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山口県青少年育成県民会議

 
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平成24年度「少年の主張コンクール山口県大会」入選作品について
2013/01/30
コンクール出場者のみなさん
 山口県青少年育成県民会議では、中学生が学校生活や日常生活を通じて日頃考えていること、同世代や大人に訴えたいことを、自分の言葉でまとめ、その意見を発表する機会を提供することにより、広く県民の皆様に少年に対する理解を深めていただき、青少年の健全育成に資することを目的として「少年の主張コンクール」を行っています。
 平成24年度の山口県大会は、「青少年育成県民のつどい」と併催し、平成24年8月25日(土)に山口市の「カリエンテ山口」(山口県婦人教育文化会館)において開催しました。
 書類選考による1次審査、2次審査を経て、8名の生徒の皆さんに発表していただきました。
 審査の結果、最優秀者1名、優秀者2名、優良者5名を次のとおり決定しましたので、作品とともに掲載します。



☆☆☆【最優秀賞】(県知事賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「特攻隊員の心を想う」
 宇部市立桃山中学校 3年 秋山 鈴翔 さん

 『お母さんへ。大元気で。でっかい奴を沈めます。』
 この短い手紙は、私が修学旅行で知覧特攻平和会館を訪れたとき、最も印象に残ったものです。若い特攻隊員の、大切な母への想いと、彼に課せられた、大きな使命感が凝縮されていて、胸がしめつけられました。彼のお母さんは、この手紙を読んだとき、いったいどんな気持ちだったのでしょうか。命と引き替えに使命を果たした、大切な息子の姿が目に浮かび、声を上げて泣いたに違いありません。そして、息子を誇らしく思う一方で、最愛の息子の「戦死」を受けとめなければいけない、という現実。戦争という非常事態の中で、皆必死に耐えていたのだと思います。
 平和会館では、隊員の笑顔の写真が目につきました。彼らはなぜ笑顔なのか、私にはどうしても分からず、とまどいました。それは死の恐怖をかき消すためなのでしょうか。しかし、一人の人間として考えれば、たとえどんな理由を付けたとしても、死は恐ろしいにちがいありません。
 語り部さんは、険しい表情でおっしゃいました。「16才から30代前半の若者の隊員は、特攻前夜、声がもれないように毛布をかぶって泣いたのです。」と。苦しみを忘れるためのお酒にも、全く酔えない者、一人になると、沈みこんでしまう者もいたそうです。
 実際に見学した三角兵舎と呼ばれている宿舎は、真ん中に通路があり、その両側に大人一人がやっと横になれる幅のスペースが、奥に続いていました。ここで過ごした人々が大空に散っていったのかと思うと、その姿が目に浮かぶようで、胸がしめつけられてたまりませんでした。そして、写真に残された笑顔とは裏腹に、彼らは己の恐怖や寂しさと必死で戦っていた、ということを思い知りました。
 展示されている手紙の文面や写真の表情は、どれもが親や愛する人が悲しまないよう、精一杯気遣ったような気がしてなりませんでした。出撃の朝、女学生たちに見送られながら歩く隊員の姿は、ごく普通の若者に見えました。数時間後にはもう、この世にいないはずなのに、そのほとんどが微笑んでいるのです。彼らだって軍人である前に人間です。本心は死にたくなかった、生きて帰りたかったにちがいありません。その苦しみや悲しみは、すさまじかったはずです。しかし、すべてを乗り越えた姿が、そこに残されていたのです。彼らの写真の中の笑顔には、死にに行く者の最後の優しさが込められているのではないでしょうか。
 出撃の朝、片道分の燃料だけを積んだ飛行機に乗る特攻隊員は、飛行機を操縦して、体当たりする訓練しかしていなかった、といいます。展示されていた特攻機を見ながら、私は思いました。機体に乗り込む瞬間、地面から足が離れるときの感覚は、彼らにとってどういうものだったのでしょう。きっと、二度と歩くことのない地面と共に、大切な親や家族とも別れる現実を実感したのではないでしょうか。
 愛する親や家族を守るため、命を散らした彼らの最後の叫びは「天皇陛下万歳」ではなく、そのほとんどが「お母さん」だったそうです。国のため、天皇陛下のために、命を捧げることが正しいことだと教え込まれた当時、戦争に行く兵士達は生きて帰ることなど考えていなかったはずです。しかし、その「国」というのは、大切な人や家族のいる国、という意味が強いのではないでしょうか。そうやって自分を納得させなければ、命を捧げることなど不可能だったにちがいありません。
 私達が平和に暮らしている日本で、過去、これほどまでに壮絶な現実があったということを、私達は決して忘れてはなりません。たとえ想像することしかできないとしても、命をかけて戦った、多くの人々の心を想うことは、戦争という悲劇を二度と繰り返さないために必要なはずです。彼ら特攻隊員に使命があったように、私達にとっては、この現実と彼らの想いを風化させないことが使命なのだ、と確信します。そして、そうすることが平和を維持し、戦争のない未来につながる第一歩だと信じています。



☆☆☆【優秀賞】(県教育長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「強い意志」
 周南市立富田中学校 3年 森國 華子 さん

 今から約1年前、東北で東日本大震災が起きました。今までにない巨大地震でたくさんの被害を受けました。私は直接の被害を受けたわけではないけれど、テレビや新聞などで目にした光景はとても悲惨なもので大きな衝撃を受けました。
 あれから約1年。今では、震災の時に被災地で発生した膨大な量のがれきの受け入れ先がなく、町の復興がなかなか順調に進まない状況だというニュースをよく聞きます。
 始めわたしはどこの地域も快くがれきを受け入れるのだと思っていましたが、実際にはそうではなく、たくさんの県や市が拒否している状態だということが分かりました。これは、がれきに含まれている放射能がとても危険で、受け入れ先の住民達が受け入れを反対しているからです。きっと、「自分たちが犠牲にならなくてもいいだろう」「どこかがきっと受け入れてくれるだろう」という人任せで自己中心的な考えからこのような状態になったのではないかと思いました。
 震災直後は、協力・助け合いなどの前向きな言葉をたくさん言っていたのに、自分たちの生活に影響があるとなると、他人事みたいになるのはとても自分勝手なことだと思います。確かに放射能は誰もが怖いし、自分の住む地域に入れたくないという気持ちは私にもありますが、ただ拒否するのではなく、状況を考えて皆が少しずつ我慢や努力をすることで、大変さを少しだけでも分かち合うことは必要だと思うし、しなければならないことなのではないでしょうか。
 私はこのニュースから二つのことをやろうと思いました。
 一つ目は人任せにしないで自分からやるということです。
 私自身も学校などの集団の中で生活していると、つい「自分くらいは・・・」という人任せな行動をしてしまいます。
 がれきの受け入れは大きなことだけれど学校生活の中にも似たようなことがたくさんあると感じました。体育のランニングの声や返事、掃除なども同じだと思います。人数が多いと頑張っている人に埋もれてしまいがちだけれど、自分をしっかりと持って、今何をすべきかを常に意識して生活していきたいと思います。一人ひとりのちょっとした気持ちで大きな力になると思うので自分から進んでやるという気持ちを持っていきたいです。
 そして一部の人だけが頑張るのではなく、全員で頑張っていける集団になりたいです。
 二つ目は、言うだけでなく行動に移すということです。
 言葉で言ったり書いたりするのは簡単なことだけど行動に移すのは難しいし大変なことです。
 目標なども掲げるまでは簡単なことだけど達成するには努力はもちろんのこと、我慢や犠牲も必要です。でも、それを強い意志を持ってやり遂げられる人になりたいです。
 昨年の震災後、全国からたくさんの温かい言葉や多くの募金や物資が送られていました。そのような全国からの支援は、被災地の人たちの生活を支えるのに、もちろん役に立ったと思いますが、でもそれは、安全なところから、自分たちの生活を犠牲にしない範囲でのほんの小さな協力であり、本当に被災地の人たちと同じ立場にたっての支援ではなかったのかもしれません。
 優しい言葉を言ったり、思いやりの気持ちを伝えたり、高い目標を掲げたりすることはすごく大切なことだと思うけれど、それを実際に行動に移してこそ、その言葉に本当の意味があると思います。
 今回の震災後のがれきの問題を考えて、あらためて自分の言葉に責任を持ち、実行できる人になりたいと強く思いました。



☆☆☆【優秀賞】(県民会議会長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「みんなの笑顔のために」
 周南市立熊毛中学校 3年 前田 敏明 さん

 3月始めに、以前からの持病であった心臓病の再発で入院した祖父は、95歳である。本人の強い意志と病院の方々のおかげで3月半ばに無事退院した。しかし、高齢で手術ができず完治したわけではないので自宅で薬での療養となった。たった半月の入院生活だったのに歩行が困難になり、ほとんど部屋で寝て過ごす毎日になった。以前の、仕事が大好きで元気一杯の祖父の姿はそこにはもうない。
 僕はそれを現実として受け止めることが難しく、ついつい素っ気ない態度を取ってしまう。心ではめちゃめちゃ心配で優しい言葉をかけたいけど、学校から帰っても部屋の外から「ただいま」と声をかけるだけである。
 ある日高校生の姉が、夜遅く部活を終えて帰ってきて「ただいま」といつものように声をかけた。すると、「今帰ったんか、えかった、よう帰って来たのう」という声が聞こえた。母が、「おじいちゃんはあなたやお姉ちゃんやお父さんが出かけた後、毎日、『早う帰って来んかのう』と言っているのよ」と話してくれた。みんなが出かけた後は心配ばかりしているようだ。最近は今話したこともすぐ忘れてしまう祖父でも、僕たち家族のことがいつも心の中にあるのだろう。だから、それからは帰ったら必ず祖父の部屋に行き、話をすることにした。何気ない一言でも祖父は嬉しそうに聞いてくれる。僕もそんな祖父の笑顔を見るとほっとして心が温かくなる。
 退院してしばらくの間、祖父は昼夜逆転と不安症が重なり、夜中に2時間おきに母を呼びマッサージをしてもらったり、昔の話をしたりして過ごしていた。母は、「久しぶりに睡眠不足実感中。あなたたちが赤ちゃんの頃の夜の授乳みたいで懐かしいなあ」と笑っていう。母は笑顔だが、かなり疲れもたまっているだろう。
 そこで僕は何かできることはないか、母が喜ぶことは何かと考え、小学校の時によくやっていた肩たたきを毎日することにした。母は気持ちよさそうに「サンキュー最高だあ」と喜んでくれる。姉は母と友達みたいに仲が良く、最近は「女同士の話ができるね」と楽しそうだ。これが姉の考える母へのストレス解消法なのだろう。介護する母の負担を少しでも軽くすることが僕たち姉弟の役目なのだ。
 一昨年の冬、倒れて入退院を繰り返し半身不随になった祖母は、現在介護施設に入所している。祖母が倒れた時、母は好きだった仕事やボランティア活動を辞め、介護する決断をした。しかし、家での介護は限界があり、家族で話し合って祖母の一番納得する方法として、新設される施設の開所を待ってそこに入所した。自宅では食欲もなく、毎日の入浴も困難な祖母だったが、今では親切な介護士さんたちのおかげで、1日3食とおやつまで食べられるまでに回復した。寝たきりだけど、僕たちが会いに行くといつもきれいな洋服を着て何か話したそうに微笑んでいる。帰り際、必ず力の入る左手で握手をする。帰りの車中で父が「いろんな人達にお世話になって、ありがたいね」とつぶやいた。
 少子高齢化社会が進み、介護は誰にとっても身近な問題になっている。誰もが介護される側になる可能性がある。だからこそ誰か一人に負担を押しつけるのではなく、家族それぞれが互いの立場を思いやり、支え合うことが大切だと思う。しかし、介護の問題を家族だけで解決するには限界がある。だから、家庭の中だけでなく共に生きる社会の人たちみんながお互い助け合い、支え合うという気持ちをもてば、この問題は解決でき、明るい社会が実現できるのではないだろうか。
 これからの時代をつくるのは、僕たち若者だ。祖父母や両親がいつも笑顔でいられるような社会を目指し、これから僕は自分にできることからやっていきたい。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「私のふるさと」
 阿武町立福賀中学校 3年 玉島 愛 さん

