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山口県青少年育成県民会議

 
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令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介 優秀(県民会議会長賞)
2024/09/26
『平等から公平へ』
 周南市立富田中学校 2年 藤井 香蓮 

 2022年4月に入学した私の中学校は、この年から学ランやセーラー服からブレザー型の制服に移行しました。移行理由は、制服のもつ機能性・安全性や今後の社会変化に対応できるためといいます。ブレザーは左右どちらにも取り付けが可能なボタン仕様で、ボトムスにはスラックスとスカートが用意され、自由に選ぶことができます。私はスラックスだとトイレが難しいと考えてスカートを選びましたが、偶然被服店で会った友達はスラックスにすると言っていました。
 さて、ここまで私の話を聞いた方の中には、私の性別が男なのか女なのか文脈から読み取ろうとした方もいるのではないでしょうか。「スカートを選んだ」とあるので、女の子なんだろうなと直感的に思った方もいるでしょう。答えはイエスです。私は生物学上も性自認も女であり、性的指向は男です。
 入学当初感じたことは、生物学上「女」とされる人の制服姿は自由度が高い反面、生物学上「男」とされる人の制服姿はスラックス一択と、選択に差があることでした。
 現在、私は中学2年生に進級し、楽しい学校生活を送っています。たくさんの人と関わる中で、入学した頃よりも一人一人を深く知る機会が増えたように思います。中には、生物学上「女」でも性自認が異なる人、性的指向が女の人、どちらも好きになるという、性的指向が男と女両方という人もいます。私の周りにも生物学上「女」とされる人の中に、様々な性的マイノリティーの友達がいるかもしれません。だとすれば、生物学上「男」とされる人の中にも、様々な性的マイノリティーの友達がいると考えるのは不思議なことではありません。学ランかブレザーにスラックス姿で日々学校生活をやり過ごす性自認が女である友達がいるかもしれません。制服、着替え、トイレといった日常生活を苦痛に感じていても、それを声に出せない友達がいるかもしれません。
 社会に出る前の私たち10代やそれより下の年齢の者は、園や学校という場所が公的社会の全てで、小さくてもそれが私たちの社会なのです。性という観点から今いる社会に生きづらさを感じているとしたら、そこから先の未来に希望を見出せないのではないでしょうか。きっと昔から様々な性的マイノリティーは存在していたはずで、それが情報社会が加速する近年、私たちの身近な存在になり、だんだんと定着しつつあるのでしょう。中学校においても、社会変化に対応できるよう制服が移行しました。そのような時代の移り変わりの「はざま」で私たちは生きているのだと思います。
 以前、学校の道徳の授業で公平とは何かを考える機会がありました。私はすぐに平等という言葉が思い浮かびましたが、平等と公平とは似ているようで全く別の意味であることを知りました。平等とは誰もが皆等しいこと、全員に対して同じ対応をすることで、公平とは能力や状況に応じて適切な扱いを受けること、全員が同じ機会を確保できるようにすることです。平等と公平について様々な性の観点から考えると、制服移行は性別を区別せず生徒一人一人に平等なものが提供された通過点に過ぎません。そして、多様な性を生きる私たちが学校という社会の中で、自分は受け入れられていると実感できることが真の公平といえるでしょう。しかし、平等から公平を築くことは容易ではありません。相手には見えていることも自分には見えていないことがあるはずです。様々な問題に気づけること、どんな小さい事でも自分事として捉える意識を私たち一人一人が持つことが大切なのではないでしょうか。平等から公平な学校社会の実現は、そこから羽ばたく私たちの未来につながる希望の力になると私は信じています。


 

令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介 優秀(教育長賞)
2024/09/26
『そうじゃないかも』
 萩市立萩東中学校 2年 松岡 礼文 

