少年の主張コンクール当日の発表者の皆さん |
最優秀に選ばれた玉田恵子さん |
7月31日に県庁にて、県内1,342名の応募の中から選ばれた、8名の中学生が学校生活や日常生活の中で日頃考えていること、同世代や大人に訴えたいことなどを発表しました。
発表内容と成績(最優秀1名、優秀2名、優良5名)は以下のとおりです。
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【最優秀賞】
「生きること」
下関市立向洋中学校 三年 玉田 恵子
私は最近、テレビや新聞で、私たちと同じくらいの年齢の人が親や友達を殺したり、自ら命を絶とうと自殺をしたりした、という報道を何度か目にしたことがあります。
なぜその人達は、大切な家族を殺してしまったり、自ら命を絶とうとしたりするのでしょうか。
何か大きな理由があったのかもしれませんが、私には全く理解できません。
たとえ何か大きな理由があったとしても、嫌な思いをしたから、辛かったから、と言って人の命を、また自分の命を簡単に消してしまってもいいのでしょうか。こんな考えを持った人が増えてくると、今の日本は、あるいはこの世界はつぶれてしまうと思います。
私は修学旅行で、神戸の「人と防災未来センター」に行き、語り部の方の話を聞き、阪神・淡路大震災の惨状を展示物で見てきました。また、小学生の時には、広島に行き、原爆ドームや原爆資料館で戦争の怖さや悲惨さを目の当たりにしました。
これらのことから、地震などの自然災害によって、思わぬところで突然命を落としてしまう人々、テロや戦争によって、無意味に殺されてしまう多くの人々がいることに、私は気づきました。また、毎日病気と向き合い戦いながら生活している人もたくさんいることでしょう。
このように世の中には、生きたくても生きていくことができない人がいることを、多くの人によく知ってもらいたいと思います。そうすれば、一人でも多くの人が生き続けるきっかけになるのではないかと私は思います。
私が小学六年生のとき、父は亡くなりました。父の死を知らせる一本の電話が入ったとき、私たち家族の心の中で何かが崩れさっていきました。なぜ私の父なのか。毎日、家族や会社のために一生懸命働いて私たちを大事にしてくれていた父がなぜこんなに早く死ななければならないのか。何度も何度も問いかけ、悔やみ、それと同時に、父の存在の大きさ、命の大切さを考えさせられました。父がたくさんの人に支えられて生きていたことを知りました。また、残された私達家族もたくさんの人の支えのおかげで、前向きに生きようと思うことができました。父の死で多くの悲しみや不安を背負うことになりましたが、命の大切さについて深く考えることができました。
私はこのようなことを経験したからこそ、一人でも多くの人に、殺人や自殺をやめて、命を大事にしてほしいと心から思っています。
そして、誰かに必要とされている、ということを忘れないでほしいのです。人はみんな誰かに必要とされているから、また、たくさんの人に支えられているからこそ、笑うことができ、命のある限り生き続けることができるのです。
先日、ふとテレビを見たときに、「私は必要とされていないのではないか。」と言っている人を見たことがあります。本当にそうでしょうか。私は違うと思います。必要とされない人などこの世にはいないはずです。そう思えない時があったとしても、みんな誰かに大切にされているということは確かだと思います。その、みんなに大切にされている命を感じて生きていかなくてはいけないと思います。時には失敗することや挫折することもあるでしょう。けれども、自分を大切に思ってくれる友達がいるということを忘れずに、またその家族や友達が困ったときに自分が少しでも支えることができるように、思いやりをもって生きていきたいと思います。
私たちが大人になるころには、今より温かく平和な世界になっていることを願っています。
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【優秀賞】
「生きていくということ」
周南市立富田中学校 二年 大石 将敬
「お母さん、これ何…。」
ある日、一冊のスクラップブックを見つけました。