 私の住んでいる町にはコンビニやゲームセンターなどというものは一切ありません。車もめったに通らず、信号も、歩道橋もありません。とても不便な所です。しかし、そのかわりに豊かな自然環境と私たちを温かく見守ってくださる地域の方々がいらっしゃいます。私たちにとって地域の方々は家族同然で、とても大切な存在です。
 学校生活の中でも、地域の方々の存在はとても大きいです。とくに地域の方々が残してくださった福賀の伝統、神楽舞は私たちにとって大切なおくりものです。だからこそこの伝統をこれからも守り続けていくのが私たちの役目だと思っています。また、校内の清掃活動や神楽舞指導などいろいろな場面で協力していただいています。私たちは、運動会で元気な姿を見ていただいたり、学校祭で感謝の気持ちを伝えたりしながら少しずつ恩返しをしています。このように私たちにとって地域の方々はなくてはならない存在となっているわけです。
 ですが、地域とのつながりが深いわけがほかにもあります。それは、私たちのふるさと福賀に問題点があるからということも考えられるのです。
 私たちにとってとても大切な地域の方々、その多くはお年寄りがほとんどです。その上、子どもの数は年々少なくなっています。そのため、地域の方々の協力なしではできないことがたくさんあることも事実なのです。
 若い人たちが福賀を離れてしまうのは高校、大学、就職などたくさんのことが重なってしまうからだと思います。どれだけ福賀を思っていても、自分の夢によっては離れなければいけないときだってあるのです。
 そういう私も今年受験生で、その節目にあたります。しかし、福賀を離れても、きっと福賀のことは忘れないだろうし、いつかまた帰ってくるときがくると思います。
 問題点があるのはもちろんよくないことですし、ないにこしたことはありません。しかし、その問題点を痛切に感じる心を持った人々が多いからこそ、地域とのつながりが深くなっていると思います。大変だからこそ協力しようと思えるのだと地域の方々の優しさに触れながら感じます。
 それだけ地域のことを思っている私たちのほとんどは福賀以外のところから引っ越してきています。私もその中の一人です。最初は地域との強いつながりに疑問をもつかもしれませんが、生徒のみんなと地域の方々とたくさんの経験をすることによって徐々にそのつながりが当たり前になっていき、自分の「ふるさと」になっていくんだと思います。そうやって自分のふるさとを見つけていってほしいのです。
 先程も述べましたが、私の通っている学校の生徒数はとても少ないです。その分、一人に対する負担は相当なものです。でも、逆にいえば、それだけ一人一人がたくさんの経験を積めるのだと考えます。私も福賀に来てたくさんの挑戦をしました。今思えば簡単なことでも、あのころの自分にとってはとても勇気のいることでした。それをのりこえ少しずつ成長してきたんだなと思います。福賀にいると新たな自分を発見できたり、自分が変わったりするのかもしれません。
 私は福賀に来てたくさんの体験をしました。そして、たくさんの人に出会いました。本当に感謝しています。みなさんには自分のふるさとがありますか。みなさんにもそんな自分だけのふるさとを見つけてほしいのです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「理解しあえるって」
 周南市立和田中学校 3年 村上 知花 さん

 私が今、この社会で足りていないと思うこと、それは「世代の違う人同士のコミュニケーション」です。
 去年の秋、私は中学校の職場体験で周南市役所にお世話になりました。3日間体験させて頂いた中で、特に印象に残ったのは3日目の午前中の受付での体験です。当日は、悪天候だったこともあり、来客がまばらでした。そこで、受付で私を担当してくださった方と私が、会話をする場合が多くありました。人見知りの私は、顔をひきつらせながらも、うなずきながら、時に真剣な面持ちで、その方と会話をしました。
 その方には、当時中学1年生の娘さんがいたようですが、口数が少なく、学校で何をしているのか、何を考えているのかも分からなかったようです。そこで、ちょうど同じ年頃の私に「今の中学校はどうなっているのか。」という、とても、気になっていたことを話しかけてこられたのです。私は、娘さんの代わりに?たくさん質問をされました。
 まず、先輩とは仲よくできるものなのか?という話。その方の中学時代は、上下関係がとても厳しかったらしく、「うちの弱々しい娘じゃあ、耐えられないかもしれない。」と心配されていました。私は、「そんなことはないと思いますよ。」と答えました。なぜなら、当時の私は2年生だったにも関わらず、先輩にいたずらをしかけたり、ちょっかいを出したりしていたからです。また、その方の娘さんが通っている学校に友人がいたので、その友人との話も交えて、やさしい先輩も多いから大丈夫だと思いますと話すと、その方は安心していらっしゃいました。
 次に尋ねられたのは、今の子供は何を考えているのかということでした。これはちょっと難しい質問です。「私はゲームやパソコン、本やテレビのことばかり考えていますが、周りの友達は、いろいろ。アイドルや漫画。アニメやファッション。あらゆることに興味があるらしいです。」と答えると、「やっぱりねえ。」とニコニコ笑っていらっしゃいました。
 少しの沈黙の後、その方は聞きづらそうに「勉強は?」と尋ねられました。ちょっと私もあせって、「それなりには・・・。」と答えました。勉強については、当時、2年生になって感じていたこと、高校のこと、テストのこと、成績のことなどを話しました。受付の方はやや驚かれた感じで私の話を聞いていたようでした。今の子はゆとり教育で、のんびりして不真面目だと思い込んでいたそうです。
 最後に質問されたのは、「親をどう思っているのか?」ということでした。その方の娘さんは、最近言うことを素直に聞いてくれなくなっていたそうで、「口ごたえにとても腹が立つ。」とおっしゃっていました。その言葉に私は背筋が凍るような思いがしました。娘さんと私はまったく同じだったのです。受付の方が私の母に見えた気がして、ぞっとしました。
 私が親に対して思っていることって・・・。口ごたえする時って・・・。その原因でよくあるのは、『理解してくれないこと』なのかなあとなんとなく思い浮かべました。親をはじめとして大人は「若い者の言うことなんぞ、聞いてたまるか!」といわんばかりに私たちの言動を戒めます。たとえこちらが正しかったとしても、その非を認めません。そして、私がその正当性を主張しようとすると、「口ごたえするな。」のひと言で抑えつけます。その言葉を聞いた瞬間、「どうせ、理解してくれないし、そのつもりもないんだ。」と悲しい気持ちになります。と、受付の方に思っていることを打ち明けると、少し黙りこんだ後で、「そっかぁ・・・。」とつぶやかれていらっしゃいました。「大人には大人の思いがあるんだけどねえ。」とぽつりとこぼされてもいました。
 この日、私はたくさんのことを知り、いろいろなことを考えました。親は子のことを常に考えていること。大人が子供だった頃と今はかなり違っているということ。大人と子供で、誤解や偏見がたくさんあること。そして、大人は子供のことをなんとかして理解しようとしてくれていること。
 世代が違えば、暮らしや社会、価値観は当然違ってきます。互いに疎外感を感じたり、拒絶しあったりすることもあると思います。その食い違いをなくすために大切なことは、コミュニケーションです。もっとも簡単なのは、「話す」ことです。まずは、家庭で、なんてことないことでも、親子で話すこと。次は地域の中で、同じ場所で暮らす人たちが、祭りや作業で語りあうこと。それがだんだん大きく広がりをもっていけば、社会に世界に人のつながりが広がり、過ごしやすく、明るく、楽しい世界になると思います。まずは、互いに会話をすることがきっかけです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「大切な人たちについて」
 周南市立須々万中学校 3年 藤田 綾美 さん

 私は小学生のとき、いじめにあったことがあります。話しかけても無視され、一人ぼっちになりました。いじめられている、ということをだれかに話すことはできませんでした。一人のときに泣く、というのでたえていたのを覚えています。
 そんなとき、やっぱり母が気付いてくれました。そのいじめはスポ少でされていたので、母に「やめる?」と聞かれました。でも、仲良く笑っていた時の友達が忘れられず、「やめる」とは言えませんでした。そんな私に母が「頑張れるなら頑張りなさい。」と背中を押してくれました。
 私は今、友達と仲良く過ごせています。でも、母の支えがなければ、私は逃げていたと思います。だから、今、つらいこと、苦しいことがある人は、一番近くにいる家族が支えてくれている、ということを忘れないでほしいです。家族は自分のことを大切に思ってくれています。私はそのことを一生忘れず、過ごしていきたいです。
 では、私が家族にしてあげられることは何だろう、と考えたときやっぱり家族が私にしてくれたように私も家族を支えてあげたいなと思いました。だれかが苦しんでいたり悩んでいたりしたら、味方になって、一番近くで見守って支えてあげたいです。
 そして、もう一つあります。それは夢を応援することです。私の家族はみんな夢を持っています。その夢を追いかけていくなかで、必ず、もうやめようかなとあきらめてしまいそうになることがあります。そのとき、母が私にしてくれたように今度は私が背中を押してあげたいなと思います。ほんの小さなことでも、その人がまた頑張ろうと思えるきっかけを作ってあげたいです。
 私の大切な存在の一つに友達があります。私はいじめにあってから、やっぱり友達や周りの人たちに遠慮というか心を開くことができませんでした。いつもニコニコして、相手の顔を見て行動する、いやなことでも断れない、そんな学校生活を送っていました。
 でも、中学2年生の初めごろくらいから、やっと心を開くことができました。それは、今までも仲良くしてくれていた友達でしたが、一緒にいるうちにその子はいっつもまっすぐで、本当の自分で私と接してくれていると思いました。それなのに、私が本当の自分でぶつからなくてどうするの、と自分に言い聞かせ、少しずつ本当の自分で相手と接することができるようになりました。今では、自分らしく周りの人たちとも向き合うことができています。いつわりの自分で接すると、いつわりの笑顔になってしまうと思います。だから、私は本当の自分で心から笑顔で笑うことができます。私にとって友達はとても大切な人たちです。
 私達にはこれからいろいろな出来事があるし、高校生になると友達と離ればなれになってしまいます。でも、どんなことがあっても、いくら離ればなれになってしまっても、私は変わらず本当の自分でみんなに接したいです。面と向かって伝えるのは難しいので、これが、精一杯の感謝を伝える方法だと私は思います。
 私は家族や友達はいるのがあたり前だと思っていましたが、一人になってしまうさみしさやつらさを味わいました。でも、今ではいじめという経験は悪いことばかりではないと思っています。確かに、それは本当につらいことだったけれど、家族がいてくれることのありがたさや自分を認めてくれる友達の存在など、私が今まで気付くことのできなかったことを教えてくれました。そして、何より人の傷みが分かることのできる人間になれたかな、と思います。そういうところでは本当に私は成長することができました。だから今、つらく苦しいことがある人も逃げず、家族や友達の支えがあることを心にとめて乗りこえていってほしいです。そして、自分にとって一番大切な人は一番近くにいるということをたくさんの人に知ってもらえたらいいです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「結ぶ」
 萩市立大井中学校 3年 久保田 結衣 さん

