『配慮と差別の境界線』
田布施町立田布施中学校 3年 山本 小春
私はアセクシャル、無性愛と呼ばれるセクシュアリティをもっている。
近年、LGBTQ+の言葉や理解が深まったことにより、私のような珍しいセクシュアリティへの偏見が少なくなっている。そして偏見が少なくなるだけでなく、それを個性として認めてくれるようになった。
だが、最近これらが認められるようになり、ある問題が表に出てきた。それは、配慮と差別の境界線をどうするかという問題だ。
私は以前、好きな人について聞かれたことがあった。その時は、この質問には特別何とも思わなかったのだが、別の友人に「小春は少し考え方が違うから話変えよう」と言われたことがあった。私は、このセリフがどうにも頭から消えなかった。その友人も、私のことを思って話を変えてくれたこともわかっていたのだがどうしても、消えなかった。
そんなとき、「ポリティカルコレクトネス」のやりすぎが問題とされていることを知った。私はこの問題を知ったとき自分と同じようなことで悩んでいる人がいるのだと初めて学んだ。「ポリティカルコレクトネス」「ポリコレ」とは性のことに限られたものではなく人種や年齢、障害の有無などによるマイノリティ・社会的弱者を守るものであるのだが、この「ポリコレ」というものに配慮しすぎており、最近ではその本来の目的が忘れられているように感じる。それは、インターネット上での炎上や映画などの作品群への表現の制限などだ。
本来、人を守るためにある「ポリコレ」をインターネット上での攻撃として使ってもよいのだろうか。そして、「ポリコレ」によって表現を制限してしまっても良いのだろうかと思う。
インターネット上では、「ポリコレ」への配慮ができていないと炎上したり、逆に「ポリコレ」への配慮が難しいということで共感を呼んだり、とても線引きが困難な状態がある。そのため、インターネットというとても広い世界での「ポリコレ」に関するルールや常識を作りそれをたくさんの人で発信することができればそこからインターネット上だけではなく現実でも使えるものになると考える。また、「ポリコレ」についてのルールや常識を作ることで、今よりもよりよい作品製作が行えるのではないだろうか。そして本当の意味での表現の自由がなされると思う。
加えて、私が以前経験したように配慮したつもりであってもそれが別の意味や差別のように感じられることがある。その感じ方は、人によって違いが少なくとも生じてしまうため「ポリコレ」に関するルールや常識はより多くの人と話し合い、多くの変化を繰り返しながら決めていくものだと思う。
だからこそ、たくさんの人が利用しているインターネットを使うことはこの問題にとって有効だ。
このように、差別や偏見が順調に少なくなってきて、私のような珍しいセクシャリティをもつ人が生活しやすくなっている中、配慮と差別の線引きが難しくなってきている。
そのため、私はインターネットを用いて、たくさんの人と話し合い、配慮と差別の違い、そして「ポリコレ」へのルールや常識をつくることによって「LGBTQ+」や「ポリコレ」などの発信をしやすくすると同時に今まで明確に決まったルールがなく手探りであっただろう映画などといった作品群がこれにより本当の意味での表現の自由になるのではないだろうか。
そして、今まで「LGBTQ+」や「ポリコレ」といったものを自分は関係がないと思っていた人にも作品を通して知ってもらうことができるのではないだろうか。
最後に、このように配慮と差別、そして、「ポリコレ」などのルールや常識ができ、どの立場にいる人であっても明るく楽しく過ごすことのできる未来がやって来ることを心から願っている。