「あっ、そこにあったんだね。懐かしい。」
と言いながら、そのスクラップブックを手に取って、パラパラめくっている母。
「でも、もう、捨ててもいいよ。」
という返事。中を見てみると、数々のドキュメンタリーのコピーや記事などが貼ってありました。
僕は、二才半の時、交通事故にあい片足を失いました。そして、義足の生活を余儀なくされた頃から、その記事を集め始めたらしいのです。そういえば、どこからか情報を得ていたのか福祉展には、少し遠くても行っていたり、また、テレビのドキュメンタリー番組もビデオに録画したりして、半ば強制的に見させられていたように思います。
「この人両足義足だって。」「すごいね。」という感じでした。これらは、僕が成長するに従い、いじけたり、反発してくることを予想して早いうちから、自分より大きいハンディを持ちながらも精一杯生きている人達の姿を見せておきたかったようです。でも、そう簡単にいくはずもなく、幼稚園、小学校と集団生活をしていく中で、どうしても避けて通れない行事がいくつかありました。
一番嫌だったのが、水泳の時間で、人前で片足を見せるのにはかなり抵抗がありました。
「なんで、マー君には足が一本しかないの。」と聞かれたり、無い片足をのぞき込まれたり、見られたりと苦痛の連続でした。そして、運動会や持久走大会。遠足などは、別の意味で大変でした。というのもずっと歩いていると義足の中は摩擦で足はふやけて、皮膚がすりむけたりして、夜は薬を塗って包帯を巻いてはれた足のところを冷やすという具合です。
次の日は更に大変で、義足をつけるのが痛く、片足をひきずって歩いていると、その姿を目でずっと追われたり、片足をひく真似をされたりと、嫌なことがいろいろありました。そういう日には必ず、兄に話しました。
「人は人。自分は自分。気にするな。前だけ見て、ファイトじゃ。」
それで終わりです。
そして、中学生になったある日。父に
「お父さんに、僕の気持ちがわかる訳がない。」と、感情をぶつけて言ってしまいました。小学生の頃は、ただ黙って聞いているだけの父でしたが、その時は少し違いました。
「お前の気持ちの全ては、理解できんかもしれん。でも、毎日お前に接している親の気持ちを少しでも考えたことがあるんか?」
僕の目をじっと見て言いました。その時、一瞬、僕は心臓の音が急に大きくなったように思いました。ふと台所にいた母の後姿を見ると、僕と同じように背中が震えているのが見えました。
僕は今まで、『自分一人が大変つらい思いをしているのだ。』とばかり思っていたのです。でも、そうではなかったのです。僕の苦痛は家族みんなの苦痛でもあったのです。そのことを初めて思い知りました。そして、涙があふれました。立ちすくんでいる僕に父は、
「おい、風呂に入るよ。」と言い、
ポンポンと頭を二度叩きました。
今、僕達の年代で自ら命を絶つ事件や事故が増えています。とても悲しく、残念でしかたありません。世の中には、長年病気に苦しんでいる人やハンディをかかえながら一生懸命生きている人が大勢います。何年か前のことですが、家族皆で岡山にパラリンピックの国体競技を見学に行きました。当然そういう大会では、ハンディを持った人たちがたくさんいて無我夢中で競技をしている姿に感動したことを覚えています。でも、それを支えているボランティアの数の多きさにも驚きました。そして、昼食の時、となり合わせになった車椅子の人とそれを押されている高校生のボランティアの方と話をすることができました。その人は、障害を持った人が頑張る姿を見ることで、自分も生きる勇気、元気がわいてくると言われていました。
僕もそうですが、人間って完璧ではありません。落ち込んだり、泣いたり、笑ったりしながら、自分以外のたくさんの人と関わりながら生きていかなくてはいけません。人を変えることはなかなか難しいことですが、自分を自分自身を変えることはできると思います。大人でも子供でもない、中途半端な今。イライラしたり、何事にもウザったいと思うときもあります。そんなとき、素直な気持ちを声に出して、家族、友達、先生にぶつけてみたらいいと思います。その話に耳を傾けてアドバイスしてくれる人がきっと一人、二人いると思います。
『生きていくということ』
それは一人ではないということ。僕は強く、前向きに生きていきたいです。