 結衣。この名前は、父と母の絆を意味する、両親がつけてくれた、大切な名前です。
 私は中1の頃、バレーが好きではありませんでした。場の雰囲気に流されてバレー部に入ったのはいいものの、硬いボールは痛くて腕は黒いあざがいつもできていました。最初は何も分からなくて、何度も注意されて辛いことばかりの毎日でした。ただがむしゃらにボールを追いかけて、走って疲れて、家に帰るとそのまま寝て、起きると朝、の繰り返しでした。平日は2時間、休日は3時間の練習で、「いつ終わるんだろう。」と、頭の中はその言葉でいっぱいでした。
 先輩が引退してから、私達だけで後輩を引っ張っていくことになり、私はセッターでいられるように、日々の練習を頑張りました。だけど、どこか心の中で、気の緩みがあったのかもしれません。私は足首を痛めて、練習が何日かできなくなりました。
 新メンバーになってから、みんなの練習を初めて外から見た時でした。みんなは一生懸命に一つのボールを追いかけて、転がって痛いのにすぐに立ち上がり、コートに戻って仲間のプレーをカバーし合っていました。そして、何よりすごく楽しそうでした。私は今までなぜこんなに楽しそうなバレーを、辛くて嫌なものだと決めつけていたのでしょうか。そう思っていた自分が不思議で、バカだったと思いました。みんなと一緒に、あの中でバレーがしたくて仕方がありませんでした。
 私は怪我が治ってから、少しずつ大切に練習を積み重ねていきました。みんなはそれぞれもっている力を磨いていきながら、チームの支えになっていきます。一つ学年が上がり、私達に後輩という存在ができると同時に、ライバルという存在が現れました。運動神経のいい後輩、トスの上手い同級生の二人です。セッターは、コートの中で唯一の私の居場所です。しかし、私はセッターとしてトスを上げなければならないのに、いつも肝心なときにできなくて、練習や試合を重ねていく度にだんだん不安が生まれてきました。「もっと練習して上手くなってやる。」という気持ちと同時に、「もしかしたらセッターが出来なくなってしまうかもしれない。」という焦る気持ちでいっぱいになりました。
 そんな中、ある試合の夜、バレー部の同級生で集まってバレーについて語った時です。「結衣がセッターでいると任せられる。」「安心できる。」ということを聞きました。私は一瞬止まってしまい、だんだん涙があふれてきました。私は、みんなと向き合い、声をかけ、チームを支える立場でありながら、どんなに良いレシーブが来ても確実にアタッカーが打ちやすいトスで上げることができない、重荷でしかないと思っていました。それを言ってくれた本人にとっては何気ない一言だったかもしれません。でも、私はその言葉を聞いて、私にも誰かを支えられたことがあったのだと、自信につながりました。今、私はセッターとしての誇りと、仲間たちに支えられながらバレーができることにすごく幸せを感じています。いつも真面目で手を抜かず頑張っているキャプテン。私のトスに合わせて打って、ナイストスと笑ってくれるアタッカー。セッターの所までコートを駆け回って上げてくれるリベロ。場の雰囲気を変え、笑顔にさせてくれるピンチアタッカー。そして、未経験者の私達を一から育て、導き、叱って下さる先生。
 私は多くの人の支えで今の自分がいるのだと思います。結衣。この名前のように、一人ひとりが今の私まで結び、つなげ、支えてくれているのです。決して誰一人として欠けてはいけない存在なのです。辛いことも壁にぶつかることもあるけれど、バレーと出会い、仲間と出会い、このチームでバレーが出来たことは、私の一生の宝です。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「いじめられてる?いじめてる?」
 平生町立平生中学校 2年 木村 友美 さん

 「人間関係は難しい。」私はある体験から、このようなことを思いました。私は、自分の「真面目」「思ったことを口にする」このような性格を長所だと思っていました。しかし、私が大切なことと思い注意したことから、ある友達と仲が悪くなってしまいました。今では、その友達とは仲良くなっていますが、一時は、無視をされ、とても悲しい思いをしました。その時、最後まで話を聞いてくれたのが家族でした。自分の様子がいつもと違うことに気づき、話を聞き、アドバイスをくれ、学校の先生へも相談してくれました。その家族のサポートがあって、私は楽しい日常をとりもどしました。このようなことから、私は家族のありがたさを感じました。また、困った時には、自分達で努力をすると同時に、大人、親や学校の先生の力をかりることも必要だと実感しました。また、外からは気づきにくい精神的ないじめは、本人が助けを求めない限り気づきにくいと思います。私の場合、いつもとちがう口調や言葉、態度で両親が「何かあったの」と話を聞いてくれました。つらくなった時、話ができる家族がいることが助けになったと思います。そして、学校の先生にも、そんな時、大きな力になってほしいと思います。
 いじめの根絶が不可能な事だとしたら、病気の治療といっしょで、早期発見、早期治療ができるといいと思います。早期発見するには、日頃からの会話、そして、私達子供に向き合い信用してくれる大人が必要です。私達子供も、いじめられていると感じた時、大人に話す勇気をもたなければいけません。早期治療をするには、いじめられているという子を否定するのではなく何が一番つらいか、どうしたら楽になるのか、解決法を話し合って欲しいと思います。また、心ないいじめをしている子には、悪いことは悪い、間違っているよとみんなで教えていかなければならないと思います。私もこれからは、自分から話しかけて嫌な事や、やめて欲しい事を伝える勇気をもって前へ進んでいきたいと思います。
 次に、今回の体験をもとに、「言葉」について考えました。私達の中学校では、先日、広島平和学習を行い、原爆の体験をされた方からお話を聞く機会がありました。その方のお話から戦争のおろかさや平和の素晴らしさ、そして、命の大切さなど多くのことを学びました。それらのお話の一番最後に、その方が話された内容が「言葉の大切さ」です。「言葉には魂がある」「言葉で言ったことは本当になる」そういう力が言葉にはある。だからこそ、私達人間は言葉を大切にしていかなければならない。このようなお話でした。その語り部の方のお話を聞いて、本当にそうだと思いました。私達は日頃、何気なく話をし、言葉を使っていますが、その中には美しい言葉、思いやりのある言葉も多々あります。しかし、それと同時に考えずに出てきた一言の中には、冷たい言葉、相手を傷つける言葉もあります。人と人とのコミュニケーションの基本は「言葉」です。今回の体験をもとに私は「人間関係」は難しいと感じましたが、その基本となる「言葉」を大切にできる人になりたいと思います。これから私は、いろいろな体験を通し、大人になりますが、『人のことを思いやる』『言葉を大切に出来る』大人になりたいと思います。
 そのためには、やはり、私達子供から言葉づかいや、いじめられているかもしれないという不安、これはいじめているのだろうかという気持ちを勇気をもって大人に伝えることが大切だと思います。また、大人は勇気をもち、思いを伝えてきた子供の気持ちをしっかりと受け止め、理解し、いっしょに解決法をさがしていくことが大切なのではないでしょうか。


 

☆平成23年度「少年の主張コンクール」山口県大会の入選作品について
2012/05/07
コンクール出場者のみなさん
 山口県青少年育成県民会議では、中学生が学校生活や日常生活を通じて日頃考えていること、同世代や大人に訴えたいことを、自分の言葉でまとめ、その意見を発表する機会を提供することにより、広く県民の皆様に少年に対する理解を深めていただき、青少年の健全育成に資することを目的として「少年の主張コンクール」を行っています。
 平成23年度の山口県大会は、平成23年7月16日(土)に山口市の山口県総合保健会館において、「家庭の日」講演会と一緒に開催しました。
 書類選考による1次審査、2次審査を通過した8名の生徒の皆さんに発表していただきました。
 審査の結果、最優秀者1名、優秀者2名、優良者5名を次のとおり決定しましたので、作品とともに掲載します。



☆☆☆【最優秀賞】(県知事賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「私たちに出来ること」
 柳井市立柳井西中学校 3年 河村 蘭 さん

