くときの家族からの「いってらっしゃい。」という見送りの声や「おかえり。」という出迎えの声を聞いた時、なぜかとてもうれしかった。その言葉から、家族が家にいる安心さが伝わってきたからだ。こういう家族を感じたときはありがとうと言いたくなる。感謝の気持ちを言葉にできたら自然に行動にもでてくると思う。それが私の考えだ。
 私がこの作文で伝えたいことは二つある。
 一つ目は自分の気持ちに素直でいるということだ。心の中にためているだけじゃ伝わらない。自分の気持ちを言葉にするということはとても難しいことだ。でもそこを伝えることによって初めて意味を持つ。これからは積極的に自分の気持ちを言葉で表したいと思う。
 二つ目は家族という大切な存在に対していつも感謝の気持ちを持つということだ。どんな時でも家族は私の事を考えてくれているということを忘れずにいたい。
 父が父で良かった。母が母で良かった。この家族が私の家族で本当に良かった。そう思える事が一番うれしい。この気持を忘れずに素直な自分でいたい。
 いつも心にありがとう。心からありがとう。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「祖 父」
 周南市立秋月中学校 3年 河村 一輝 さん
 
 僕の祖父は、自分の店を持っていて一人で毎日働いています。 祖父は、80歳を超えていますが、仕事を休んだことはほとんどありません。
 僕は祖父が好きです。けれど、こんな高齢になっても仕事をしている祖父の行動がよく理解できませんでした。祖母は病気のため右半身が不自由なのに一人で家事を行っているので、祖父に対して、仕事より祖母の手伝いをした方がいいのに、と思っていました。
 祖父は、時々僕を店に連れて行きます。80歳を超えているので、重い荷物は僕が運びます。その日も、荷物が届いたので僕を呼んで荷物の整理をしていました。その時、昔ながらのお客さんが来ました。農機具を買いに来たのかなと、思っていると、外に止めてあった軽トラックから、古い農機具を運び出して、「これが、動かなくなったんで、修理して欲しいんじゃが、お願いできますか?」と言ってきました。僕は、また修理かと思いました。修理は新品の農機具が売れるのと違って、大変です。まず、どこがいけないのかを調べるために、部分的に分解し、破損箇所を見つけて修理し、また組み立てていくという手順になるので、膨大な時間と苦労がかかります。しかも祖父は、そんな仕事を、とても安く修理するのでよくお客さんが来ます。中には、エンジンそのものが壊れていて取り替えることもありました。僕は思わず祖父の顔を見ましたが、祖父は嫌な顔をせずにむしろ喜んでいるように、快く引き受けました。僕はすごいなと思いました。それからその農機具を修理しお客さんに渡しました。その後、僕が「修理してくれと言われて、どうして嫌な顔をせずに喜んでいられるの。」と、尋ねると祖父は、どうしてそんな事を言うのかというような驚いた顔で、こう言いました。「自分がされて一番嬉しいことをしているだけだ。」僕は今まで、あんな事を考えていたのが恥ずかしくなりました。そして、祖父は立派だなと思いました。またある日、電話が事務所にかかってきて、修理して欲しい機械があるのだが持って行けないので、取りに来て欲しいという内容でした。しかも、場所は、大島で、ここからだと結構な距離があります。さすがに祖父も返事を渋るだろうと思った時、「分かりました。すぐ行きます。」という即答。僕は、改めて祖父の仕事に対する姿勢、人としての真っ当な生き方を突きつけられたような衝撃を受け、祖父の顔を見つめました。
 でも、祖母はどう思っているのでしょう?毎日不自由な身体で家事をこなし、祖父に不満や苦情はないのだろうかと思い、聞いてみると「苦情や不満は、正直に言ったらあるけど、仕事が終わったら手伝ってくれるから、言うことはない。」という答えが返ってきました。あのおじいちゃんにして、このおばあちゃんだな、やはりお互いを支え合って生きているんだなと思いました。孫としてほのぼのと嬉しくなってきました。
 祖父の事がいろいろ分かっていったので、どうしても聞きたいと思っていたことを尋ねました。それは「どうやったら、40年も50年も仕事が続けられるか。」ということです。祖父は「自分の好きな仕事だから。」と短い言葉だったけれど、それは僕の心に深く刻まれました。
 祖父は主に四つの事を教えてくれました。「自分にして欲しい事を相手にもする。」「面倒な事でも進んでやる。」「夫婦は支え合って生きていくもの。」そして最後は「仕事は、自分が好きなことを選ぶ。」です。祖父の場合、働くことが一つの大きな楽しみであると同時に、仕事に対する姿勢そのものが祖父の生き様になっているような気がします。人生の大先輩に学んだことを、大切にしていきたいと僕は思っています。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ボランティア活動を通して学んだこと」
 萩光塩学院中学校 3年 福岡 由梨 さん