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【優秀賞】
「平和について今の私たちにできること」
宇部市立桃山中学校 一年 米田 理佳
私は、小学五年生の夏に宇部市文化会館で映画を見ました。「ガラスのうさぎ」という映画で一人の女の子の実話をアニメにしたものでした。私は、この映画を見てとても感動しました。その子は、戦争でお母さんとお父さん、妹二人を亡くしても、一生懸命前向きに生きていこうとしていました。戦争は、たくさんの大切な物を失ってしまうのだと知りました。
その映画の最後に、「戦争をしようと思うのも人の心です。戦争をしないと思うのも人の心です。戦争をしないと思う強い心の輪を、しっかりと結んで拡げていきましょう。」とありました。私はこの言葉にとても感動して、そうだなと共感しました。
その翌年、小学校六年生の時には、詳しく戦争について学びました。秋には、修学旅行で広島の原爆資料館を見学しました。そこには、原爆で黒こげになったお弁当や三輪車、服やちぎれた指などがありました。もしも、自分がこんな目にあったらと想像すると、とてもこわかったです。
資料館では、原爆の被害を受けた語り部さんの話も聞きました。疎開していた語り部さんは助かったけれど、広島にいた母親と姉が被爆し、お姉ちゃんは爆風で飛ばされたまま、未だに帰ってこないと言っておられました。とてもつらくさみしい話でした。そして、こんな悲惨な出来事を絶対に忘れてはいけないとおっしゃいました。
しかし、悲しいことに、今でも世界のあちこちで戦争が起こっています。また、戦争で親を亡くし、おなかがすいても何も食べられない子供たちや、お金がなくて道路などで暮らしている人もいます。それなのに、世界では、原爆などの武器をたくさん作っています。
私は毎日ご飯も食べられるし、学校にも行けるし、服だって何だってあります。それが普通だと思っています。でも、それが普通だと思っているから、日頃は困っている人たちのことを考えないのだと思います。原爆などの武器を作っている人たちも、自分にはお金があるから、気付かないし、考えないのだと思います。だから、どんなにお金があっても、不自由がなくても、きちんといろいろな人の立場になって考えることが大切だと思います。
日本には、憲法九条というすばらしいものがあります。この憲法は、戦争は二度としてはいけないということが書いてあります。そのおかげで、日本は六十年間、戦争を起こすことも、戦争に巻き込まれることもありませんでした。だから、何があっても戦争放棄の立場をずっと守り続けてほしいです。
私は、戦争は絶対にしてはいけないと思います。でも、中学生には、戦争という大きなことを止めることはできません。だから私たちにできることを三つ考えました。
一つ目は、いろいろな人の立場に立って考え、自分の周りにいる人たちを大切にすることです。友達を差別したり、いじめたりすることをやめ、みんなで助け合って生きることが、平和につながると思います。
二つ目は、本を読んだり、語り部さんをはじめ、いろいろな人の話を聞いたりして、平和について深く知ることです。戦争のこと知るのはこわいけれど、きちんと昔の戦争のことや、平和について知り、自分の考えをもつことが大切だと思います。
三つ目は、正しいことを正しいと言えるようにすることです。今は、なぜか、正しいことをしている人たちが、「まじめすぎ」などと言われて差別されています。だから、正しいことを正しいとみんなで言っていけば、本当に正しいことが小さい子供にも分かって、間違った行動をしないですむはずです。
他にもたくさん、私たちにできることはあると思います。世界中を平和にすることは、今の私たちにはできないけれど、平和を大切にしようと思う気持ちをもち、できることから始めることならできます。みんなが、このままではいけないと平和について考えれば、必ず世界は平和になるはずです。
みんなが、世界中の全ての人たちが、いつも笑顔で普通に暮らせる日が来てほしいです。それが平和だと思います。
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【優良賞】
