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山口県青少年育成県民会議

 
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令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介(優良賞)
2024/09/26
『配慮と差別の境界線』
 田布施町立田布施中学校 3年 山本 小春

 私はアセクシャル、無性愛と呼ばれるセクシュアリティをもっている。
 近年、LGBTQ+の言葉や理解が深まったことにより、私のような珍しいセクシュアリティへの偏見が少なくなっている。そして偏見が少なくなるだけでなく、それを個性として認めてくれるようになった。
 だが、最近これらが認められるようになり、ある問題が表に出てきた。それは、配慮と差別の境界線をどうするかという問題だ。
 私は以前、好きな人について聞かれたことがあった。その時は、この質問には特別何とも思わなかったのだが、別の友人に「小春は少し考え方が違うから話変えよう」と言われたことがあった。私は、このセリフがどうにも頭から消えなかった。その友人も、私のことを思って話を変えてくれたこともわかっていたのだがどうしても、消えなかった。
 そんなとき、「ポリティカルコレクトネス」のやりすぎが問題とされていることを知った。私はこの問題を知ったとき自分と同じようなことで悩んでいる人がいるのだと初めて学んだ。「ポリティカルコレクトネス」「ポリコレ」とは性のことに限られたものではなく人種や年齢、障害の有無などによるマイノリティ・社会的弱者を守るものであるのだが、この「ポリコレ」というものに配慮しすぎており、最近ではその本来の目的が忘れられているように感じる。それは、インターネット上での炎上や映画などの作品群への表現の制限などだ。
 本来、人を守るためにある「ポリコレ」をインターネット上での攻撃として使ってもよいのだろうか。そして、「ポリコレ」によって表現を制限してしまっても良いのだろうかと思う。
 インターネット上では、「ポリコレ」への配慮ができていないと炎上したり、逆に「ポリコレ」への配慮が難しいということで共感を呼んだり、とても線引きが困難な状態がある。そのため、インターネットというとても広い世界での「ポリコレ」に関するルールや常識を作りそれをたくさんの人で発信することができればそこからインターネット上だけではなく現実でも使えるものになると考える。また、「ポリコレ」についてのルールや常識を作ることで、今よりもよりよい作品製作が行えるのではないだろうか。そして本当の意味での表現の自由がなされると思う。
 加えて、私が以前経験したように配慮したつもりであってもそれが別の意味や差別のように感じられることがある。その感じ方は、人によって違いが少なくとも生じてしまうため「ポリコレ」に関するルールや常識はより多くの人と話し合い、多くの変化を繰り返しながら決めていくものだと思う。
 だからこそ、たくさんの人が利用しているインターネットを使うことはこの問題にとって有効だ。
 このように、差別や偏見が順調に少なくなってきて、私のような珍しいセクシャリティをもつ人が生活しやすくなっている中、配慮と差別の線引きが難しくなってきている。
 そのため、私はインターネットを用いて、たくさんの人と話し合い、配慮と差別の違い、そして「ポリコレ」へのルールや常識をつくることによって「LGBTQ+」や「ポリコレ」などの発信をしやすくすると同時に今まで明確に決まったルールがなく手探りであっただろう映画などといった作品群がこれにより本当の意味での表現の自由になるのではないだろうか。
 そして、今まで「LGBTQ+」や「ポリコレ」といったものを自分は関係がないと思っていた人にも作品を通して知ってもらうことができるのではないだろうか。
 最後に、このように配慮と差別、そして、「ポリコレ」などのルールや常識ができ、どの立場にいる人であっても明るく楽しく過ごすことのできる未来がやって来ることを心から願っている。


 

令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介(優良賞)
2024/09/26
『本当の友達関係とは』
 周南市立太華中学校 3年 水沼 花梨