 ボランティアという言葉は、多くの人が耳にしたことがあると思います。無償で社会事業に奉仕することです。
 「誰かボランティア活動に参加しませんか?」と聞かれ、自ら進んで「やりたい!」と意欲的に参加する人はあまり見受けられません。大半の人は「面倒くさい」「働いたって何も出やしない」という意見が多いと思います。あるテレビ番組に出会うまでは私もその中の「一人」でした。
 私は、中学1年生の夏、ホームルームの時間に海の海岸沿いのゴミ拾いをするボランティア活動をしました。私は最初乗り気ではなく、どうして暑い中こんなことをしなければならないのだと、どうせならスポーツレクやゲームをすればいいのにと、心の中は不平不満でいっぱいでした。ただ何も考えず、もくもくとゴミを拾っては袋に入れ、拾っては袋に入れの繰り返しの作業でした。
 その海岸清掃の活動をした数日後のことでした。私は、あるテレビ番組の主催で他の中学校の生徒たちが「昔の綺麗な海を取り戻そう」というテーマでボランティア活動をする番組を見ました。私より小さい子どもたちがボランティア活動に参加し、汗を流しながらも一生懸命に海岸清掃に取り組んでいました。そんな時、私はリポーターがインタビューしたある男の子に目が止まりました。その男の子は私よりもずっと年下の地元の小学生でした。男の子はインタビューで「また綺麗な海で生き物と遊びたい」と答えていました。
 私はこの男の子の発言を聞き、心を動かされたと同時に、私自身なんて情けないのだろうと自分自身、自らの行動や言動を振りかえりました。私はあの夏のボランティアの日に、何を考えながら活動したのだろうか?ただ「暑い」「面倒くさい」「早く帰って冷房のきいた部屋に入りたい」という自己中心的なことしか考えていなかった自分を反省しました。テレビ番組に出ていた男の子と私の違いとは何なのか考えました。その結果ボランティア活動の内容は「同じ」だけれど、活動の意図、活動中の気持ちや姿勢が私と全く「違い」ました。
 テレビ番組を見て以来ボランティア活動について今までと考え方が変わりました。私の通う「光塩学院」では他校に比べ何倍も奉仕の心について学べる機会が多くあります。幼い頃から宗教の授業や行事、活動を通して奉仕の精神を学んできました。宗教の授業だけではなく、天災・災害があった際には、世界の貧しい人々のために少しでも役に立つよう募金活動をしています。
 私が経験したボランティア活動には、ふたば園に幼児の使うおもちゃの消毒に行ったことがあります。そう考えると、私はたくさん奉仕活動の機会が身近にあり、恵まれていることに気付きました。
 私はそのテレビ番組や光塩の授業を通し、ボランティアは、自分には形のあるごほうびはもらえないけれど、世の中のために役に立ち、みんなから笑顔という最高の「ごほうび」をもらうことができるということを学びました。
 現在私は、地区で行なわれているゴミ拾いなどに積極的に参加しています。これからも、いろいろな役に立つ仕事に積極的に参加し、色んな人に声かけをしていきたいです。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「心の痛み」
 周南市立秋月中学校 3年 森脇 早紀 さん

 「大丈夫?」「肩を貸そうか?」と声をかけてもらった時、私は迷惑をかけていないかなと心配になりながらも、こんな友達がいてよかったと思いました。
 私は今年の4月、バレーボールの試合でねんざをしてしまいました。ねんざをしたばかりの時は、骨が折れている可能性もあったので、2週間ほどギブスをして歩くという生活をしました。
 私は今までギブスをしなければならないほどのけがをしたことがありませんでした。そのため、ショックも大きかったし、学校に行くのも移動教室など不安なことが一杯でした。
 まず、ギブスをつけてから初めて学校に行った日には、3階の自分の教室から2階にある理科室に行くという試練が待っていました。私一人では階段の昇り降りが出来ません。友達に松葉杖や教科書をもってもらったり、肩を貸してもらったりして移動します。そういうことを人に何度も頼むのは気が引けるし相手は何と思うだろうと、私は心の中で勝手にいろいろと想像していました。
 私は不安一杯の心を抱えながら階段の前まで行きました。そんな私に友達は「私が教科書持つよ」「じゃあ私は松葉杖」と言って私の荷物を理科室まで運んでくれました。また、別の友達は「肩を貸すよ」と言って、私のペースに合わせてゆっくり歩いてくれました。そして、理科室までの長い道のりにかけてくれた言葉の一つひとつが、私の心を温かく包んでいきました。私の曇った心は友達の太陽のような心で、一気に晴れていったのです。
 家に帰ってから母にこのことを報告すると母は、「あなたの周りにもしあなたと同じ立場の人がいたらどんなふうに接するかな?」と尋ねました。私は思い出しました。去年弟が私と同じようにけがをした時のことを。私は弟のけがの痛みや精神的な苦しみを全く理解しようとはしませんでした。それどころか、追い打ちをかけるように「お姉ちゃんはけがなんか絶対にしないよ」と自分がけがをしていないことを自慢していました。弟はどんなに辛かったでしょうか。
 それなのに今回、弟は私にとても優しくしてくれました。人の痛みがわかるからです。弟はけがの痛みだけでなく、周囲の人から言われた心ない言葉がどれだけ人の心を弱らせるか知っていたのです。だから私を傷つけることは決して言わず、優しく接してくれたのです。私は自分がけがをして初めて弟のけがの痛み、心の痛みに気づきました。弟に申し訳ない気持ちで一杯になりました。
 でも、私の心の中に疑問が生まれました。それは私の友達はギブスをつけたこともけがをしたこともないのに、なぜ私の気持ちを理解してくれたのかということです。友達は自分が実際に経験したのではないから、私の本当の痛みやつらさはわからないはずです。それなのに私に優しく接してくれました。なぜそんなことが出来たのでしょうか。
 そう考える私の心の中に普段よく耳にする「思いやり」という言葉が浮かびました。誰だって相手と全く同じ気持ちになることは出来ません。なぜなら自分と相手は違う人間だから。でも、相手の気持ちに近づくことは出来ます。優しさは「今この人はどんな気持ちなんだろう」と考え、その人と同じ立場や経験をしていなくても、相手の気持ちをわかろうとするところから生まれるのだと知りました。わかろうとする気持ちが思いやりなのです。友達は自分が実際経験したのではないから痛みやつらさはわかりません。でもそれをわかろうとすることで自然な優しさが生まれたんだと思います。けがは痛みと共に私にたくさんのことを教えてくれました。これから私は人の痛みをわかろうとする気持ちを忘れないようにしたいと思います。