 3月11日といえば、日本人の誰もが、あの恐ろしい出来事を思い浮かべる事でしょう。
そう、東日本大震災です。いつも私たちを守り、育んできた大自然が、急にキバを向き、容赦なく、東日本を襲ってきたのです。
 あの日の午後、私は学校から帰ってきて、いつものようにテレビをつけました。すると、その途端、今までに見た事もないような、地震や津波の悲惨な映像が目に飛びこんできました。(これは本当に、今、日本で起こっている事なの・・・?)と、あ然としてしまいました。流されていく人や物、それに向かって泣き叫ぶ人々・・・まるで映画のワンシーンを見ているかのようでした。連日のニュースで流される、東日本の悲惨な状況に、心は痛み、何度も目をそむけたくなりました。
 でも、日本国民としてこの事実から逃げてはいけないと感じ、テレビやインターネットを通し、なるべく正確な情報をつかもうと努力しました。すると、震災直後は悲惨な映像だけが目につきましたが、しばらくすると、人と人が思いやり、助け合う、そんな心温まる映像も見かけるようになってきました。その中でも、最も印象的だったのは、私と同じ中学生が、自分も被害にあっているにも関わらず、炊きだしや親を失った子供の世話などのボランティア活動を、笑顔で行っている姿でした。それを見て私は「この東日本大震災を、テレビの向こう側の出来事として考えてもいいのだろうか、こんな風に頑張ってる人がいるのに、何もしなくていいのだろうか。」と、いてもたってもいられなくなり、実践できるいくつかの事を、実行に移す事にしました。
 まずは、学校募金や街頭募金に、積極的に参加しました。買い物などに行った際、ほしい物を一つ、我慢して、そのお金を募金にまわすなどの工夫もしました。そして、部屋やテレビの電気のつけっぱなしをやめ、こまめに消すなどの節電を心がけました。こうして、私が取り組んだささやかな行動は、東京電力が行った計画停電や、ある企業が贈った百億円という莫大な募金に比べれば、ほんのわずかな事なのでしょう。でも国民一人一人がそれらを行うと、どうなるでしょうか。やがて大きな力となり、日本が変わっていくのではないのでしょうか。
 さらに私は、節電や募金以外にも、もう一つある行動を起こしました。それは、学年全体による合唱です。私たち柳井西中学校の3年生は、寺井さんという方が被災者のために作られた「つながっているよ」という曲を、4部合唱で歌いました。歌詞の中の「つながっているよ心と心は」という言葉に、私はとても共感しました。性別や年齢、国籍などは関係なく、同じ一人の人間として、助け合い、思いやる―そんな心のつながりが、今の日本を支えている事を、この合唱を通して学ぶ事が出来ました。実際に被災地に行って、直接に援助は出来ないけれど、遠く離れた山口県にいても、同じ日本人として、共に悩み、そして励ましていきたいという思いで、この合唱に取り組みました。
 ふとした瞬間、思う事があります。それは、私がこうしてテレビを見て笑っている時、いったいどれだけの人が苦しみ、不安になっているのだろう―こうしてお腹いっぱいになっている時、いったいどれだけの人がお腹をすかせているのだろう―そんな、とりとめのない事です。電気があって食べ物がある。当たり前の事のようで、当たり前ではない。とても幸せな事なのだという事が、今回の大震災で本当によく分かりました。
 この東日本大震災で亡くなった人は、行方不明者をふくめ2万人以上にのぼるといわれています。その方々の、もっと生きたくても生きられなかった想いを考えると胸がはりさけそうになります。残念ながら現代の日本には、自分の命を粗末にあつかう人が少なくないのが現状です。実際、1年間で、自ら命をたつ人の数は、震災での死者を上回る3万人といわれています。この事実は、私に命の重さについて一歩深く考えさせてくれました。
 今回の震災で、互いに想い助け合う日本人の姿は、世界の人々に大きな感動を与えました。略奪等の暴動もなく、むしろ相手の事を考え、必死に行動する姿は、同じ日本人として誇らしく思えました。この日本人の良さを引き継いでいく事が、若い世代の私たちの使命だと感じました。
 東日本大震災が私に教えてくれたことは、「命の重さ」「小さな事でも、実行にうつす事の大切さ」そして「日本人としての誇りを忘れない事」です。それらを、自分の立場で実践できた時、本当の意味の「日本の復興」に貢献した事になるのではないでしょうか。



☆☆☆【優秀賞】(県教育長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「すべての人の普通へ」
 防府市立右田中学校 3年 木戸 寛捺 さん

 普通とはなんでしょうか。『普通』という言葉を聞く度に、いつも思います。普通、ふつう、フツウ。普通とは一体なんでしょうか。
 普通という言葉を耳にします。そういう時、それは他と比べたときにあまり変わらないという意味で使われています。私はそこで思います。ある人が普通さ、と話し始めた。その時に、その人の話す事柄が果たしてすべての人にとって『普通』と言えるでしょうか。
 私は友達が普通と思っていることが私にとって普通ではない、ということをよく体験します。例えば、味付けです。給食を食べていて、友達が
「これ、辛すぎるね。」
と言っても、私にはそれが普通に感じられることがあります。その味付けは私にとっては普通だったのですが、友達にとっては普通とは違う味付けだったのです。
 このような体験の一つに父が障碍をもっていることに関連することがあります。私の父は、目が見えません。耳も、よく聞こえません。だから、それについて普段から配慮をします。ドアはきちんと閉めるか全部開けるかで、中途半端にはあけない。床には物を出来るだけ置かない。父が使うものは決まった位置におく。大きな声でゆっくり話す。そのようなことを意識的にします。それが、私にとって普通だからです。でもそれを私が友達に普通さ、と話したら、納得する人がどれだけいるか分かりません。この私の普通は、多くの人の普通とは異なるのです。だからといってどちらかの普通は間違いで、どちらかの普通は正しいということもありません。ただ、価値観が違うだけなのです。
 しかし、障碍のある人への普通が本当にそれでいいのでしょうか。
 バリアフリーということが言われます。障碍のある人や高齢者が、一般社会の中で安全・快適に暮らせるよう、身体的、精神的、そして社会的なバリアを取り除こうという考え方です。私の中学校の体育館は、数年前に建て替わりました。だから、車椅子用のスロープがついています。バリアフリーです。ですが、よく見るとそれが本当の意味でバリアフリーではないことに気がつきます。スロープの先には清掃道具入れやモップ立て、傘立てなどがあるのです。今、スロープを利用する人がいない私の学校ではそれでいいのかもしれません。
 では、車椅子の人が学校に来て体育館に入ろうとする。するとスロープがあり、『良かった。』と思ってのぼっていったら置いてあるもののせいで入れない。それでもいいのでしょうか。障碍のある方が不便な思いをするバリアフリーが『普通』でいいのでしょうか。私はダメだと思います。
 障碍のある方が安全・快適なバリアフリーに必要なことは二つ。一つは物理的なバリアを取り除くこと。そのためには段差をなくすスロープなどが必要です。しかし、そこでスロープの上に物を置いてしまっては意味がありません。ここで、心のバリアを取り除くことが必要となります。自分達のことだけを見るのではなく、障碍のある方の立場に立って考えてみましょう。そうすれば、おのずと本当の意味でのバリアフリーが完成するはずです。
 そして、私はこのようにわざわざ考えるのではなく、障碍のある人への気配りがごく普通にできる世界になってほしいと思います。人と価値観の違うことは確かにあります。ですが、障碍のある方への気配りはすべての人にとって『特別なこと』ではなく『普通なこと』であってほしいのです。
 普通とはなんでしょうか。私は答えます。普通とは、全ての人が考えずとも自然に思えることであると。



☆☆☆【優秀賞】(県民会議会長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「今、伝えたい大切なこと」
 周南市立須々万中学校 3年 山本 雪乃 さん

 「人間は一人では生きていけない」
この言葉は私の母がよく口にします。小さいころのわたしにはその言葉を理解することができず、人は一人で生きているのだ思い込んでいました。しかし、大きくなるに従ってその言葉の意味が分かってきた気がします。そのことを一番わたしに教えてくれた入院生活でした。
 わたしは中学校2年生のときに入院しました。学校で急にお腹が痛くなり、父につれられてそのまま病院へ。生まれてから大きなけがや病気をしたことがなかったわたしは、とても不安でした。その日は姉の受験日で母と姉がそばにいてくれなかったこともあると思います。しかし、母はわたしが入院したと聞くと、すぐに病院にかけつけてくれました。母がいうには、姉が「早く行ってあげて。」と言ってくれたそうです。姉も初めて行く場所で受験だったので、不安でいっぱいだっただろうにな・・・と思うと胸があつくなりました。入院中、わたしが病室にひとりきりになることは一度もありませんでした。父と母が毎日交代ごう代に来てくれたからです。また検査のときにはずっと姉がそばにいてくれました。このとき素直に感謝の気持ちを伝えることは恥ずかしくてできませんでしたが、家族のありがたみが心にしみました。看護師さんや担当の先生も、院内で出会うたびに笑顔でやさしい言葉をかけてくださり、わたしが元気になっていく姿を見て、我が子のことのように心から喜んでくださいました。家族も含め、みなさんの支えがあったからこそ頑張ることができたと思います。1ヶ月という短い期間でしたが、たくさんの人と話し、ふれ合うことによって、「家族」や「仲間」というとても大切なことを学ぶことができました。
 わたしは「仲間」の原点となるのは「家族」だと思います。「家族」は一生離れることはありません。無理なことや、わがままなことを言っても取り返しが聞くし、許してもらえます。だから、家族がいることが当たり前となってきています。けれど本当にあるべき姿は、お互いが足りないところを補い合い、助け合うものだと思います。思春期になると「家族なんか・・・」と思ってしまいがちです。しかし、絶対に一人で生きているという考えは持たないでほしいです。普通に日々の生活を送れているのは、「家族」という仲間が自分を支えてくれているからなのです。それは家族だけではありません。学校で楽しく過ごせるのは「クラス・学年」の仲間が、地域で何不自由なく過ごせるのは、地域の仲間がわたしたちを支え、受け入れてくれているから。
 こうしたかけがえのない仲間が自分の周りにいることに気付き、大切にすることができれば、楽しい日々を送ることができると思います。
 今、日本は震災により、「自分は一人になってしまった」という思いの人もいると思います。確かに、被災地に行って話しをしたり直接手をさしのべるということは困難です。
 しかし、わたしたちも同じ人間で、同じ日本に住んでいる「仲間」なのです。募金をつのったり寄付をしたりして、仲間を支えようと必死に頑張っています。一人の力はたかが知れていますが、わたしたちには、たくさんの仲間がいます。このことが被災地の方に届くといいなと思います。
 そして、これからは、わたしが「人間は一人では生きていけない」という言葉を大切にして、少しでも多くの人に「家族」そして、「仲間」のありがたさを伝えていきたいです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「この町だからこそ知ることができた」
 阿武町立福賀中学校 3年 石川 真理奈 さん