 教室で響く笑い声。それは、いつも、みんなにとって「楽しい」と感じられるものでしょうか。私は、時々、一緒に笑えない自分に気づくことがあります。例えば、授業で誰かが答えを間違えたとき、冷たい笑いを感じます。「なんでこんな問題も解けないわけ?」というセリフが聞こえてきそうな笑い。皆さんは、この「笑い」について、どう思いますか。
 小学校2年生の頃、算数の時間に、答えを間違えたことがあります。周りから聞こえる笑いが、自分を蔑むように聞こえ、その後、自分から手を挙げることができなくなりました。
 桜が舞う季節が何回か過ぎたある日、クラスメイトが容姿を批判されているところにでくわしました。「あなたもそう思うよね」と声を掛けられ、「そうだね」と思わず言ってしまいました。いろいろな経験を重ねて、今では、同調圧力を掛けられても人に流されない自分の芯ができました。しかし、それと同時に、「自分もそう思われているのではないか」という不安に駆られるようになってしまいました。他の人の話題を耳にしても、自分のことを言われているように辛くなったり、自分が笑われているのではないかと聞き耳を立てたりしてしまう自分自身が嫌になります。友達と仲良くしていても、「自分は友達を演じているのではないか。本当の友達ではないのではないか」と自分自身を疑ったりしてしまうのです。
 ふとしたきっかけで、こんなふうになってしまうのは、きっと、私だけではないでしょう。もしかすると、もっと深刻に捉えて、自分を傷つける人もいるかもしれません。
 人は、なぜ、自分より下の人を見つけることによって安心したり、自分という存在を認めてもらえない悔しさを他人にぶつけたりするのでしょうか。それは、人の弱さの表れだと私は思います。いじめも、差別も、迫害も根っこは同じ。そう考えると、これらは本当に根が深く、どうしようもないことなのかもしれないとすら思えてきます。そして、そのきっかけになるのは「小さな違い」だったりするのです。さらに、自分が矢面に立ちたくないために、本心とは違う反応をしてしまうことも多く、これも人の弱さの表れだと思います。「目立たないこと」「同じであること」は、そんなに大切なことなのでしょうか。
 「多様性」という言葉を、よく耳にします。話し合いの場面でも、いろいろな意見が出る方が、気づきや発見があって盛り上がります。まして、異なる経験をもつ人たちが集まる集団でどんどんアイディアを出すことができたらどんなに楽しいでしょうか。
 私は吹奏楽部に所属していますが、本当にさまざまなキャラクターの人がいます。そして、それぞれの奏でる音は、それこそ多種多様です。そして、それが一つに合わさった時の重厚感に、いつも感動することができます。
 それぞれの人がもっている個性や視点を、「ずれている」とか「性格悪いよね」と、ネガティブな言葉ですぐに「はじく」のではなく、いろんな考え方を受け入れ、交流することで、私たちを取り巻く世界は「音楽」みたいに豊かになっていくのではないか。最近、私はそのように思います。
 周囲の反応を気にせず発言でき、心から「楽しい」と感じながら笑い合えるクラスになるといいなあ。そのためには、どうするべきでしょうか。
 「隗より始めよ。」私にできることを考えてみました。まずは疑心暗鬼をやめて、明るく笑うこと。さらに、友達の発言に「いいね!」と反応すること。ちょっとくらい間違えてしまっても「大丈夫!」と思い、笑いとばせるような友達関係を築きたいです。私から明るく、楽しい波が広がっていきますように!


 

令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介 優秀(県民会議会長賞)
2024/09/26
『言葉が伝えた心の支え』
 周南市立富田中学校 2年 田邊 優衣

 あなたが「心の支え」と聞いて最初に思い浮かべるのは何ですか。自分の心の支えのことですか、誰かの心の支えのことですか、それ以外のことですか。人によって心にぴったりと当てはまるものは違いますが、私が最初に思い浮かぶのは私自身の心の支えである、親友です。
「全部、受け入れるよ。」
これは彼女が放った言葉の中で一番印象に残り、一番嬉しかった言葉です。
 私と親友の出会いは、小学4年生のとき、彼女が転校生として同じクラスに転入したことでした。このときから親友の歯車が動き始めました。気づいたら仲良くなって、気づいたら親友と呼び合って、気づいたら心の支えとなっていました。そんな「気づいたら」の連発が友情を深めていきました。
 私たちはみんなをまとめたり、リーダーに選ばれたりすることが多く、そのような部分でも協力することが多かったです。中学生になってからも同じ部活動に所属し、ずっと変わらない関係です。同級生だけではなく、先生方、両親も公認の仲良しコンビです。
 ここまで聞くと何事も順調に進んでいるように感じられると思います。ですが、立ち止まっていることばかりです。
 「止まれ」のサインを出しているのは私の吃音症です。吃音症とは言葉を繰り返したり、伸ばしたり、出づらくなってしまう症状が現れることをいいます。治療法は確立されていません。私の場合、あ行が言いにくくなることが多く、挨拶ができなかったり、話すときに最初の一音が出なかったりします。また、親友の名前もあ行から始まり、親友の名前でさえ言えないこともあります。すごく素敵な名前なのに…。名前を呼べないことはかなり辛いことです。明るい話だったのに、私のせいで気を使わせてしまうこと、話したいことが伝えられないこと。本当に嫌でした。
 吃音をもつ人は日本では約120万人100人に1人が吃音により少しでも苦に感じたことがあるということです。また、言葉の出やすさには波があります。言葉が出にくいときは「どうやったら読みやすいか」を工夫しています。しかし、原稿を睨みつけながら音が出ずに息だけが吐き出されます。声になるはずの音と文字が分裂して喉に張りつく感覚があります。「吃音だから」といって諦めてきたことが今までたくさんありました。
 ですが、今は音と文字が分裂しようとも、張りつこうともやりたいと思ったことに挑戦するように心がけています。なぜなら「全てを受け入れる」と言ってくれる親友がいるからです。言えなくても、後でめいいっぱい話を聞いてもらおう。上手くいってもたくさん話そう。こう思えているからです。本人に聞いてみると、言葉が詰まったときは「ゆっくりでいいよ」と「頑張れ」と思ってくれているそうです。「やっぱり」と思いました。やっぱり私の親友は受け入れてくれている。受け入れてくれているからこう思えるのだ、と。だから、親友とは楽に話すことができています。立ち止まりながら、それを糧として私たちは少しずつ前に進んでいるのです。
 私が伝えたいことは、「心の支え」は自分らしさを与えてくれるもの、一緒に歩んでくれるものだということです。私は吃音を通して気づくことができましたが、きっと、吃音がなくても同じことを思っているはずです。出会えたから、私は気づくことができ、挑戦もできています。彼女も違う形で同じように思ってくれているそうなので、「お互いが心の支え」なのです。「支え」があるからこそ、「自立」が輝くと思っています。
 あなたが「心の支え」と聞いて最初に思い浮かべるのは何ですか。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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