 

★平成22年度の主な活動状況★
2011/03/04
第45回総会
◎ 第1回常任委員会開催《平成22年4月22日(木)》 

◎ 第45回総会開催《平成22年5月25日(火)》
 ○議事
 平成21年度事業報告
 平成21年度収支決算
 役員の改選
 平成22年度事業計画
 平成22年度収支予算
 (報告)青少年育成国民会議の解散 
 ○「家庭の日」講演会
 演題:「郷に入っては…〜家庭はこれで本当にいいのか〜」
 講師:山口県立大学 国際化推進室長・准教授
 シャルコフ・ロバート 先生

◎ 山口県青少年健全育成大会(県等と共催で開催) 
 《平成22年7月17日(土)スターピアくだまつ(下松市)》 
 主な内容
 青少年育成功労者等の表彰(県知事顕彰、県民会議会長表彰等)、少年の主張コンクール、美東町青少年育成市民会議活動報告等
 ※少年の主張コンクール内容は後日掲載します。
 
◎ 第2回常任委員会開催《平成22年9月15日(水)》

◎ 第3回「家庭の日」フォトコンテスト(県と共催)
 テーマ:家族のだんらん・家族のふれあい 
 部 門:「一般」及び「青少年」(高校生以下)
 ○募集《平成22年5月17日〜平成22年9月15日まで》
 ○審査会開催《平成22年10月12日(火)》

◎ 2010年「家庭の日」カレンダー作成
 ※「家庭の日」フォトコンテストの入選作品を掲載したポスターカレンダーを作成し、各市町の公民館、図書館等に掲示をお願いしています。
 また、県民会議作成分以外に、趣旨に賛同いただいた21の企業・団体の皆様に、カレンダーに企業名・団体名を入れたものを御購入、独自に配布いただくという御協力を得ました。
 
◎ 青少年育成市町民会議会長・事務局長会議開催
 《東部:平成22年11月11日(木)岩国市》
 《西部:平成22年11月 8日(月)防府市》 

◎ 「子育て文化創造フェスタ」への参加
 《平成22年11月14日(日)岩国市》
 フェスタにおいて「家庭の日」フォトコンテストの表彰式(最優秀のみ)及び入賞作品のパネル展示を実施

◎ 第3回常任委員会開催《平成23年1月18日(火)》
 
◎ 2011年度小学1年生用「家庭の日」月めくりカレンダーの作成・配布
 ※ 家庭での過ごし方について考える機会となる小学校入学児童向けに、カレンダーを作成し、仮入学式等で配布します。


 

平成21年度少年の主張コンクール山口県大会の入選作品について
2010/01/27
少年の主張コンクールの写真
 山口県青少年育成県民会議では、中学生が学校生活や日常生活を通じて日頃考えていること、同世代や大人に訴えたいことについて、その意見を発表することにより、広く県民の皆様が少年の意識に触れることによって少年に対する理解を深めていただくために、「少年の主張コンクール」を行っています。
 平成21年度の山口県大会は、平成21年7月18日(土)に美祢市の美祢来福センターにおいて、山口県青少年健全育成大会と一緒に開催しました。
 書類選考による1次審査、2次審査を経て、8名の生徒の皆さんに発表していただきました。
 審査の結果、最優秀者1名、優秀者2名、優良者5名を次のとおり決定しましたので、作品とともに掲載します。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