 この町で育ってもう少しで15年が経とうとしています。私が今暮らしている所は、とても田舎で信号機もなく、お店もあまりないので不便な事もたくさんあります。ですが、とても自然豊で地域の方々も温かく、私はこの町が大好きです。ここで育ったからこそ体験出来た事、学んだ事がたくさんあります。その中で、私が一番誇りに思うのは、伝統のつながりです。私達の学校では、神楽、鯉のぼり立てといった伝統的な行事が多いです。
 神楽という伝統芸能は、20数年前から続いています。大蛇、四神という二つの演目があり、太鼓や笛などの楽器に合わせて舞を舞います。大蛇の方は、物語にもなっています。小学生の頃から神楽を見てきて、地域の方々も神楽を毎年楽しみにされていました。中学生になり、神楽に初挑戦しました。学年を積み重ねるごとに先輩から受け継いだものを今度は、私達が後輩に教えていく番になりました。やはり責任の重さが全々違っています。これも貴重な体験です。
 神楽を披露すると、地域の皆さんはいつも大きな拍手をくれます。その拍手がうれしくてまた次へつなげていきたい、もっといいものを披露したいと心から思います。練習のときでは分からなかった事が、神楽披露を通して分かったような気がします。人の力は人をこんなにも動かすのだと思い、現在、練習真っ最中なので皆で力を合わせて披露に向けて頑張りたいと思います。
 鯉のぼり立ては、今年で18回目になります。100匹以上の鯉のぼりを川沿いに立てていきます。その景色は何度見てもきれいであきることはありません。私にとっては今年で最後の鯉のぼり立てとなりました。中学校生活の思い出の一つです。
 ではなぜ、何のために、神楽や鯉のぼり立てといった伝統行事を続けているのかと考えたとき思ったのが、伝統はつなげていくから伝統だということです。今までつなげてきたものをこれからも守り続けたい、そんな気持ちが今もこれからも続いていくからです。そして、これらの行事はどちらも地域の皆さんの協力なしでは出来ません。その感謝の気持ちも同時に続いていきます。伝統をつなげていく意味は必ずあります。その意味をこれらの体験で見つけ、感じていくことが大切だと思います。
 伝統が残っているというのは、今となっては珍しいことだと思います。今、現在は流行の物がすごく注目を浴び、人気になっていきます。ですが、その人気もいつかは消えていく日が来ると思います。しかし伝統は自分たちが残そうという意志があれば、続いていくのではないでしょうか。これから生徒の人数も減っていきます。それはどうしようも出来ない事です。それでも、私達はやれる限りやりたいです。それが伝統を残すという、私達にとっての大きな誇りです。
 私は中学3年生なので、中学校生活最後の年になります。何をするにも最後になってきます。小学生から今までを思い返してみました。その時は、何も思わなかったけれど、一つ一つの事が大切な思い出です。この15年間は、私の人生のほんの少しかもしれないけれど私にとっては、とても大きな事で、今まで過ごした日々はもう二度と体験できないかけがえのない時間だったのだと改めて思いました。
 この時をこの町で過ごせて、伝統という大切な事を知れて本当によかったです。これから卒業するまでの学校生活1秒1秒を大切に過ごせていけるようにしたいです。
 卒業したら、この町を離れることになってしまうけれど、ふるさとで学んだ事や思い出を胸に、将来、前へ前へと進んでいきたいです。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「お年寄りの大切さ」
 下関市立豊田西中学校 3年 中川 裕樹 さん

 ぼくは、小学生のころバス通学でした。いつものようにバスに乗ったけれど乗客が多くギリギリですわれました。次の、バス停で一人のお年寄りが乗車してきました。ぼくは、席をかわろうと思っていましたが、声がまったく出ませんでした。情けないなあと思いました。すると、後ろにいた一人の高校生が「どうぞ」という一言で席をゆずりました。ぼくは、かっこいいなあと思いその時から、ぼくは「お年寄りの大切さ」について考えるようになりました。みなさんは、自分のおばあちゃん・おじいちゃんだけでなく身の周りのお年寄りを大切にしていますか?最近では、小さいころはお年寄りと話をしたりする人も多いけれど中学生・高校生になると話も全然しないし独立をしてお年寄りを一人にさせる事が多くなっています。仕方がないかもしれないけれどぼくは、まちがっていると思います。例えば電車やバスでお年寄りが立っているのに座っているのがほとんど若者ばかりなのにびっくりしました。さらに、一人高校生がおりて「やっとお年寄りが座れる」と思って安心していたら、近くにいる男子高校生がお年寄りをさしおいて自分が座りました。それだけでもおどろいたのに周りにいる人はみんな「見て見ぬふり」をしていました。でも、ぼくもその人に何も言えないまま時間が過ぎていきました。
 ところで、みなさんは老人ホームにあずけられたお年寄りの本当の気持ちを考えたことがありますか?ぼくは、文化祭でボランティアサークルというのに入り2年連続で2日間「豊田ほたるホーム」という老人ホームへボランティア活動としていきました。ぼくたちがいったとたんに、笑顔でお年寄りの人たちがむかえてくださいました。でも、お話しの時間に誰もが口にしたのは、少しでも長く家にいたいという一言でした。ぼくは、それを聞いて心が傷みました。その瞬間から少しでも長く、そしてやさしくしてあげたいという気持ちになりました。でも、その気持ちを表に出さないのがお年寄りのやさしさだと実感できました。
 最後に、エレベーターについてですが、大きなお店なんかに行くと、エレベーターがいつも満員です。だからエレベーターではなくて階段でのぼりました。すると、お年寄りが休憩をしながらのぼっていました。ぼくは、まちがっていると思います。エレベーターはお年寄りや障害者や小さい子供を抱いている人などこういう階段ではなかなかのぼれない人専用にしたほうがいいと思います。こういうことは、みんなが協力、そして実行していかないと絶対に無理なことです。日本が一つにならないといけません。お年寄りは、自分一人で出来ることと出来ないことがあります。そういうお年寄りが一人暮らしをしてなんでも一人でやらないといけません。ぼくは、絶対に無理だと思います。絶対に周りの世話なしでは生きていけません。こういった人達を増やさないためにも、若者が立ち上がらないといけないと思います。そして、高齢化社会を救っていかないといけません。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「希望−のぞみ−」
 宇部市立桃山中学校 3年 坂東 遙 さん

 「聞こえない音を聞きたいとは思わない。聞こえないこと、それが私の個性であり才能だから。」
 これは、難聴者であるフランスの女優、エマニュエル・ラボリの言葉です。
 世界には、音や声が聞こえる人と聞こえない人、目の前の景色が見える人と見えない人、自分の足で歩ける人もいれば、歩けない人もいます。
 私たちにできることが障がい者にできない、それはあって当たり前のことです。そして障がいとは、その人の一つの個性なのです。
 私の妹は障がい者です。生まれてすぐ、心臓と脳に病気があることがわかりました。今でも、脳梗塞という病気をもっているので、右脳の機能が失われています。そのため、身体の半分が麻痺していて上手く言葉が話せず、右目の視力がほとんどありません。自分の足で歩くこともできないので、小さい頃からずっと車いすに乗っています。私たちが普段当たり前のようにできていることが、私の妹にとってはとても難しいことなのです。
 そんな妹をもっている私は、今の社会を見て思うことがたくさんあります。それは、障がい者に対する偏見です。
 私が小学生のとき、車いすに乗った妹と街を歩いていると、小さい女の子が近寄ってきて、車いすに触ってきました。車いすは小さい子にとって珍しい乗りものです。だから私は、女の子が車いすを通して妹と仲良くなってくれるのかな、と期待していました。
 しかし、それを見ていた女の子のお母さんが、「触っちゃいけんよ」と注意しました。そのお母さんの言った言葉は、「妹への気配り」だったのかもしれません。でも、私にとってはとても胸が痛かったです。なぜなら、妹に近寄ってきてくれた人が、その一言で遠ざかって行ったからです。その時の気持ちは、今でも忘れることができません。
 障がい者にとって街でいちばん困ること。それは、「障害」によって起因するものでなく、「まわりの人の反応」なのです。私は、障がい者を腫れもの扱いすること、そして障がい者というだけで過剰な接し方をすること、それ自体が差別、偏見だと思います。
 自分の足で歩けないから車いすに乗っている。それは、目が悪いから眼鏡をかけていることと変わらないことではないでしょうか。
 同時に私はこのとき、障がい者を受け入れてもらえないのかな、と思いました。これまでは、障がい者と呼ばれる人たちは、あまり外出することがなく、街で見かけることが珍しかったため、障がい者を「別者」だと感じることが少なくなかったのです。だから多くの人が障がい者を見たとき、受け入れることができず、どうしても偏った見方をしてしまうのだと思います。だけど、同じ社会を生きて行く限り、助け合い、差別をなくしていく必要があります。そのためには、「障がい者の本当の声」をもっと多くの人に伝えなければいけません。
 障がい者が求めていることとは、何か力を貸してみせることや特別な接し方をすること、そんなことではなく、私たちが障がい者と対等の人間関係を築くことなのです。そう心がけることで例えば、体の不自由な人が大きい荷物を持っているとき、自然に「持ちましょうか」ではなく「何か手伝うことはありませんか」と声がかけられるはずです。そして、「障がい者だからできない」ではなく「できるように支援する」そんな考えをもってください。
 私の妹にできないこと、私の妹にしかできないこと。私は今までにそれをたくさん見つけてきました。だから、周りの人よりもゆっくりと、確実に成長している妹が、将来自活できるように、やさしく見守っていこうと考えています。そして、障がい者である妹の希望(のぞみ)から決して目をそらさず、ひとりの妹として接していきます。妹が心から思い描く希望を叶えるためのサポートをしていきたい。そう思っています。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「あいさつって・・・」
 周南市立和田中学校 2年 村上 知花 さん

 「今の人はなぜあいさつをしないのか・・・。」
 私は、周りを山に囲まれ、川のせせらぎが教室からも聞こえ、秋になると田んぼの稲が風にそよぐ、そんなのどかな所に住んでいる。学校の行き帰り、近所のおじさんおばさん、日ごろ顔を合わせない人達など、すれ違う人すべてにあいさつをします。また、あいさつをした人すべてがあいさつを返してくれます。
 しかし、塾の前の道では少々様子が違います。私は中学生になってから、車で20分くらいかかる街の塾へ行っているのですが、塾の講義が終わり、入口の前の道で母の迎えを待っていた時のこと、私の前を小さな女の子とそのお母さんらしき人が通りました。私は、いつもどうりに、「こんにちは」とあいさつをしました。すると、そのお母さんは下を向き、女の子は不思議そうに私を見てきたのです。「何がおかしいんだ――。」と思わず叫びたくなりました。
 私が住んでいる和田というところであれば、私が「こんにちは」とあいさつすれば、「こんにちは」だけでなく「○○ちゃん、いつも元気じゃね。」など、さらに一言二言つながって言葉が返ってくるのは当たり前なのに・・・。
 あいさつをされても、人にあいさつを返さない人は、この親子の他にもいます。ウォーキングに一生懸命で、イヤホンをして歩いているので人の声が聞き取れない人、にぎやかに行き帰りする小学生、世間話に花が咲き、人が通りすぎたのも気に留めないおばさま軍団・・・。実は、なかなかスムーズにあいさつを返してくれる人はいません。
 私は小さい頃からたくさんの人に、「あいさつをしなさいよ。」と教わってきました。それは、私だけ?違うでしょう?道のところどころ、公園の入り口や柵、様々な施設の決まりなど、あらゆる所に「あいさつをしよう」の標語や看板はあります。一体、日本はどうなっているのでしょうか?
 そんなこんなで、結局私はあいさつをしたのに恥ずかしい気分になることが多いのです。そのため、最近は和田ぐらいしかあいさつをしなくなりました。
 そもそも、なぜ最近の人はあいさつをあまりしないのか?あいさつされてもなかなか返さないのでしょう?
 近くであまりあいさつをしていない人って誰だろう・・・。そうだ、ということで、父に理由を聞いてみました。父は、会話は普通にいや普通以上にする時もあるのだけれど、あいさつはあまりしないのです。そこで、父に聞くと、「めんどうじゃから。」と一言。つまり、必要だと感じていないようなのです。父は、「子供はあいさつしろって言われるけど、父さんはもう大人じゃけえうるさく言われん。っていうより、ほとんどの大人はあいさつせんじゃろう。」と言い、母は「今の子はあいさつをしないのが普通と思っているから、あいさつしてくれると、かあさんは驚くけどね。」と言います。
 今は大人も子供もあいさつしないのが当たり前の時代なのか?本当にそれでいいのか?それではおかしいです。あいさつは、相手に関心をもっているからこそできるものです。また、自分を相手に対して表現したいと思う気持ちがないとできないものです。言い換えれば、人が人同士でつながり合うための重要なコミュニケーションの手段なのです。
 私は、大人があいさつしないから、子供もあいさつしないのだと思います。大人ができないことは、子供もできません。だから、父のようにあいさつに関心のない大人がしっかりあいさつすれば、子供もあいさつすると思います。でも、ちょっとずつ、少しずつ気をつければ、今よりもよくなると思います。
 私はこれからもあいさつをしていきます。



☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 「感謝の言葉が言えたなら」
 岩国市立通津中学校 3年 宮原 利佳 さん

 私は最近よく母親とけんかになることがとても多い。その理由は本当に小さなことが原因なのだ。私が出したものをそのままにしていたり、言われたことにすぐ行動しないことに母親はいつも腹を立てている。自分でも、いけないな、と分かっているのに私はいつも素直になれないでいる。もちろん、けんかの原因をつくってるのは、ほとんど私。そのせいで最近、母親の笑った顔を見ていないな、と思う。なんで自分が悪いと分かっているのに素直に聞けないのだろう。私はそういう自分が、時々いやになるときがある。
 ある日、こんなことがおこった。母親が、ご飯できたよ。と私に言ってくれたのにもかかわらず私は、つい携帯電話のメールに夢中になっていて、母親の声なんて全く耳に入っていなかった。そして、ついにその態度にキレた母親は、本当におこってしまって、
「もういい。」
とだけ言って、その後は、もう私とは口をきいてくれなかった。私はすごく後悔した。とても、やりきれない思いでいっぱい、いっぱいだった。あのとき、母親の言うことを1回できいてやっていたとしたら、今はどうなってるのかな。など、せっかく母親がおいしいご飯を作ってくれたのに、とても失礼な態度をとってしまったな。と自分でも、とても反省した。素直に、
「ごめんなさい。」
と言うべきなのに私は、いえなかった。素直な心になる自分をどこかで、変にきらっていた。ごめんなさいの一言を言うことが、こんなにも難しいことを、私は初めて実感した。でも、やっぱり自分が悪いと思ったならば、素直にあやまる。というのが、人としてのすじというものだと思う。だから、私は思いきって、
「ごめんなさい。」
と、勢いよく口をひらいた。すると母親は、「素直になれるなら、はじめから、そうすればいいのに。」
と言って、ほほえんでくれた。その瞬間、私は思った。素直な心をもつことは、とても大切なのだ、と気づくことができた。
 母は、いつも仕事を夜までやって帰宅し、洗濯にご飯の準備、いそがしくても全てを、きちんとこなしてくれる。それは、すべて私たち家族のことを思ってのことだと思う。私が毎日、おいしいご飯食べられるのも、きれいに洗濯された服を着ることができるのも、学校に行くことができるのも、私が好きなスポーツを思うぞんぶんやることができるのも、すべて母や父が外で一生懸命に働いてきてくれるからだと思う。だからこそ私たちは、与えられた環境の中で、のびのびと生活できる。私たちにできることは、学校で一生懸命、勉強に部活にはげみ、しっかり自分のやることを、やりとげることだと思う。そして、絶対に感謝の気持ちを忘れないこと。たまには、両親にむかい、感謝の気持ちを込めて
「ありがとう。」
と、言ってみることも、私は大切だと思う。


 

★平成22年度少年の主張コンクール山口県大会の入選作品について
2011/03/04
発表者のみなさん
表彰式
 山口県青少年育成県民会議では、中学生が学校生活や日常生活を通じて日頃考えていること、同世代や大人に訴えたいことについて、その意見を発表することにより、広く県民の皆様が少年の意識に触れることによって少年に対する理解を深めていただくために、「少年の主張コンクール」を行っています。
 平成22年度の山口県大会は、平成22年7月17日(土)に下松市のスターピアくだまつにおいて、山口県青少年健全育成大会と一緒に開催しました。
 書類選考による1次審査、2次審査を経て、8名の生徒の皆さんに発表していただきました。
 審査の結果、最優秀者1名、優秀者2名、優良者5名を次のとおり決定しましたので、作品とともに掲載します。

☆☆☆【最優秀賞】(県知事賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ぼくの学校、ぼくの先生」
 周南市立翔北中学校 1年 魚谷 耕司 さん

 2学期が終わるころ、教室は中学進学の話題で盛り上がっていた。どこの学校でも同じような光景なのかも知れないが、ぼくたちの場合は、少し違っていた。それは、翔北中の校区にあったぼくの長穂小学校は、ぼくたちの卒業と同時に休校になることが、突然に決まったからだ。混乱の中で、クラスの半分の人が、統合先の小学校の進学先となる中学校へ進むと言い出していた。
 ぼくは、4年生の時から、翔北中のソフトテニス部の夜練習に参加していた。先輩とは別の練習をするので、先輩たちと一緒に活動することはほとんどなかったけど、先生や先輩が、ぼくのことを「耕司」と名前で呼んでくれることがうれしかったし、テニスはとても楽しかった。ぼくは、先輩たちと一緒にプレーできる日が待ち遠しくて、早く中学生になりたいと思っていた。
 しかし、8人しかいないクラスで、6人が別の中学校へ行くことに決めて、翔北中に進学するのは、ぼくと1人の女子だけになった。これでは、テニスをしても、ペアを組む同級生もいない。体育の授業でサッカーもできない。今までのように、じょう談を言ったり、けんかをする相手もいない。
 ぼくは、本当に翔北中に進学してもいいのかと、何度も何度も考えた。
 ぼくは、ある日、テニスの先生に呼び止められた。
 「耕司が翔北中を選んでくれるのはうれしいけど、後から、翔北中に来たことを後悔することがないように。先輩たちが引退したら、部員はお前1人になるかもしれない。オレが練習相手にはなるけど、試合には出られない。つまり、テニスだけで学校を選ぶのはよくないと思う。テニスだけが人生じゃないからな。慎重に考えろよ。」
 ぼくはビックリした。ぼくの気持ちを知っている人が、ぼくと家族以外にいたんだと思った。ぼくは、頭の中で先生の言葉をくり返した。すると、ぼくの迷いはふっ飛んで、翔北中に進学すると決心した。
 テニス部があるからという理由だけで、翔北中を選んだのではない。翔北中には、ぼくを待ってくれている先輩と、ぼくの気持ちを理解してくれる先生がいるからだ。
 卒業式が近づくにつれて、教室では、進学の会話は減っていった。これまでなら口げんかで済んでいたささいなことでも、激しく興奮して、なぐりかかってくるようになった友達もいた。今思えば、早々と別の学校に進むと言った同級生も、本当はぼくと同じように迷っていたのだと思う。
 教室のそうじなど、休校の準備が始まると、ますますさびしくなった。だけど、それよりももっとさびしいのは、2人きりになった翔北中の1年生の教室だ。真ん中に置かれた2つの机が、よけいに教室を広く感じさせる。
 「さびしい」と思うのは、多分自分が、8人で過ごしたにぎやかな教室と比べているからなのだろう。今までの生活をリセットして、新しい世界で、新しい自分をつくり出したい。また、2人の教室を2人で盛り上げたい。まず、掲示物を増やしたり、花を飾ったりして、教室を明るくしたい。練習はきついけど、先輩たちと一緒に活動できるテニスを楽しみたい。失敗をおそれずに、色んな事にチャレンジしてみたい。ダイジョウブ!!翔北中には、ぼくを支えてくれる先生と先輩がいるから。
 そして卒業する時、ぼくは、翔北中に進学して良かったと思いたい。


☆☆☆【優秀賞】(県教育長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「私の決意」
 宇部市立桃山中学校 3年 堤 悠佳子 さん

 水俣病…それは私にとっては、教科書の中に書かれていること、あるいは新聞やテレビのニュース番組で聞くような、遠い過去の出来事でしかありませんでした。
 しかし、修学旅行で訪れた水俣病資料館で語り部さんのお話をお聞きし、不意を突かれたような思いがしました。なぜなら、水俣病は今でも続いている問題だと知ったからです。さらに、ニュースなどで聞く病気や訴訟などの問題だけでなく、水俣病の患者さんやその家族、さらには水俣市出身の実に多くの人々が不条理な差別を受けたというのです。私たちに真実を伝えようとする語り部さんの必死さを今でも忘れることができません。水俣病は、メチル水銀による中毒が原因でおこる病気なのに、伝染病であるとか遺伝する病気だと言われていたそうです。また風土病だと言われたこともあり、水俣市出身というだけで、結婚や就職を断られたこともあったそうです。これを聞いたとき、私は激しい怒りを感じました。なぜならば、水俣病の患者さんは、病気だけで十分に苦しんでいるのに、そこへ更に差別や偏見が重なり、体と心に二重の苦しみを負うことになったからです。また、患者さんやその家族以外にも、水俣市に住んでいたということで、どれほど深く傷ついた人がいたことでしょう。そして、訴訟をめぐって、いわれのない悪意あるうわさや中傷が地域の人々の関係を壊し、悪い方向へと変えていったこともあったそうです。
 語り部さんのお話からは、根拠のない情報が原因となって、差別や偏見が生まれているという現実が迫ってきました。もし、事実が明らかになっていたとしたら、事態も少しは違っていたかもしれません。
 「二度と水俣市の人々と同じような苦しみを味わう人をつくってはならない。同じ過ちを繰り返してはならない。」私は今、強く思います。そこでこうした差別や偏見をなくすにはどうしたら良いか考えてみました。
 差別や偏見は間違った情報や、根拠のない物事の見方から生まれてくるのです。最近では、インターネットの普及などによって、誰でも簡単に情報を手に入れ、発信することができます。そのため間違った情報に触れる機会も増えるでしょうし、自分が発信する危険もあるのです。常に真実が伝えられるとは限らないので、与えられた情報を鵜呑みにせず、その真偽を確かめることが肝心なのです。
 そして、一人ひとりが正しい判断をすることが、とても重要になってきます。また、周囲の意見にまどわされず、憶測で判断をしないことも求められます。自分からそうした行動をすることで、少しずつでも間違った考えをもつ人を減らし、身近にある差別や偏見などを防いだり、なくしたりすることができるのではないでしょうか。
 今まで私は身近にある差別や偏見などについて深く考えたことはありませんでした。たとえそれらがあったとしても、気づかないふりをしてきたような気がします。自分だけではどうにもならないという諦めにも似た感情を持ち、無関心という形で他人を傷つけてきたこともあったかもしれません。 
 今回、私は語り部さんのお話を聞くことで、水俣病への考え方も変わり、また、自分を変えていく勇気をもらったような気がします。差別は絶対にあってはならないことだけれど、もしかすると私が関わることがあるかもしれません。そんな時には語り部さんの言葉を思い出し、安易な気持ちで悪口を言ったり、先入観をもって人を見たりすることをなくしたいと思います。また、いつでも真実を見極めることのできる力と、たとえ自分ひとりになっても、この意志を貫き通す強さをもって、これから生きていきたいと思います。