「僕達の未来」
平生町立平生中学校 三年 山本 寿隆
今、世界は大きく変動している。二十一世紀、技術や化学は発展を続け、一分一秒で世の中は大きく変わる。そんな社会の中僕達は未来に希望を託し、今を精一杯生きている。
現在の人類は、技術や化学は進歩したものの課題も多くある。その一つが「環境問題」だ。年々深刻となり後退をし続ける一方である。この問題は個人だけの問題ではない。全体の問題だ。僕は以前「ヒートアイランド現象」という問題について勉強した。これが特に問題とされているのが、東京だ。昼間の人口はなんと千四百万人をこえ、車の数は四百六十万台程度にまで増えるそうだ。田舎に住んでいる僕には、とても想像がつかない。
夏、冬などの季節を問わず、暖房・冷房・給湯・照明・輸送などのために某大なエネルギーが消費され、それに伴う熱が排出されるのだろう。
こうなると僕達子どもの力ではどうしようも出来ない。大人の力が必要となってくる。日本では、日本中が一体となって改善への足をふみ出し、全力をつくしていた…
しかし、自然は僕達に味方してはくれなかった。今まで人間が好き勝手にしていたことで地球はもうボロボロだったのだ。
そして問題は「地球温暖化」へと更に大きくなってしまったのだ。
ここで僕が心配したのが未来だ。僕達は未来を生きる。年々「地球温暖化」の影響で、気温が上昇する中、僕達は一体どうなる?これ以上気温が上昇し続ければ、日本に雪が降らなくなるのではないか、と僕は思う。日本には四季があり、自然にとても魅力があるところが最大の長所だと思っている。それがもしなくなったら、そんな日本を想像するのはとても怖い。
異常気象の数も増え、まるで地球が泣いているようだ。
「どうにかしてほしい。」
これが僕の心中だ。
最近では、ニュースを見たり、新聞に目を通したりすると、よく「環境問題」に関する記事を目にする。すると僕は、
「僕に出来ることはなんだろう。」
と、よく思う。「ゴミ拾い」や「レジ袋の不使用」など、深く考えれば、僕にも出来ることはたくさんある。それを、どこまで実践することができるかどうか、これが大きなカギとなるにちがいないと思う。
今、地球は、かつてない大きなピンチに遭遇していると思う。
未来を生きる僕達のために、無限の可能性を秘めた、大人の力を貸してほしい。そして、明るい未来を共に築いていきたい。
その未来を生きる僕達は、青く輝く地球をさらに美しいものへと進化させ、次の世代、また次の世代へと技術を受け継ぎ、終わりなき人間という道を歩んでいきたいと思う。
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【優良賞】
「僕と友情」
山口県立高森みどり中学校 三年 デヘスース・エミリオ・瑞樹
結局0本で終わり、弓道場を出る。先に出ていたT君は、
「おつかれ。」
と言って僕の後から出てきたF君にも同じことを言った。T君が二本で、F君も二本、チーム合計としては四本で少なかった。
「ごめん。」
と僕は言うしかなかった。一回目の調子はどこに行ったのだろう。待つしかない。そう思い、ほかのチームが不調になることを願った。しかし、結果は一本足らず二次予選に出られなかった。
「ごめん。」
さっきから何回この言葉がでたことだろう。この言葉しか出てこなく、この言葉しか頭の中に残ってなくて…。
「いや、俺もあと一本当てなかったのが悪かった。」
みんな僕のせいと言わず自分自身を責めていた。そんなことに安心した自分に腹が立ち、気持ち悪くなってきた。
この日は弓道全国大会の日だった。開会式が終わり、試合開始。1回目、射場に入り、矢をつがえる。みんなが静かになっている中弓をひき、放つ。結果は四本中三本。調子がいい。チームとしても十二本中七本と半分以上的に当たり、みんなで喜んだ。昼食後、二回目。射場に入り矢をつがえ弓をひく。一本目を放った。ザッ。矢は的の十センチ前にささった。しかたないと思い二本目の準備をし弓をひいた。矢は一本目と同じ土の所にささった。半分以上当てるには残りの二本を両方当てないといけない。不安とプレッシャーが僕にのしかかってくる。やばいと思うごとに心が押しつぶされそうになる。三本目。一、二本目と同じ所にささった。どうして。さらに不安がのしかかり、心臓はスピードを上げて動き、自分は落ち着くことができず、四本目をひき、一本も的に当てられなかった。