「えっ、野球部じゃないの?」
 初対面の人が僕にこの言葉をかける確率はかなり高い。僕と同世代の人から高齢の方まで、どの年代の人も、僕を一目見て野球部員だと思うらしい。僕の丸刈りのヘアスタイルは、ごく当たり前に野球少年に変換される。野球部員に間違えられても、「またか」と思う程度で、むしろ会話の糸口をつかむことができて助かるくらいの気分だ。
「こんな髪型ですけど、吹奏楽部員です。」
と、自分から言うことさえあった。そんなふうに笑って会話をしながらも、どこか違和感があった。
 「丸刈りは野球少年」という多くの人が共有している認識は、ここに僕がいる以上、正しくはない。にもかかわらず、よどみない会話をしたいがために、その固定的な見方を利用しているのが、まぎれもなくこの僕だ。正しくないことを知っているのに、正すこともなく、茶化しているようで、あらためて考えると恥ずかしい。
 野球少年に間違えられることでは気分を害することはないが、固定的な見方によって、悲しい思いをしたり、傷ついたり、悔しさを感じることはある。例えば、
「男子なんだから泣くな。」
と言われると、ますます泣きたくなるように。そのようなものの見方から、差別や争いごとが生じていることも、これまで見聞きしてきた。一方的な決めつけや偏見が他者や自分の可能性を奪うことがある。そういう社会を生きるのは、正直いやだ。
 目に見えるものを、そのまま単純にそれとして受け取ることは難しい。丸刈りを見れば、野球少年が思い浮かび、スカートを見れば女性を連想するように、目に見えるものとは別の意味を伴って、認識してしまう。僕は一体いつ、丸刈りと野球少年を結びつける見方を身につけたのだろう。思い出そうとしても無理だ。いつの間にか、なんとなく手にしていた。
 固定的なものの見方がたくさんの人に共有されると、特定の社会では、それが「ふつう」や「当たり前」になり、あたかも判断基準のような働きをする。しかし、その基準はもっともらしいけれど、必ずしも正しいわけではない。それは、暮らしている国や地域の歴史、文化、習慣によって異なる。性別や年齢による違いもあるだろう。つまり、それは絶対的なものではないし、不変的なものでもない。目に見えるものがすべてではないことも知ってはいるが、自分の中に根付く「ふつう」に寄りかかってしまうのも事実だ。積極的に取り込もうとしたつもりはないのに、無自覚に持っている固定的な見方。それを僕から無くすことは難しいのかもしれない。
 それならば、固定的な見方を持つ自分を認めつつ、その見方が不確かなものだという自覚を持つしかない。無意識に自分に根づく価値観をゼロにすることはできなくても、その価値観に対して「そうじゃないかも」という声を自分にかける努力なら、僕にも続けることができる。
 自分が見ているものよりも、見えていないものの方が圧倒的に多い。僕に見えていないものも、誰かの目には映っているだろう。他者を思いやること、尊重すること、多様であることを認めることとは、僕には見えていない景色を、他の人は見つめているのだと感じることなのではないかと思う。固定的な見方で不用意に他者を傷つけたり、その見方を捨てきれない自分に嫌気がさしたりするばかりの毎日はごめんだ。だから、僕は自分のものの見方、感じ方に、「そうじゃないかも」と、いつも問い続けられるような人でありたい。他者や世界とのつながりが、もっと和やかで温かいものになるように。


 

令和6年度少年の主張コンクール発表作文紹介(最優秀賞)
2024/09/26
『空気の読めない私にできること』
 下松市立久保中学校 3年 中島 実優

 「空気を読め。」
と言われた経験はあるだろうか。また、他人に言ったことはあるだろうか。その場の空気を読むことは、生まれたときから身近な大人に自然に教わってきたことだと思う。
 一方で、世の中には先天的な障がいによって、本人がどんなに努力をしても空気の読めない人がいる。私もそのうちの一人だ。ADHDと自閉症を併せもって生まれた私は、先天的な障がいのために協調性に乏しく、人の気持ちを理解することや周りに合わせて行動することが苦手だ。他人が為すことに興味・関心が抱けず、逆に、自分にとって不都合や不満があればすぐに癇癪を起こしていた。また、私は、こんなことを言ったら相手が傷付くなんて理解も想像もできないので、思ったことをすぐに口にした。そのため、周囲からは『空気の読めない、変な子』と認識されていたようだ。
 そんな私は、中学校に入学してから困難を強いられるようになった。中学校生活はクラスの枠を越えた活動が増えたからだ。そのため、今まで以上に協調性が要求された。しかも、一つ一つの行動に責任が伴う。
 ある日、私はこう言われた。「空気を読め」と。それまで障がいを盾に言い訳してきた私の心に、深く刺さった。私の大嫌いな言葉だ。それと同時に、今まで私がとっていた行動が、自分勝手で他人に迷惑をかけていたことを知り、自分自身に苛立ちを覚えた。
 それからというもの、私は空気の読み方を私なりに考えた。いろいろな場面を想定し、その対処法を考え、実践した。しかし、なかなか上手くいかない。そして、私は悟った。人の何倍も状況判断をする努力をして、ようやく私は他の人と同じスタートラインに立てるのだと。その後、私は自分にしかできないことを探そうとした。
 2年生に進級し、私の価値観は大きく変わった。いつも陰日なたなく、みんなのために一生懸命働いている友達の存在に気づいた。彼らの、誰に対しても思いやりの心をもって接する姿に感動した。もしかしたら私にも何かできるかも……と思い、彼らの真似をした。私は手伝うことから始めた。手伝い終わって他の人から感謝されたとき、私でも人の役に立てた、頑張って良かったと思えた。とても嬉しく、幸せだった。その後も、みんながなかなか挑戦しないことに積極的に挑戦した。友達から、「実優のその前向きな姿勢に勇気づけられたよ」という声を聞いたときは嬉しかった。
 いろいろなことに挑戦した私だが、一番印象に残っているのは、文化祭の合唱コンクールだ。始めは上手く指示できるか不安だった。でも、その心配は杞憂。数名の「頑張ろう」という声で、クラス全体に頑張ろうという前向きな空気が生まれた。コンクールの結果は金賞。本当に嬉しく、やって良かったと思った。空気を読むことができないと言われている私が、クラスメイトの支えもあり、空気を作ることができた。
 とかく少数派や個の意見・考えは、多数決によって埋没してしまう。授業中、誰かが意見を言うまで発言しにくい、もしくは誰も発言しない。こういう消極的な空気に包まれる場面を何度も見た。そこで発言した人に、空気が読めない人として冷ややかな視線を浴びせる場面も見た。でも、本当に正しいのは何だろう。私は、これからも正しいと思ったことを、正しいと思ったように行動していきたい。もちろん、うまくいかないこともあるだろう。でも何もしないよりはいいと思う。
 私は空気が読めない。でも、空気を作ることはできる。その空気が良くなるか、悪くなるかは本人次第。だからこそ、私は良い空気を作っていきたい。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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