★ 最優秀賞
 「吐き捨てた言葉」
 宇部市立桃山中学校 3年 山本 美優香(やまもと みゆか) さん 

 小説を読んでいるとき、ぼんやりとくつろいでいるとき、私の意識とは無関係に、ふっとよみがえってくる光景があります。頬に残る感触とともに。
 それは、3年前のことでした。そのころは、ささいなことでもすぐにイライラしてしまう時期で、毎日のように母とけんかをしていました。いつもは1時間もしないうちに自然に仲直りしたり、無視されるのが耐えられなくて、自分から謝ったりすることもありました。
 しかし、その日は、毎日の小さなイライラが積み重なったのか、疲れが大きかったのか、私の中で何かが爆発し、今にも手が出てしまいそうな言い争いになりました。けんかの理由は、本当にささいなことだったと思います。それなのに、私は、母に吐き捨てるように言いました。
「うざいっちゃ!」
 何も考えることなく、その言葉がスッと出てきたのです。
 すると、母は、少し伏し目がちになり、低いトーンで、静かに言いました。
「あんたが兄弟の中でいちばん口が悪い。上の2人には、今までそんなことを言われたことがない。」
 いつもなら、恐い顔で激しく叱られるのに、その日は、そう言ったきり、一言も話してくれなくなりました。いつもと違う母の姿に、私は戸惑い、少しずつ、いけないことを言ってしまったと後悔し始めました。しかし、素直になれず、いつもは絶対に交わす「御飯よ。」「おやすみ。」という言葉もありませんでした。
 次の日ももちろん、私と母の間には「行ってきます。」「行ってらっしゃい。」という会話すらなく、父親の車で習い事へ行きました。
 そして、迎えに来た父は途中、車を止めて、静かに、そして真剣な表情で、私と母がけんかをしている理由を聞いてきました。早く話を終わらせたかった私は、またイライラしてきて父にも言ってしまいました。
「もう、うざいっちゃ!」
すると、その発言に後悔する間もなく、父に頬をはたかれました。生まれて初めて、はたかれました。
「父さんにも、母さんにも、だれにでも、そんな言葉を使うな!」
 強く、厳しい口調でした。そのとき、頬の痛さと、自分が父や母に言ってしまった言葉への後悔、恥ずかしさ、申し訳なさなどで、涙が止まりませんでした。
 夕方になって帰ってきた母に、今までにない緊張をしながら、謝りました。すると母は、「うん。」とだけ言って、晩ご飯を作り始めました。次の日の朝、リビングに行くと、母が「おはよう。」と言ってくれて、私もやっと「おはよう。」と笑って言うことができ、安心感でいっぱいになりました。
 この出来事を通して、甘やかすことだけが優しさなのではなく、むしろ、その人のことを真剣に考えて、本気で叱ってくれることの方が、本当の優しさなのだと知りました。
 最近では、真剣に叱ってくれる人が少ない気がします。学校や社会で、ちゃんと子どもを見て、人として大切なことを、きちんと教えてほしいと痛感します。その中で、いけないことを「いけない」と、面と向かって言ってくれた両親がいることを、とても幸せに思っています。頬の痛みは、両親の私に対する愛情のあかしだと感じます。だからこそ、言葉遣いに気を付けようと、心から思うことができたのです。
 今でも、ときには、ふさわしくない言葉や、相手を傷つける言葉を使ってしまう私ですが、頬の痛みを忘れることなく、自分の言葉に責任をもち、両親の思いに応えていきたいと思います。たった一言で、それまでの大切な関係を崩したくはありませんから。
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★ 優秀賞
 「大きな愛情に包まれて」
 周南市立富田中学校 3年 瀬川 莉帆(せがわ りほ) さん
 
 学校に行く前に必ず私が確認することがあります。それは、鞄に自宅の鍵が入っているか確認することです。このことを、私は約8年間続けています。両親が共働きの私は、小学校1年生から家に入るための自分の鍵を持っています。小学校1年生から3年生までは児童クラブに通っていました。それでも、家に帰れば自分で家の鍵を開け『ただいま。』と返事のない家にあいさつをしていました。
 いくら毎日確認をしているといっても、大切な鍵を忘れることもあります。そんな時は決まって、家にたどり着いてそのことに気付くのです。そういう時は、児童クラブでもらったおやつを食べながら、「お父さん、お母さん早く帰って来ないかな。」と思いながら、一人で遊ぶのです。
 すると、近所のおばさんが、
「鍵忘れたの?うちに来ない?」
と、声をかけ、家の中に入れて下さいました。そしてまた、おやつをいただいたり、テレビを見させていただいたりしました。近所の五歳上のお姉さんが、夕方になっても家に入れない私に合わせて、ボールで遊んで下さったこともあります。日ごろそんなに付き合いのない近所の方々が、自分が困っている時に何の迷いもなく温かい言葉をかけて下さいました。
 また、小学生のころびっくりしたことは、私が知らないおじさんでも私が、『瀬川さん家の子ども』だということを知っていたということです。そして、近所の溝の近くにランドセルを放り出して、溝にいる魚をつかまえようとしていたことなどの、絶対に親は知らないだろうと思われることも、なぜかいつの間にか親に伝わっているということです。
 4月の祝日に、母と2人で庭の草抜きをしていた時、隣の家のおばさんが
「もう、お手伝い出来るくらい大きくなったからお母さんも楽でええね。」
と、話かけてこられました。そして、続けて
「小さいころは大変じゃったよね。お姉ちゃんもお母さんもようがんばったよね。」
と、おっしゃられました。母は、にこにこしながら
「本当にお世話になりましたね。」
と、言っていました。
 そんな会話を聞いてようやく分かったことがあります。それは、私達家族4人は近所の方々に見守られている。支えられているということです。家族4人では出来ないこと、手が回らないことは周りの方々がいつでも手を貸して下さる。近所の方々がいて下さるから安全に生活出来る。そんな安心感から、今まで無理をせず、あせらず過ごせたのではないでしょうか。今まで、私は自分が一人で鍵を開け家に入ることが出来る。自分は一人で何でも出来ると思っていました。しかし、そんな私を大丈夫かな。と心配して下さる方々、見守って下さる方々のおかげで一人で安全に出来るということが分かりました。
 下校中、畑仕事の手を止めて、
「おかえり。」
と、私を迎えてくれたおじさん、おばさん。ランニング中にもかかわらず声をかけてくれたお兄さん。本を読みながら友達を待っていた私に声をかけてくれたこともありました。いつでもどこでも、出会えば皆声をかけてくれました。たくさんの方々が、私の成長を毎日毎日見続けてくれました。けっして、おしつけることのない愛情に気付くことが出来ました。
 そんな温かい地域の方々と明るいあいさつをかわし、今は何の役に立たないかもしれないけれど、いつかは役に立てるようになりたいです。そして、この地域の良さを大切に受けついでいきたいです。
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★ 優秀賞
 「ハネナシコオロギの声」
 下関市立長府中学校 3年 久我 立(くが たつる) さん