この日の夜はなかなか寝ることができなかった。なぜ友達は一番当たりの少ない僕を責めなかったのだろう。この答えは簡単だった。友情があったから。これがなかったら…きっとみんな僕を責めたか、慰めの言葉もなかったはず。なぜあったのか。たぶん一緒に練習し、教え合って、励ましあったから。友情があって良かった。でも友情に頼り人まかせにしたようで、さらに他のチームの不調を願った哀れな自分に腹が立った。
東京から帰ってきても、東京のことが心にひっかかったままで、つらかった。もしかしたら僕のいない所で悪口を言っているかもしれないし、僕を恨んでいるかもしれない。僕の前で見せてくれる笑顔も、実は作り笑いとか…。自分の考えはどんどんマイナスになっていき、人に会うのが怖かった。でも、何も起こらなかった。そして、時間がかかったが来年があると気持ちを切り替える事ができた。
そして、僕はあの日の夜考えた友情についてまた考えた。友情。たった二文字の漢字のくせに、意味は深くややこしいもの。つくるまでには長い時間がかかり、小さなことで簡単にくずれ落ち、壊れてしまうものだと思われる。僕にとってそれはシャボン玉に似ている。大きさに限界はなく、いくらでも大きいのはつくれるが、丁寧に息を吹き込みながら風に邪魔されないようにつくらないと壊れてしまう。怖がりながらも、シャボン液に手をぬらしながらも、皆は空気を入れていき、シャボン玉をつくろうとする。ふくらますことをあきらめた人は、人から何もされず、人に何も期待せず生きていく。楽かもしれないけど、僕にとっては寂しく悲しい人生になるかもしれない。
あの大会は、僕に友情のありがたみと大切さを教えてくれた。
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【優良賞】
「家族のために」
萩市立相島中学校 三年 上野 由紀子
私の住んでいる相島という小さな島には、病院も会社も工場もありません。主な施設は、文化センターと学校だけ。そのため、相島でできる仕事は、限られています。相島では、漁業や農業という自然を相手にする仕事ばかりです。
相島の仕事はとても大変です。漁業といっても、相島の漁業は、海の中に潜り、サザエなどの海産物をとることが中心です。海の中に潜るのは命がけの仕事です。夏の暑い時も、冬の寒い時も関係なく、ひたすら海に潜るのです。農業も大変です。相島の農業は主にスイカの栽培や葉たばこづくりです。どちらも品質が落ちないよう常に管理をしなくてはなりません。また、台風が来たときには、畑の見回りをして作物を守らなくてはなりません。でも、どちらもとてもやりがいのある仕事です。
私の家では、漁業と農業をとても営んでいます。また、母は、学校内にある相島季節保育所に勤めています。父は、いつも海に出て、うに、あわび、サザエをとります。父が漁から帰ると、家族総出で出荷に向けて作業をします。保育所の仕事を終えて帰宅した母も手伝います。毎日毎日決まったようにしています。そして、父母は休みの日には、畑に出かけます。祖父母と一緒に、日が昇る頃に出かけ、日が沈むまで帰ってきません。スイカのシーズンには、仕事のある日にも朝や晩、時間を見付けては畑に行き、作業をしています。スイカの仕事は春にはもう始まっています。苗を作り、植え付けをしなくてはなりません。植え付けは、一つ一つ、土の上にかぶせたビニールマルチに穴を開け、そこにスイカの苗を植えて行きます。機械があれば便利なのでしょうが、そんな機械はないので、一つ一つが手作業です。畑が多いので、植え付けの時期になると毎日ひたすら穴を開け、植え付ける単純でとてもきつい作業をしなくてはなりません。植え付けてからも大事な作業が待っています。スイカが乾かないように湿度の調節をしたり、花が咲くと交配をしなくてはなりません。これに台風が来ると、さらに仕事が増えるわけです。
あれは確か私が小学校四年生の時でした。テレビの天気予報を見ていると、三日後くらいに台風がやってくるだろうというのです。
「またか。スイカが危ない。」
父が、そうつぶやき、畑へ向かいました。畑へ着くとすぐに、スイカが傷つかないようにビニールをすべて締めていきます。
