『本当の友達関係とは』
周南市立太華中学校 3年 水沼 花梨
教室で響く笑い声。それは、いつも、みんなにとって「楽しい」と感じられるものでしょうか。私は、時々、一緒に笑えない自分に気づくことがあります。例えば、授業で誰かが答えを間違えたとき、冷たい笑いを感じます。「なんでこんな問題も解けないわけ?」というセリフが聞こえてきそうな笑い。皆さんは、この「笑い」について、どう思いますか。
小学校2年生の頃、算数の時間に、答えを間違えたことがあります。周りから聞こえる笑いが、自分を蔑むように聞こえ、その後、自分から手を挙げることができなくなりました。
桜が舞う季節が何回か過ぎたある日、クラスメイトが容姿を批判されているところにでくわしました。「あなたもそう思うよね」と声を掛けられ、「そうだね」と思わず言ってしまいました。いろいろな経験を重ねて、今では、同調圧力を掛けられても人に流されない自分の芯ができました。しかし、それと同時に、「自分もそう思われているのではないか」という不安に駆られるようになってしまいました。他の人の話題を耳にしても、自分のことを言われているように辛くなったり、自分が笑われているのではないかと聞き耳を立てたりしてしまう自分自身が嫌になります。友達と仲良くしていても、「自分は友達を演じているのではないか。本当の友達ではないのではないか」と自分自身を疑ったりしてしまうのです。
ふとしたきっかけで、こんなふうになってしまうのは、きっと、私だけではないでしょう。もしかすると、もっと深刻に捉えて、自分を傷つける人もいるかもしれません。
人は、なぜ、自分より下の人を見つけることによって安心したり、自分という存在を認めてもらえない悔しさを他人にぶつけたりするのでしょうか。それは、人の弱さの表れだと私は思います。いじめも、差別も、迫害も根っこは同じ。そう考えると、これらは本当に根が深く、どうしようもないことなのかもしれないとすら思えてきます。そして、そのきっかけになるのは「小さな違い」だったりするのです。さらに、自分が矢面に立ちたくないために、本心とは違う反応をしてしまうことも多く、これも人の弱さの表れだと思います。「目立たないこと」「同じであること」は、そんなに大切なことなのでしょうか。
「多様性」という言葉を、よく耳にします。話し合いの場面でも、いろいろな意見が出る方が、気づきや発見があって盛り上がります。まして、異なる経験をもつ人たちが集まる集団でどんどんアイディアを出すことができたらどんなに楽しいでしょうか。
私は吹奏楽部に所属していますが、本当にさまざまなキャラクターの人がいます。そして、それぞれの奏でる音は、それこそ多種多様です。そして、それが一つに合わさった時の重厚感に、いつも感動することができます。
それぞれの人がもっている個性や視点を、「ずれている」とか「性格悪いよね」と、ネガティブな言葉ですぐに「はじく」のではなく、いろんな考え方を受け入れ、交流することで、私たちを取り巻く世界は「音楽」みたいに豊かになっていくのではないか。最近、私はそのように思います。
周囲の反応を気にせず発言でき、心から「楽しい」と感じながら笑い合えるクラスになるといいなあ。そのためには、どうするべきでしょうか。
「隗より始めよ。」私にできることを考えてみました。まずは疑心暗鬼をやめて、明るく笑うこと。さらに、友達の発言に「いいね!」と反応すること。ちょっとくらい間違えてしまっても「大丈夫!」と思い、笑いとばせるような友達関係を築きたいです。私から明るく、楽しい波が広がっていきますように!