 「ハネナシコオロギを研究テーマにしたらどうでしょうか。」
 中2の春、尊敬する川野さんがそうおっしゃった時は、想像することさえできない未知の昆虫の名前を聞いて、とても驚き、興奮しました。
 ハネナシコオロギという昆虫を、みなさんはご存知でしょうか。本州では下関市の豊田町にある華山という山でしか生息を確認されていない、珍しいコオロギです。その生態の多くは謎に包まれています。光沢のある黒色の1センチほどの小さなからだです。その名の通り、翅がないので、コオロギらしい鳴き声も聞けません。図鑑にもほとんど載っていません。そんな貴重なコオロギを、豊田ホタルの里ミュージアムの学芸員である川野さんは、僕に研究をすすめて下さったのです。
 「僕に育てる事ができるのだろうか。」正直、不安を感じました。しかし、元来、昆虫が好きな僕は、謎に包まれた生態を解き明かしたいという思いに駆られて、いつの間にか、大きくうなずいていました。
 僕は現在、川野さんがつくって下さった、「生物部」に所属して、豊田町を中心に、昆虫や化石など、様々なことを学んでいます。そして、必死に採集し、育てたハネナシコオロギを自宅で飼育しています。でも、僕が育てているのはハネナシコロオギだけではありません。
 僕の毎日はこんな風です。僕が通っている長府中学校は、小高い丘の上の、森に囲まれた自然豊かな学校です。ですから、下校途中に、魅力的な生き物達に出会えます。特に、ホタルやケラ、ナナフシなどに出会えた時は、ついつい、バックに忍ばせたビニール袋に入れて、連れて帰ってしまいます。また、家に着けば、18種、50匹以上の昆虫の世話がまっています。水分の補給、えさの交換、湿度、温度の確認など、することは山のようにあります。昨年、トノサマバッタを研究していた時は、100匹以上のバッタ達を飼っていました。そのため、エサはいつも足りなかったので、道ばたでススキを見かければ、車にのっているときでも、車をとめてもらい、準備していたハサミで刈り取っては持って帰っていました。
 そんな忙しい毎日の中で、ハネナシコオロギの観察日誌もつけています。家でふ化した幼虫は4.5ミリ程度しかなかったので、家族からはその小ささから「プランクトン」の愛称で呼ばれるようになりました。今、飼っているのは2世代目です。僕の観察によると、ハネナシコオロギの生態は次のようです。
 まず、山にいるので、夏場は涼しくしないといけません。昨年の夏は毎日、保冷剤をケースの下に置いていました。また、落ち葉の下を好みます。えさは人参や林檎を食べますが、動物性タンパクを得るためか、金魚のエサをよく食べます。僕は昨年、繁殖に成功して、7匹以上、発見することができました。産卵数はおそらく10個程度でしょうか。ただ、彼らは翅がないので、一般的なコオロギのような鳴き声で求愛行動することはできません。そこをどう解決しているのかを、僕は解き明かしたいです。
 いずれにせよ、ハネナシコオロギが育つ環境には豊かな自然が必要です。それも人の手が入った山ではなく、古くから日本にあった自然の森が守られていなければいけません。彼らはしゃべれないので、我々人間は助けを求める声を直接耳で聞くことはできません。しかし、心の耳を少し彼らにむけたら、彼らの助けを求める声は聞こえるのではないでしょうか。
 ハネナシコオロギを見つめるたびに、僕はこの小さな命をはぐくんでいるわずかな自然を、人間は守り続けなければいけないと思います。そのためにも、素敵な仲間や先生、そして昆虫たちに囲まれながら、これからもいろいろなことに興味をもって研究し、自然の大切さ、すばらしさをみなさんに発信していきたいです。
 ありがとうございました。
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★ 優良賞
 「命の重さ」
 美祢市立大嶺中学校 3年 篠田 沙織(しのだ さおり) さん 