台風が来ると、我が家ではそれこそ火の車になります。とても忙しくなるのです。私はけっこう早起きの方なのですが、朝私が目覚める頃には、父母は畑に行って家にはもういません。早朝起きるとカッパを着てすぐに畑へ向かい、スイカが大丈夫か見て回り、ビニールが飛ばないように押さえたり、わらでくくったりするそうです。「台風が来てもそのくらいしかできないのだ。」と父は言います。後は、何事もなく台風が通り過ぎることを天に祈るだけです。父母が帰ってくるまでは、家で待っている私もとても心配になります。父母が、けがをしていやしないだろうか、台風で飛ばされていやしないだろうかと気が気ではありません。私にとっては、スイカよりもやっぱり父母が大事です。でも、父母はスイカを守るために必死です。台風の時も、結局父母は、朝も昼もずっと畑にいました。帰ってくると、さすがの父母も
「疲れた。えらい。」
と言っていました。
仕事をするって本当に大変なんだなぁ。私は、悪天候の中でも一心不乱に畑を守る父母の姿が今でも頭に浮かびます。なぜ、そこまでしてスイカを守るのか、一度父に聞いたことがあります。
「家族のため。」
父は一言そう言いました。父母は、いつも私たち家族のために働いてくれています。
いつかこんな父母が少しでも楽ができるよう、恩返しをしたいと思っています。それから、お父さん、お母さん、無理をせず頑張ってね!
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【優良賞】
「生活の原点」
平生町立平生中学校 三年 吉岡 弘貴
僕の家族は、父と母と兄、そして僕の四人家族だった。だけど八年前に父が亡くなり、それからは祖母が僕達と一緒に住むようになった。僕は時々、父のことを思い出すことがあるけれど、不思議なことに今まで、あまり父親がいないということで寂しいと思ったことがない。それは、おそらく、家族である母や祖母が、僕が寂しい思いをしないように見守りながら、一生懸命育ててくれているからだと思う。母は朝早くから仕事に行き、祖母が家の用事をしながら、僕が帰宅するのを待っていてくれる。「ただいま。」「お帰り。」というあたり前の会話だけど、なぜか気持ちがホッとする。だけど僕は、そんな家族に暴言を吐いたり、文句を言ったりして困らせてしまうことがよくある。自分が悪いと分かっていても、意地を張ってしまい、結局、素直に謝ることができない。いつもその繰り返しだ。でも、心の中では、いつも母親を頼りにしているのは事実だ。そんな母とよく口論になったりするけど、僕がどんな生意気なことを言って反抗しても、どんな態度をとっても、母は僕の本当の気持ちを理解してくれているような気がする。母はよく「人間には喜怒哀楽が必要」だということを話してくれる。その言葉がいつも僕に安心感を与えてくれる。いわゆる僕の「精神安定剤」のようなものだ。僕にとってこの薬は、気持ちの逃げ場へと連れて行き、気持ちを切り替えてくれる効能があるように思える。
さまざまな事件や犯罪が毎日のように起こっている。僕は家族の殺人、特に、家族の体を切り刻んで捨てる事件、その他に、いじめに対する責任の問題がテレビで報じられていたのが印象に残っている。僕は思う。誰も悪いことをしようと思って生まれてきた人間はいない。毎日の生活環境が、心の中を少しずつ変化させていき、やがて、気持ちというハンドル操作を誤って、パニック状態に陥った時、人間は考えられない行動をしてしまうのではないだろうか。何か事件が起こるたびに「今の社会が悪い」とか「学校が悪い」などというけど、確かにそれらも原因の一つであるかもしれない。でも、一番の原因は毎日の「生活の原点」である「家庭」にあるのではないだろうか。人間が生活していく上で一番大切で必要なのは「家族の絆」だと思う。
もし、自分がいじめにあったらどうするだろうか。我慢できるだろうか。実際のいじめは、僕の想像をはるかに超えるくらい辛くて、どうしようもないくらい苦しいのだと思うけど、それは、いじめにあった人にしか分からないのかもしれない。