☆☆☆【優秀賞】(県民会議会長賞)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「日本の二つの社会」
 阿武町立福賀中学校 3年 野瀬 かれん さん

 私の住む町では、自然を愛する心、人と人との関わりを大切にする心、他人のために自ら動く親切な心、現在(いま)では忘れられていたと思っていた心が息づいています。
 私は、今年の2月に大阪から阿武町の福賀に来たばかりで元々は都会生まれの都会育ちです。周りに田や畑、山など自然物がある暮らしなどありえないことで、常にビルや雑踏、人工物が隣り合わせの暮らしでした。煙草やゴミのポイ捨ては当然のことで、困っている人がいても見て見ぬふりはあたり前です。自然愛、親切心、そんなものはカッコ悪いことで、自ら進んで動くなんてことは、とても勇気のいる行動でした。それは洗脳とも呼ぶべきもので、元々持っていた大切な心が、そんな汚れた社会によって、徐々に黒く染まっていくのです。
 一方、私が今住む町は正反対です。人工物などほとんどなく、コンビニやマンションが一つもありません。毎日が自給自足で、私は正直、なんて不便な町なんだろう、と感じました。しかし、そんな考えを持ったことを、今は恥ずかしく思います。なぜなら、この町に住む人達は、不便だなんて微塵も思っていないからです。日々、自分が生きる為に田や畑を耕し、他人との繋がりの中で地域の行事に参加します。その活気と漲る生命力に、私は圧倒されました。そして、人々はなにも自分だけのためにやっているのではありません。それこそが、私がこの町に来て一番驚いたことです。人々は、当然のように必ず私の家に作物を持ってきてくれます。たまたま通りかかったから、今日はたくさん採れたから、そんな単純な理由で大切な作物を5、10、多い時は20個ほどくれます。私はその行為に言葉にならない衝撃を受け、強く胸を打たれました。人々の当たり前のようなその行為と、私の知っている当たり前の行為は大違いだったからです。
 さて、都会暮らしと田舎暮らし、どちらが住みやすい様に感じたでしょうか。都会では欲しい物はお金さえあれば、いとも簡単に手に入ります。しかし、田舎ではそうはいきません。なにかしら自分で行動しないと手に入らなく、苦労が付き物です。でも、その分達成感があり、充実感を得られます。
 私は、この二つの暮らしが本当に同じ日本にある暮らしなのか、と時々疑いたくなります。都会と田舎、それは私から見れば全く異なった場所で、アメリカと日本、簡単に置き換えるとそういう風に感じられます。文化は同じなのに、周りの環境とそこに息づく人の心で、そこまで違ったものに感じてしまうのです。
私は、自分の意見を発言するのが苦手です。間違えるのは怖くて不安だし、間違える事自体がとても恥ずかしく思えるからです。 しかし、ここの人々は違います。自分の意見を堂々と発言し、間違っても臆しません。私が思うには、都会では社会的な知識を身につけられますが、いざとなった時に頼りになるのは、田舎の人達ではないでしょうか。 
 私が先程から、まるで都会を悪者扱いしていますが、それは違います。都会が悪いのではなく、間違った思想と環境に、誰もが見て見ぬふり、もしくは気づかないから非難しているのです。私はそんな風な社会になってしまったことを、とても悲しく思います。一人ではできないことも、みんながいればできるのに、誰も立ち上がらないのでは、何もできません。住みよい社会を作るために、愛する自然を守るために、私達が行動を起こさないといけないのではないでしょうか。私は、誰かが間違いを訂正してあげないといけないと思います。そのためには、私達が一歩を踏み出す。言葉にするのは簡単ですが、その勇気ある行動を起こした時、初めて日本は未来のために動き出したと言えるのではないでしょうか。少なくとも、私はそう思います。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「世界中を平和にしていくために」
 平生町立平生中学校 2年 庄地 遥 さん

 今を、当たり前に生きている私達…。命を無駄にしてしまう人々…。そんな考えをなくしていく為には、どうすれば良いのか。
 私は、広島平和学習で、たくさんのことを学んだ。
 今から65年前、ヒロシマに原子爆弾が投下された。そのころの苦しみ、辛さ、悲しみ、恐ろしさを、私は知っていると答えたら、被爆者の方に、すごく失礼だと思う。しかし、だからといって知ろうとしないのは、再び戦争を起こしてしまうことと同じだ。事実を知ることは、怖いことかもしれないが、私は、あの頃の人々の死を無駄にしたくないと思った。
 平和学習で、被爆者の方が当時のお話をしてくださった。それは、聞いているだけでも恐ろしかった。「目ん玉が取れてしまう人…。」「内臓がとび出てしまっている人…。」「泣き叫ぶ子ども…。」助けてあげたくても、その頃の自分には、「ごめんね。」と言うことしか出来なかったのだと話してくださった。お話の中で、私には、とても心に残る言葉があった。それは、「今朝見た夢よりも鮮明に、原爆が落とされたときのことを、今でも覚えている。」ということだ。しかし当時その方は、私より一つ下の12歳である。あの時から、65年たった今でも、忘れることが出来ない恐ろしさに、私は胸をえぐられた思いがした。
 平和記念資料館では、8時15分で止まっている時計、被爆者の当時の様子をまねてつくられた人形、そして、当時のヒロシマの風景を表した模型などが展示されていた。展示物の一つ一つが、原爆の恐ろしさを物語っていた。
 私に今出来ることは何だろうか、と考えた。それは、「伝えていくこと」だと思う。人間は、いずれは死んでしまう。被爆者の方も永久に生き続けることは出来ないのだから、どんなに小さな声でも、ほんの一言からでも、私からあなたへ、あなたから世界へと戦争の恐ろしさを伝えていくことが出来たらと思う。まだ、この世界には、戦争をしている国がある。戦争は、友達同士のケンカとは、レベルが違いすぎるが、人の痛みを知り、平和を願う人々の気持ちが戦争をおおいつくせば、きっと最後には、戦い
をやめることが出来ると思う。昔、原爆を落としたアメリカ人も、平和記念資料館をたくさん訪れていた。ヒロシマの苦しみを一緒に分かってくれようとしているのではないかと思った。そうであってほしいと願った。日本だけでなく、アジアにもヨーロッパにもつながる65年前の悲しい戦争は、人々の命を奪ったむごい戦争であったけれども、昔があったから心から平和を願う今があるのだと、私は思う。
 平和学習で、被爆者の方が必死に訴えてくださった一言一言は、私達にその思いを託してくださった、未来に続くメッセージなのだと思う。「物」が語ってくれたことや、人間の死も、「伝えていく」ことが意味のあることなのだから。
 そして、私達は原爆の子の像の前で平和宣言をした。
 一、自分の命を大切にします。
 一、他人の命を大切にします。 
 一、今が平和であることに感謝していきます。
 一、争い事をなくし、何事も言葉で解決します。
 一、私達は、よりよい世界の平和を願います。
 これは、私達平生中学校2年生のみんなで意見を出し合い、その願いをまとめたものだ。この平和宣言をみんなで忘れないように、実行していきたい。
 私達に、今出来ること、それは、「伝えていく」ということ。しかし、それは一部の人間が頑張っても、世界中に伝えていくことは出来ない。人から人へ、心から心へ、多くの人々がメッセージを受けとり、未来の平和を強く願うことが必要なのだ。だから、みなさんの力も貸してほしい。私自身も、そのたくさんの思いを胸に、前へ進んでいきたい。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「いつも心にありがとう」
 下松市立下松中学校 2年 升見 夏穂 さん

 私は家族に素直になれない。心の中の気持ちが言えない。いつも逆らってばっかりで…。そんな自分が私は嫌いだ。本当は大好きなのに、心の中には素直な自分がいるのに…。近くにいる存在だからこそ言わなきゃいけない言葉があると思う。そう…。「ありがとう。」いつもこの5文字の言葉が浮かんできては心にたまっていく。家族に言えなくなったままの私の本当の気持ちだ。
 私の家族は、父と母と私の3人だ。兄弟がいないので大事な相談は父か母のどちらかにする。しかし年が大きくなるにつれて考え方が異なり“どうせ私の気持ちなんか分かるはずがない”で済ませてしまう。でも本当は一生懸命考えてくれているということを分かっている。それなのにいつも同じ結果だ。その時は何も思わないのだが、後になってあの言葉が私の脳裏をよぎる。当たり前の言葉だから言わないのだろうか?それともそれが当たり前になっているから言えないのだろうか?その答えは私にも分からない。家族に対して言うのに、恥ずかしいという感情を持ってしまう。その時にいつも家族とは何だろう?と考える。分かりそうで分からないこの疑問。この答えは私が見つけるしかない。いつもそばにいて支えてくれているとても大きな存在。私が何かするのでも家族の協力があってこそだ。そう、家族とは、かけがえのない存在、信頼できる存在、そして何よりも、自分を強くしてくれる存在だと思う。もしこんな大きな存在がなくなったらどうだろうか?当たり前のようなことなので考えることもなかった。でもこうやって考えてみると、どれだけ家族が大事なのか改めて感じることが出来た。この作文を書いて私の気持ちが分かった。私は家族に「ありがとう。」を伝えたいのだ。ありがとうは言っている人も気持ちがいいし、言われた人も笑顔になれる。家族だけではなく、周りの人にも言えばもっと笑顔が広がり輪も広がると思う。お礼の気持ちを表す時に使うこの言葉だがとても意味が深い。私の一番好きな言葉だ。家族に使うありがとうを増やしたいと思う。しかしそこで考えてみたとき、家で過ごす時間と学校で過ごす時間はあまり変わらないことが分かった。とても短い時間でしか家族と過ごす時はない。だからその時々を大切にしたい。そして笑顔で過ごしたい。
 そして私が最近、「家族っていいな。」と感じた時がある。それは普通の日常会話からだ。私が学校へ行くときの家族からの「いってらっしゃい。」という見送りの声や「おかえり。」という出迎えの声を聞いた時、なぜかとてもうれしかった。その言葉から、家族が家にいる安心さが伝わってきたからだ。こういう家族を感じたときはありがとうと言いたくなる。感謝の気持ちを言葉にできたら自然に行動にもでてくると思う。それが私の考えだ。
 私がこの作文で伝えたいことは二つある。
 一つ目は自分の気持ちに素直でいるということだ。心の中にためているだけじゃ伝わらない。自分の気持ちを言葉にするということはとても難しいことだ。でもそこを伝えることによって初めて意味を持つ。これからは積極的に自分の気持ちを言葉で表したいと思う。
 二つ目は家族という大切な存在に対していつも感謝の気持ちを持つということだ。どんな時でも家族は私の事を考えてくれているということを忘れずにいたい。
 父が父で良かった。母が母で良かった。この家族が私の家族で本当に良かった。そう思える事が一番うれしい。この気持を忘れずに素直な自分でいたい。
 いつも心にありがとう。心からありがとう。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「祖 父」
 周南市立秋月中学校 3年 河村 一輝 さん
 