 青少年の自殺のニュースは、いつの時代も後を絶ちません。私はそのニュースを見聞きするたびに、とても辛い気持ちになります。せっかく授かった命なのに、自分で自分の命を絶つということは、想像するだけでも本当に悲しいことだと思うからです。
 私は3人兄弟です。私の上には、兄と姉が1人ずついます。しかし私の母は、兄を出産する前に、2人の男の子を亡くしています。1番最初の子は早産で、2番目の子は流産だったそうです。現在の医療だったら何とかできたかもしれませんが、残念ながら当時はまだそこまで医療が発達していませんでした。母は、1番はじめの子が亡くなった時、初めて父の涙を見たのだそうです。父はめったに泣かない人なので、その時の悲しみは計り知れないものだったのでしょう。しばらくして私の兄が、健康な身体で無事に生まれました。その時の喜びは、言葉にならないほどのものだったそうです。
 私がこの話を聞いたのは、つい最近のことです。この話を聞いて私は、以前にも増して命の重さを感じるようになり、自殺など決してあってはならないと思うようになりました。私の母も、2人の子を亡くした時は、ずっと泣いて過ごしていたそうですが、落ち着いてくると
 「あれは運命だったんだ。しかたのないことだったんだ。」
と、前向きに乗り越えてきたそうです。そうして母は強くなっていったのだと思います。姉が未熟児で生まれ、しばらく保育器の中で治療していた時も、母は
 「頑張って、頑張って。」
と、ずっと姉に向かって応援していたそうです。そんな話を聞くと、辛さを乗り越えてきたからこそ、前向きに応援することができたのかな、と思いました。その後姉は、母の頑張りもあって、無事退院することができました。
 このように生まれた環境には色々な違いがあるでしょうが、せっかく与えられた命を、自ら捨ててしまうということは、絶対にあってはならないと思います。どんなことがあっても、落ち込んでばかりいないで、未来に向けてまた歩き出すことができれば、少なくとも何かに失敗して自殺する人や、プレッシャーに耐えきれずに自殺する人もいなくなると思います。世界中には、生きたくても生きられない人がたくさんいるのです。 
 私はつい最近、修学旅行で長崎に行きました。原爆について、実際に見たり、聞いたり、さわったりして、多くのことを学びました。小さい子供達の死体の山や、背中に火傷を負った子供達の写真もたくさん見ました。それらを見ると、「この子達は、この日まさか自分が死ぬとは思わなかっただろうな。もっとやりたかったことがたくさんあっただろうな。」と思いました。そして、私達が普段、学校で勉強できてみんなと遊べるのはとても幸せなことで、当たり前だと思うのは間違っているんだな、と思いました。今、こうして元気で普通に生きていられることを、大切にしていかなければいけないと思いました。
 私達が生きている今の時代は、色々なものが発達し、とても便利になってきました。そんな中で生きていられる私達は本当に幸せです。だからこそ私達は、もっともっと1日を大切にしていかなければならないと思います。私はもう、14歳になりました。これからは、生まれてくることのできなかった兄である2人の男の子達のためにも、しっかりと生きていこうと思います。
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★ 優良賞
 「大人と子ども」
 防府市立華西中学校 3年 吉岡 都佳沙(よしおか つかさ) さん

 皆さんは、子どもと大人について考えたことがありますか?
 私は最近、大人としての在り方、子どもとしての在り方というものをよく考えます。大人と子どもは、存在する場所が同じでも、自分を取り巻く環境や社会的な立場の違いがあり、同じではない間柄だと思います。例えば「親と子」や「教師と生徒」の間柄のようなものです。
 私は、何が大人で何が子どもなのかを疑問に思うことがあります。それは、子どもから大人になるということが、年齢のことを言うのか、気持ちの持ちようをいうのか、よくわからないからです。ただ、最近わかりかけてきたことは、大人の言動が子どもを傷つけ、子どもの行動が大人を悩ませていること。そして、大人が子どもに期待するように、子どもは大人に何かしら求めているものがあるということです。
 私は「期待」というのは自分にとって支えにも重圧にもなるものだと思います。ただ、重圧にも感じれば感じるほど、求めてしまうものも多く増えていく。その「求めてしまうもの」が「わがまま」だと言われてしまう間は、子どもなのかなと考えるようになりました。
 けれど、時に「わがまま」という行為は必要だと思います。
 私は、今年着任された担任の先生に、反発という形でわがままを言いました。文句を言うか、ただ無視をするだけの私に、先生は
「それは、お前のわがまま。」
と言いました。その言葉に、私は、“わがままを言って何が悪い”と思うばかりでした。その時の私は、先生が“大嫌い”ということしか頭になく、自分勝手になっていました。
 しかし、その後、冷静になって先生の言葉を考え直してみると、先生の指摘は確かに正しいと思えてきたのです。
 私は先生に反発し、わがままを言ってよかったと思います。反発していなかったら、先生のことを“嫌い”という目でしか見られなかったと思うからです。そして、今回の経験で、自分の中に得たものがあるように思いました。それは、先生に対するささやかな「信頼」です。反発し、わがままを言いながらも、先生の言葉の裏側にある「期待」に、少しずつ気付くことができたのかもしれません。
 私はまだ成人しておらず、大人の気持ちは分かりませんが、大人は自分自身が子どもの時の経験があります。子どもの気持ちと大人の気持ちの両方が分かると思います。だから、大人は子どもを導くことができ、教えることができるのではないでしょうか。
 中学3年生になった今、自分の進路を自分で考え、決断しなければならない立場の私は、片足を大人に突っ込んでいるのかもしれません。しかし、今の自分は行動も考えも中途半端で、将来の夢さえ未だに見つけられていません。そればかりか、やるべき事を投げ出し、口を開けば文句しか言わない。そんな自分を「大人」といえるようになるには、まだ程遠いと思っています。
 けれど、社会の仕組みや将来のことなど、何が正しいのか、そして、今何をすべきか疑問に思い、考え、自分なりの答えを探し、見つける。その繰り返しの中で、自分なりに考えて行動しているつもりです。その方法や答えが、時に子どもじみていたり、理解されずに「わがまま」と受け取られたりしても、せめて聞いてほしい。気付いてほしいと思います。
 大人と子ども。私もいずれなるであろう大人という存在。私は、今までやこれからの経験を糧に、子どもの気持ちに気付けるような、そういう大人になりたいと思います。
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★ 優良賞
 「戦争をなくしたい!!」
 平生町立平生中学校 1年 三戸 千尋(みと ちひろ) さん