最近は、悩みなどを相談できる窓口も数多く設けられている。そのような機関を利用するのも一つの手段であり、利用することは良いことだと思う。でも、生きていく上で一番頼りになるのは、やはり家族だ。そして家族になくてはならないものは会話だと思う。時には感情的になって口論になったとしても、それは決して悪いことではない。むしろお互いの気持ちを正直に話すことは大切なことだと思う。話すことによって何かが変わり、少しずつでも、良い方向へと進んでいくような気がする。
僕の家では二年前から、チャッピーという名前の犬を飼っている。毎日の世話は大変だけど、いつも家族を癒してくれるチャッピーも、今では家族の一員であり、その存在は大きいと思う。
僕はまず「家庭」というしっかりとした土台があって、それに、友達の支えや、たくさんの人々の支えによって、何事も乗り越えていけるのだと思う。悩みや不安がない人なんていない。それを少しでも取り除くことができるのが家庭であり、最も身近な社会集団である家族だと、僕は思う。
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【優良賞】
「叶うといいな」
防府市立華西中学校 二年 平川 沙耶
「将来の夢は何ですか。」
中学校二年生になった私は、この言葉によく出会います。返答に困るクラスメートが多い中、私はすかさずこう答えます。
「私の将来の夢は、理学療法士になることです。」
理学療法士という職業の知名度は低いようです。「名前は聞いたことあるけど、何をするのかはよく知らない」という人によく出会います。それほどこの職業は知られていないのです。
理学療法士とは、病気やケガによって失われた機能を、道具を使って運動したり、立つ歩くといった基本動作を練習したり、するリハビリテーション支援する職業です。
きっかけは本当に単純なものでした。ある日何気なくテレビを見ていると、「職業を紹介する」番組が放送されていました。広島のある病院で働く理学療法士の方が映し出されました。一時間放送されたこの番組を、気がつくと私と兄は食い入るように見ていました。
患者さんに合った治療の計画を立て、寄り添いながらリハビリを支援する姿にあこがれました。くじけそうになる患者さんを励まし助け、少しでも回復し、日常生活を自分の力で送れるようにとひたむきに患者さんと向き合う姿に感動すら覚えました。
私の家には祖父と祖母がいます。二人とも元気ですが、年々体のあちこちが痛くなるらしく「年を取るのはいやじゃねえ。」と時々ぽつりと言ったりします。その言葉を聞くと、少しさみしい気持ちになります。どうしたら元気にしてあげられるだろうかと考えたりもします。少子高齢化が進んでいます。お年寄りが住みよい社会、明るく楽しく過ごせる社会をつくるためにも、今から理学療法士という仕事は求められると思います。
中学校の総合的な学習の時間で、職場体験が行われます。私は、「尚歯堂」という老人施設を訪問することにしました。見ず知らずのお年寄りとどう接したらいいのか、不安は募るばかりですが、自分の夢に少しでも近づくために、どんな時でも笑顔を忘れず、学習しようと思っています。
この夢を叶えるために、何が必要なのかを考えました。その時に思い出すのが、テレビに映っていた理学療法士の姿です。患者さんの精神的支えになるための心の強さと心の広さ。人の体をあずかる責任感が患者さんの信頼を得るかぎになると思います。
残念ながら今の私にはどれも充分なもちあわせがありません。私なんかが理学療法士になれるのだろうかと不安に感じる時さえあります。そんな時、私の支えとなってくれるのは、兄です。兄は自分の夢に向かい、小さな一歩を確実に踏み出しています。その姿が私の背中も押してくれます。
人は、一人では生きていけません。支え合い励まし合い、手を取り合って生きていくものだと思います。私は兄や多くの人に支えられています。同様に私も、多くの人の夢や希望を支える理学療法士になりたいと思います。
理学療法士とは、人の喜びも悲しみも共感できる、すばらしい職業です。誰かにとっての太陽になれる職業だと思います。
明るく元気なのが私のとりえです。私の元気を、多くの人に分けてあげたいし、私の周りの人が、一人でも多くの人が笑顔になれるそんな理学療法士に、私はなりたいと思います。
私の夢は、叶うでしょうか。叶うといいな。