 僕の祖父は、自分の店を持っていて一人で毎日働いています。 祖父は、80歳を超えていますが、仕事を休んだことはほとんどありません。
 僕は祖父が好きです。けれど、こんな高齢になっても仕事をしている祖父の行動がよく理解できませんでした。祖母は病気のため右半身が不自由なのに一人で家事を行っているので、祖父に対して、仕事より祖母の手伝いをした方がいいのに、と思っていました。
 祖父は、時々僕を店に連れて行きます。80歳を超えているので、重い荷物は僕が運びます。その日も、荷物が届いたので僕を呼んで荷物の整理をしていました。その時、昔ながらのお客さんが来ました。農機具を買いに来たのかなと、思っていると、外に止めてあった軽トラックから、古い農機具を運び出して、「これが、動かなくなったんで、修理して欲しいんじゃが、お願いできますか?」と言ってきました。僕は、また修理かと思いました。修理は新品の農機具が売れるのと違って、大変です。まず、どこがいけないのかを調べるために、部分的に分解し、破損箇所を見つけて修理し、また組み立てていくという手順になるので、膨大な時間と苦労がかかります。しかも祖父は、そんな仕事を、とても安く修理するのでよくお客さんが来ます。中には、エンジンそのものが壊れていて取り替えることもありました。僕は思わず祖父の顔を見ましたが、祖父は嫌な顔をせずにむしろ喜んでいるように、快く引き受けました。僕はすごいなと思いました。それからその農機具を修理しお客さんに渡しました。その後、僕が「修理してくれと言われて、どうして嫌な顔をせずに喜んでいられるの。」と、尋ねると祖父は、どうしてそんな事を言うのかというような驚いた顔で、こう言いました。「自分がされて一番嬉しいことをしているだけだ。」僕は今まで、あんな事を考えていたのが恥ずかしくなりました。そして、祖父は立派だなと思いました。またある日、電話が事務所にかかってきて、修理して欲しい機械があるのだが持って行けないので、取りに来て欲しいという内容でした。しかも、場所は、大島で、ここからだと結構な距離があります。さすがに祖父も返事を渋るだろうと思った時、「分かりました。すぐ行きます。」という即答。僕は、改めて祖父の仕事に対する姿勢、人としての真っ当な生き方を突きつけられたような衝撃を受け、祖父の顔を見つめました。
 でも、祖母はどう思っているのでしょう?毎日不自由な身体で家事をこなし、祖父に不満や苦情はないのだろうかと思い、聞いてみると「苦情や不満は、正直に言ったらあるけど、仕事が終わったら手伝ってくれるから、言うことはない。」という答えが返ってきました。あのおじいちゃんにして、このおばあちゃんだな、やはりお互いを支え合って生きているんだなと思いました。孫としてほのぼのと嬉しくなってきました。
 祖父の事がいろいろ分かっていったので、どうしても聞きたいと思っていたことを尋ねました。それは「どうやったら、40年も50年も仕事が続けられるか。」ということです。祖父は「自分の好きな仕事だから。」と短い言葉だったけれど、それは僕の心に深く刻まれました。
 祖父は主に四つの事を教えてくれました。「自分にして欲しい事を相手にもする。」「面倒な事でも進んでやる。」「夫婦は支え合って生きていくもの。」そして最後は「仕事は、自分が好きなことを選ぶ。」です。祖父の場合、働くことが一つの大きな楽しみであると同時に、仕事に対する姿勢そのものが祖父の生き様になっているような気がします。人生の大先輩に学んだことを、大切にしていきたいと僕は思っています。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ボランティア活動を通して学んだこと」
 萩光塩学院中学校 3年 福岡 由梨 さん

 ボランティアという言葉は、多くの人が耳にしたことがあると思います。無償で社会事業に奉仕することです。
 「誰かボランティア活動に参加しませんか?」と聞かれ、自ら進んで「やりたい!」と意欲的に参加する人はあまり見受けられません。大半の人は「面倒くさい」「働いたって何も出やしない」という意見が多いと思います。あるテレビ番組に出会うまでは私もその中の「一人」でした。
 私は、中学1年生の夏、ホームルームの時間に海の海岸沿いのゴミ拾いをするボランティア活動をしました。私は最初乗り気ではなく、どうして暑い中こんなことをしなければならないのだと、どうせならスポーツレクやゲームをすればいいのにと、心の中は不平不満でいっぱいでした。ただ何も考えず、もくもくとゴミを拾っては袋に入れ、拾っては袋に入れの繰り返しの作業でした。
 その海岸清掃の活動をした数日後のことでした。私は、あるテレビ番組の主催で他の中学校の生徒たちが「昔の綺麗な海を取り戻そう」というテーマでボランティア活動をする番組を見ました。私より小さい子どもたちがボランティア活動に参加し、汗を流しながらも一生懸命に海岸清掃に取り組んでいました。そんな時、私はリポーターがインタビューしたある男の子に目が止まりました。その男の子は私よりもずっと年下の地元の小学生でした。男の子はインタビューで「また綺麗な海で生き物と遊びたい」と答えていました。
 私はこの男の子の発言を聞き、心を動かされたと同時に、私自身なんて情けないのだろうと自分自身、自らの行動や言動を振りかえりました。私はあの夏のボランティアの日に、何を考えながら活動したのだろうか?ただ「暑い」「面倒くさい」「早く帰って冷房のきいた部屋に入りたい」という自己中心的なことしか考えていなかった自分を反省しました。テレビ番組に出ていた男の子と私の違いとは何なのか考えました。その結果ボランティア活動の内容は「同じ」だけれど、活動の意図、活動中の気持ちや姿勢が私と全く「違い」ました。
 テレビ番組を見て以来ボランティア活動について今までと考え方が変わりました。私の通う「光塩学院」では他校に比べ何倍も奉仕の心について学べる機会が多くあります。幼い頃から宗教の授業や行事、活動を通して奉仕の精神を学んできました。宗教の授業だけではなく、天災・災害があった際には、世界の貧しい人々のために少しでも役に立つよう募金活動をしています。
 私が経験したボランティア活動には、ふたば園に幼児の使うおもちゃの消毒に行ったことがあります。そう考えると、私はたくさん奉仕活動の機会が身近にあり、恵まれていることに気付きました。
 私はそのテレビ番組や光塩の授業を通し、ボランティアは、自分には形のあるごほうびはもらえないけれど、世の中のために役に立ち、みんなから笑顔という最高の「ごほうび」をもらうことができるということを学びました。
 現在私は、地区で行なわれているゴミ拾いなどに積極的に参加しています。これからも、いろいろな役に立つ仕事に積極的に参加し、色んな人に声かけをしていきたいです。


☆☆☆【優良賞】☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「心の痛み」
 周南市立秋月中学校 3年 森脇 早紀 さん

 「大丈夫?」「肩を貸そうか?」と声をかけてもらった時、私は迷惑をかけていないかなと心配になりながらも、こんな友達がいてよかったと思いました。
 私は今年の4月、バレーボールの試合でねんざをしてしまいました。ねんざをしたばかりの時は、骨が折れている可能性もあったので、2週間ほどギブスをして歩くという生活をしました。
 私は今までギブスをしなければならないほどのけがをしたことがありませんでした。そのため、ショックも大きかったし、学校に行くのも移動教室など不安なことが一杯でした。
 まず、ギブスをつけてから初めて学校に行った日には、3階の自分の教室から2階にある理科室に行くという試練が待っていました。私一人では階段の昇り降りが出来ません。友達に松葉杖や教科書をもってもらったり、肩を貸してもらったりして移動します。そういうことを人に何度も頼むのは気が引けるし相手は何と思うだろうと、私は心の中で勝手にいろいろと想像していました。
 私は不安一杯の心を抱えながら階段の前まで行きました。そんな私に友達は「私が教科書持つよ」「じゃあ私は松葉杖」と言って私の荷物を理科室まで運んでくれました。また、別の友達は「肩を貸すよ」と言って、私のペースに合わせてゆっくり歩いてくれました。そして、理科室までの長い道のりにかけてくれた言葉の一つひとつが、私の心を温かく包んでいきました。私の曇った心は友達の太陽のような心で、一気に晴れていったのです。
 家に帰ってから母にこのことを報告すると母は、「あなたの周りにもしあなたと同じ立場の人がいたらどんなふうに接するかな?」と尋ねました。私は思い出しました。去年弟が私と同じようにけがをした時のことを。私は弟のけがの痛みや精神的な苦しみを全く理解しようとはしませんでした。それどころか、追い打ちをかけるように「お姉ちゃんはけがなんか絶対にしないよ」と自分がけがをしていないことを自慢していました。弟はどんなに辛かったでしょうか。
 それなのに今回、弟は私にとても優しくしてくれました。人の痛みがわかるからです。弟はけがの痛みだけでなく、周囲の人から言われた心ない言葉がどれだけ人の心を弱らせるか知っていたのです。だから私を傷つけることは決して言わず、優しく接してくれたのです。私は自分がけがをして初めて弟のけがの痛み、心の痛みに気づきました。弟に申し訳ない気持ちで一杯になりました。
 でも、私の心の中に疑問が生まれました。それは私の友達はギブスをつけたこともけがをしたこともないのに、なぜ私の気持ちを理解してくれたのかということです。友達は自分が実際に経験したのではないから、私の本当の痛みやつらさはわからないはずです。それなのに私に優しく接してくれました。なぜそんなことが出来たのでしょうか。
 そう考える私の心の中に普段よく耳にする「思いやり」という言葉が浮かびました。誰だって相手と全く同じ気持ちになることは出来ません。なぜなら自分と相手は違う人間だから。でも、相手の気持ちに近づくことは出来ます。優しさは「今この人はどんな気持ちなんだろう」と考え、その人と同じ立場や経験をしていなくても、相手の気持ちをわかろうとするところから生まれるのだと知りました。わかろうとする気持ちが思いやりなのです。友達は自分が実際経験したのではないから痛みやつらさはわかりません。でもそれをわかろうとすることで自然な優しさが生まれたんだと思います。けがは痛みと共に私にたくさんのことを教えてくれました。これから私は人の痛みをわかろうとする気持ちを忘れないようにしたいと思います。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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