 内戦や戦争が、多くの国で続いている。また、その戦争で多くの人が死傷している。こんな悲しいことしか起こらない戦争をなくすために、私に何ができるかを考えてみることにした。
 今、私が過ごしている何気ないこの時間にも、苦しんでいる人がいる。人を傷つけ合って、どうして戦争をするのか、私には未だに理解しがたい。戦争はやめられないのだろうか。世界中を平和にして、笑顔にすることはできないのだろうか。
 私は、人の笑顔を見ることが好きだ。教科書やテレビで、戦争のニュースを見る。その痛々しい姿に、私はただただびっくりし、悲しくなる。日本に住んでいる私達にとっては、かわいそうだなとか、大変だなと思うだけだと思う。今、日本では戦争が起こっていないからである。でも私には、『私が戦争を少しでも減らせないのだろうか。』という思いが、常にある。
 まだ中学生の小さな私が戦争をなくすために何かしても、大きな世界には届かないかもしれない。けれど、私がそのためにできる小さなことをして人に伝え、それが伝わり伝わり…。何もしないよりは、どんなに小さな事でもした方がいいと私は思う。
 私はそのために、今、3つのことを考えている。
まず1つ目に、友達とけんかをしないようにしようと思う。悪口やいじめは、誰かが傷つくことになる。けんかも、して得をすることはめったにないだろう。お互いに言葉で話し合って、解決することはできないのだろうか。そうすれば、小さなけんかや大きなけんかがきっと少しは減るだろうと思う。戦争は大人の大きなけんかのようなものだけれど、話し合いで解決できることがあるのではないか、と思う。
 2つ目に、できるだけ毎日笑顔で過ごしてみようと思う。人の笑顔を見ていると、私まで笑顔になってしまうことがよくある。笑顔は私にとって、幸せの宝箱みたいなものである。逆に苦しんでいる人を見るのは、とってもつらい。だから、私から笑顔になって、悲しい人もつらい人も笑顔になれるようにしたい。だからといっても、無理やりのつくり笑顔では、よくないと思う。心の底から笑った顔だけが、人を幸せにすることができるのだ。
 3つ目は、食べ物を大切にすること。一見、戦争とは無縁のようだけれど、実は関係していると思う。日本では、どこでも食べ物が手に入る。けれど、内戦や戦争が起きている地域では、食べ物がなかなか手に入らない。ある意味で、世界は不平等だと思う。だから、せめて今の生活の、今の食べ物を大切にして食べようと思う。給食のご飯や朝食、夕食をできるだけ食べる・食べ物をそまつにしないことは少なくとも私達にできると思うのだ。
 これから私は、この3つのことを心がけて、戦争をできるだけ減らせたらいいなと思う。そして、毎日を過ごすなかで、できることを見つけたらどんどん実践しようと思う。そうすることで、毎日毎日少しずつ戦争が減っていったら…。
 昨日より今日。今日より明日。みんなが、世界中の人が少しでも幸せに、ハッピーになれるように。私の周りにいる人が、一人でも少しでも笑顔になって、少しでもハッピーになって、少しでも幸せに1日が毎日が過ごせるなら、いいと思う。それが小さな私が戦争をなくすために大きな世界にできることだと思うから。
 そして、戦争のない世界で、みんなが幸せで笑顔になって暮らし、自分の時間を、自分の好きなように過ごす。勉強や家事など、ふだん私が体験している事をいろんな人に体験してほしい!同じ世界に生まれた人間として。
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★ 優良賞
 「私の知らない彼方の青い世界」
 私立萩光塩学院中学校 3年 岩谷 真里(いわたに まり) さん

 私は、最近あるひとつの本に出会いました。それは、「青空のむこう」という本です。作者はアレックス・シアラーです。
この本には、ハリーという主人公の青年が登場します。ハリーにはお姉さんがいました。ある日、ハリーはそのお姉さんと喧嘩をしてしまいます。
「お姉ちゃんなんか大嫌い。」
と言って家を飛び出した時、トラックにひかれて、死んでしまいました。
 この本では、人は死んでしまうと「死者の国」へ行きます。そこはずっと夕焼け時で、時間のない世界だそうです。生きている時悔いのなかった人は、「彼方の青い世界」に行き、悔いのある人は、彷徨ったり、人間界に幽霊となって戻ったりすると書いてありました。
 ハリーは死者の国でアーサーという男の子に出会います。アーサーも昔死んだお母さんを探していました。ハリーはお姉さんと仲直りをすること、アーサーはお母さんに会いたいと思う気持ちが後悔となり、彷徨っているのです。ついに2人は人間界に行きました。この本の中では、アーサーとハリーは生きていた時の悔やまれる気持ちを晴らすことによって、やっと「彼方の青い世界」に旅立っていくことができました。
 皆さんは「死ぬ」こと、「死んだあと」のことについて考えたことはありますか?私はこの本を読んで、死んだあとの「彼方の青い世界」にすごく興味を持ち、いろいろなことを考え始めました。
 私は、数年前に大好きだったおじいちゃんを亡くしました。とても悲しくて、すごく泣きました。でも、おじいちゃんは、今どんな気持ちなんだろうと考えてみました。私はその時、「ふっ」とハリーのある言葉を思い出しました。ハリーは
「僕のことは心配いらない。でも、忘れないで。あなたの心のどこかに僕がいてくれればいい。だから忘れないで。」
と言いました。私は、この言葉を聞いて、私の心の中にいるおじいちゃんの存在に改めて気づくことができました。おじいちゃんは、生きている間に私たちにたくさんの思い出をくれました。おじいちゃんは自分の子どもや私たちのために一生懸命に生き、たくさんの愛情をくれました。だから、おじいちゃんは死んでも私たちの心の中に生き続けているのです。生きている時、たくさんの人のために生きた人ほど、多くの人の心の中に生き続けると思います。今、おじいちゃんは、きっと後悔せずに死んだのだと考えられるようになりました。今はもう、「彼方の青い世界」に行っていて、また、新たな命になっていると思います。そう思うとおじいちゃんの死も淋しくなくなってきました。
 死んだあとのことは誰にもわからないし、決まってもいないけど、私はこの本のような世界があって欲しいと強く思います。私は、この本を読んで、私も後悔なく死ねるように悔いのない人生を送りたいと思いました。彷徨って「彼方の青い世界」にいけないなんて悲しすぎると強く思いました。
 死んだとき、幸せに思えるには、たくさんの人のために生きること、そして、生きている時間を大切にすることだと思います。嫌なこと、辛いこと、苦しいこと…。逃げてばかりいると必ず後悔してしまいそうです。死んだあとのことを考えることによって、人を大切に、今を大切に、そして力いっぱい生きたくなりました。
 この本のおかげでたくさんのことを思い出し、たくさんのことを考えたことによって、死ぬということはとても難しいことだと感じました。それと同時に今を大事に生きなければと強く感じました。毎日の生活を振り返ってみると、大切な時間をいい加減に過ごしてきたような気がします。これからは、この本を読んで感じたことを思い出し、友達や家族を大切にし、今を大切に生きたいと思います。
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★ 優良賞
 「今私が考えていること」
 岩国市立美和中学校 3年 岡原 奈津美(おかはら なつみ) さん
 
 「大きな声であいさつをしよう。」これは、私が職場体験学習で美容室に行ったとき、入り口で思ったことです。実際、中に入ってみると自分が思っていたほどの大きな声が出ず、ますます緊張が高まってきました。けれど、美容師の方がやさしい笑顔であいさつしてくださったので、緊張がほぐれました。それから私は実際に掃除をしたり、タオルをたたんだりしていくうちに
「終わりました。次は何をしましょうか。」
と、次はどんなことをするんだろうと期待しながら聞くことができるようになっていきました。
 私の知っている方がお客さんとして来られ、
「久しぶり。」
といわれた事もありました。恥ずかしく照れくさいような気持ちもしましたが、仕事が楽しくなってきました。
 美容師はお客さんに触れる仕事です。だから、体は常にきれいにしておかなければなりません。また、常に明るくお客さんと会話をすることも大切な仕事です。どんなに嫌なことがあっても、やらなければいけません。最初は辛いこともあったりする仕事ですが、信頼されるようになれば、とても楽しく仕事ができるようになってくる職場だと思います。私が行った美容室の美容師の方は、その日にその人がどういう切り方をしたとか、どういう色に染めたとか、どんな会話をしたかなど、一人ひとりの事について書いていました。お客さんに満足してもらえるために、見えないところでも努力されているのです。ただ髪を切るだけ、パーマをかけて染めるだけではないのです。こういう事が信頼されることにつながるのかなあと感じました。
 美容師以外にも大変な仕事はたくさんあります。しかし、それをこなしている人たちはすごいと思います。この人たちは最初から仕事がうまく出来たわけではありません。最初は皆、私が職場体験学習で体験したように、緊張してうまく出来ないんだと思います。だから、たくさん努力していって一人前になっていけるんだろうなと思います。努力することは、とても大切なことです。たとえば医者は、手術するとき最初からさせてもらえるわけではありません。まずは先輩がやるのを見て勉強していきます。料理屋も同じで、最初は野菜を切ることから始めます。それから先輩から学んでいくんだと思います。皆、努力を積んで一人前になっていきます。だから私は将来の目標を決めて、それに向かって努力したいと思っています。
 将来の目標を決めてそれに向かって努力している人を私は今、知っています。それは私の姉です。姉は今、歯科衛生士になるため専門学校へ通っています。姉は高校生の時、専門学校に合格するために必要な科目を勉強したり、オープンキャンパスに行ったり、模試を受けたりと色々努力を積み重ねていました。また、学校の課題研究では、習ったことのない専門的なことを、インターネットや図書館で勉強してまとめていました。目標があり、夢を持っている人は努力の先にある将来の自分の姿を想像することで、辛いことがあってもがんばっていけるのではないかと思います。
 人は皆何をするにも緊張をもっていると思います。うまくいかないことがたくさんあります。でも努力を積み重ねていくことが大切なんだと、姉や周りの人を見て思いました。ですが私は、あまり努力する方ではありません。やろうと決めた事を途中で投げ出す事がよくあります。例えば、テスト期間中に部活がないので家で筋トレをしようと思うのですが、2日や3日でやめてしまうことがあります。だからスポーツでは、小学校の頃からずっとやってきたバスケットボールを全力でやって、勉強では苦手な科目にも積極的に取り組もうと思います。また、いろいろな仕事についていい面や悪い面もありますが、家族や友人、先生などの話をたくさん聞きたいです。
 そして、自分の目標を確実に持ちたいと考えています。
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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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